使徒言行録16章11〜18節 「楽しくも、苦しい伝道」

 伝道は命をかけてするものです。道を伝える。道とは私たちの生き方そのものです。生き方そのものを人に伝える時。私たちの命そのものを伝えるということになります。伝道は命がけです。人生をかけなければなりません。

 私は、大阪のぞみ教会の牧師ですが。私が神のために自分を献げようと決意したのは、大学生の時でした。友と毎日祈るために集まっていた。その時に、徐々に主のために働かなくてはと思うようになっていきました。そのためにすべてをささげて出ていこうと。私だけではなくて、一緒に祈っていた仲間も主のために出て行きました。今牧師をしております。

 聖霊は見えない神のお働き、見えない神が私たちの足の底といいますか、存在全体を支えて導いてくださります。いかに私の歩みが頼りなくても、主の霊が支えてくださいますから。その歩みは、続けられていくのです。時に語る事を求め、時に語ることを禁じる。

 キリストの使徒であるパウロは、伝道の志に燃えておりました。本日ご一緒に読んでいます箇所はパウロが二回目の伝道旅行に出発した時の話です。はじめパウロとバルナバという二人の間に仲違いがありました。ふたりとも非常に優れた主の器です。しかし、彼らには意見の対立があった。マルコという弟子が、以前旅の途中で脱落してしまったことがあった。そのことからマルコという弟子は、連れて行かない方が良い。とパウロは考えたのです。しかし、バルナバは違いました。一緒に連れて行くべきだと考えた。そこで仲違いがこってしまって、パウロとバルナバは別行動を取るということになってしまいました。バルナバはすぐに船にのって出かけ、パウロは陸路を辿って伝道の旅に乗り出しました。

 必ずしも教会というのは、いつもお手々つないで仲良くというわけではない。それぞれが生きているものである以上、別々の考えを持つことだってある。どちらが正しいかなどということは容易に判別はつきません。だから、それぞれが信じたその道をゆくしかない場合だってある。歴史がその人の歩みが主の導きであったかどうかということを教えてくれるはずです。それまでは、先走って誰かの伝道の業が正しいか正しくないかなどということを判断するのは慎まなければならないかもしれません。

 しかし、言えることは、教会というのは、いつも変化に富んでいる、生きているべきであるということでしょう。うん十年ずっとおんなじことを、ずっと変わらず。ということが本当にいきいきと、そこにいる人達によって常に選択されて、燃えたぎるエナジーがそこに溢れていて、同じものを保っているということがもしかしたらありうるかもしれませんが。多くの場合、生きていれば変化しますね。私ももう35年神の導きによって生かされていますが、この35年という生涯は激動の生涯でした。生きていれば動くといのが当然で、変化するということが当然ですね。本当に教会が生きているかどうか。躍動しているか。教会の中に対立があったとしても、主のために皆が動くというところで一致しているか。生きているのか死んでいるのか。目を覚ましているのか、眠っているのか。そういうことを点検してみる必要があると思います。日本という文脈の中で、伝道が進まない。ならば、見なおしていいんじゃないでしょうか、自分たちの歩みを。徹底的に自己を見直すことで、新しい道は必ず開けると思います。主の器なのですから。

 パウロと、バルナバは対立しましたが、自分たちのなすべきことをしなければということで、止まっていることはできずに、それぞれ別々の道を歩みだしたわけです。パウロは、陸路を辿ってリストラという土地で、テモテと出会って、テモテがパウロたちに同伴してくれることになりました。バルナバという信頼できる友と分かれなければならなくなって、それは失意の中にパウロはあったでしょう。しかし、そのパウロを慰めるように、テモテという人がパウロのもとに送られてくるわけです。

 もしも、一見ネガティブなというか、悲しいことが起こっても、それで心をなくすほどに心を乱してはいけません。なぜなら、神は必ず慰めを与えてくださるから。どんなに悲しいことが起こっても、慰めはその後に必ずある。それが父のなさることです。父親はただ単に子供を鍛えるだけの、厳しさだけの方じゃない。回復の機会を必ず備えられる。それが私たちの信じております。天の父なる神です。

 ヘブライ人への手紙の中でパウロはこのような言葉を残しております。12章7節。

 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。(これというのは試練のこと)神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。

 パウロは、バルナバとの離別を経験することによって、神は悲しみもお与えになるけれども、そのまま決して放置はなされない。ということを学び、苦しみがあっても落胆し続けるのではなくて、神の業を見ることを学んだに違いありません。テモテの手紙第二を見ると、パウロのテモテへの思いが伝わってきます。テモテへの手紙第位に1章1節。

 キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ。

 この言葉一つ一つにパウロの喜びが宿っています。命の危機を沢山経験したパウロです。そのパウロが命をキリストによって約束されている。肉の命が尽き果てようとも、ムチ打ちに何度もあいますが、ローマの鞭ですから鉤爪がついていた。肉が裂け、血が溢れだし、あのイエス様が経験された痛みをパウロも担ったのです。しかし、それでも、命の約束がある。命尽き果てる時でもキリストが命を保障してくださっている。その喜びをのべつつ、自分が使徒であることを手紙に必ずパウロは示します。使徒というのは、私たちからすればまるで特権を得たような特別な存在のように、まぁ、神々しくといいましょうか。うつる気がしますが、本来の意味は、遣わされたもの、という意味です。神によって遣わされて神のミッションに、使命に生きるものとされた。その喜びです。すべてが神の業のために用いられる。その喜び。それをパウロは手紙に記す。

 そして極めつけは愛するテモテと書いていますが、もちろん血のつながりもありません。キリストがおられなかったら、全然結びつくこともなかったでしょう。そんな間柄です。しかし、今はキリストによって 心から、愛する子と呼ぶことができる。愛する子です。子供です。血のつながり以上のつながりを、全く他人だったものに見いだすことができる。この神に結ばれているという幸い。これ以上の喜びは無いんです。神に結びつけば、教会学校の子どもたちみんな、自分の子のように扱うことができる。子供がいるということの幸せ。父が子を、神が人間、子を求められた、その喜びを私たちも味わうことができるのです。

 パウロはトルコを横断していくのですが、その途中、アジア州と呼ばれる場所では、御言葉を語ることが禁じられたと言います。16章6節あたりを見てくだされば分かります。相当長い間、聖霊によって「語るべきではない」と示されたというのです。それはここで福音について語り出せば何かしらの、受け止めきれない危害がパウロたちの身に起こり得たということだろうとも推測できますが、その理由については記されておりません。とにかく、語るべき時でない時は確かにあるということ。それは私たちの心に語りかけてくださる聖霊によって示されるということなのです。

 そんな伝道における行き詰まり状態の中で、パウロは幻を見るのです。それもやはり聖霊による示しによって、幻をみます。16章9節。

 その夜、パウロは幻を見た。その中で1人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。

 と記されております。そして10節。

 マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。

 神が遣わし、神が召す。神が呼んでおられる。遣わされたものとしての自覚はこういうところに現されるのです。招いておられるのを、遣わしてくださっていると心から信じているので、それが見えるようになるのです。私たちの信仰は目に見えるものを見るのではなくて、目に見えないものを信仰によって見るという信仰です。ヘブライ人への信徒への手紙11章1節にこう記されております。

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 望んでいることというのは、神が御言葉によって約束してくださっていること。しかし、未だ現実となっていないかのように見えることです。神は全世界に手をのばして、異邦人に救いの手を差し伸べてくださるというのが、パウロの確信でありましたが、しかしそれがまだまだ現実のものとなっていない。だから、それは望んでいる事柄です。それが実現するためには、見えない神の手を見る信仰。神は必ずここに手を伸ばしてくださるのだという信頼がなければなりません。

 パウロはマケドニア人の幻を見て、そこに見えない神の働きがあるはずだと確信するに至った。そして、トロアスという港に向かったのです。マケドニアというのは、ヨーロッパの方です。ギリシャの方です。そこには一体何が待っているのか。ローマ帝国が支配している時代ですから、ローマの支配があり、そのローマの言うこと一つで命がどうなるかわからない。そんな世界が広がっていたのです。パウロの思い通りにはどうやったってなるはずはありません。しかし、この異教的な世界の中にあっても、神が願われたことは通るはずだ。神が望まれたことは通るはずだ。神が約束の言葉で支えてくださるのならば、自分の働きも実を結ぶはずだ。そう信じて、トロアスの港に降り立ったに違いありません。

 トロアスの港から、不安な思いも持ちながら、何が起こるか分からないという不確実さを抱えながら、しかし神の導きだけを信じて、海を渡り、フィリピというローマの主要都市に着きました。小ローマと言って良いほどに、ローマ化された町並みがそこに広がっていました。そこに数日間滞在します。

 パウロのこれまでの伝道方法は、まずユダヤ教の会堂に言って、神を信じる民に向かって語り始めるというところから伝道がスタートしていきました。しかし、このフィリピにおいては、会堂を見いだすことができずに、祈りの場所である川岸に行かなければなりませんでした。普段の慣れ親しんだ会堂ではなくて、まるで青空教室とでも言ったらよいのでしょうか。青空のもと、川岸でかたりはじめなければならなかった。なれなかったと思います。不安だったと思います。しかし、その語りにリディアという人がこたえて、信仰に入ります。しかも、この人は豪商で、金持ちで、パウロのこれからの伝道を金銭面で力強く支え続けてくれる人でありました。パウロの伝道を支える核になる人をパウロは、このトロアスからの船旅の後すぐに、得るわけです。

 聖霊に促されて、思い切って決断をした。不安な思いでそれをしたかもしれない。主は間髪入れずに、この旅が主によって守られ、パウロ自身の力によるものではなくて、全く主のお力によって導かれていることであることを、リディアという人を通して教えてくださったのです。

 しかし、安心したのもつかの間、次の瞬間パウロは大きな試練に見舞われる。広場にいる女奴隷の占い師。この占い師のために、キリストの名によって悪霊が出て行って占いができないように祈ると。その通りになり、その奴隷である占い師の主人に訴えられて投獄されてしまうという試練がまた待ち受けているのです。

 パウロの歩みというのは、こうやって見てきますと、試練から守り、試練から守り、苦しみから安堵へ、苦しみから安堵へ。ということを経て、信仰が清められて鍛錬されて、成長させられて。主以外の何物をも恐れない信仰が育て上げられていったことが分かるのです。そのパウロの信仰の成長とともに、実りがたくさん与えられて、パウロの事を支える人があらわれる。もちろん、キリストの道を求めて従うキリスト者も沢山与えられていく。

 パウロは68年頃に、ローマによって斬首されて殉教したのではないかと伝えられていますが、しかし、彼の雄々しい信仰が肉の命を失われてなお、私たちの中に生き。パウロを通じ確かに神の業がこれからも進められていくであろうことを信じることができます。肉の命失ってなお、聖書からパウロは私たちにメッセージを届け続ける。キリストが心に宿るというこの偉大なる恵みを手渡して生きたい。この愛する日本の民に対して。そう決意して前に一歩進みたいと思います。アーメン。