ヨハネによる福音書19章31〜42節 「確かに葬られた」

 イエス様のお母様であるマリアは、エリサベトという人にこのように言われたことがあります。ルカによる福音書1章45節。

 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

 新約聖書の福音書に流れている考え方は「主の言葉は必ず実現する」「預言は必ず成就する」という信仰、また信念とも言えるかもしれません。

 主の言葉は実現すると信じた人たちによって、神の物語は進められて来ました。聖書を通して神が自分に語りかけてくださった内容を、そのまま信じて従うということがいかに重要か。

 人が神に従うと神の業が起きる。それが聖書が私たちに証ししてくれていることです。

 ヨハネ福音書の著者ヨハネは、本日の箇所で何を言いたいのか。それは先ほどから言っているように「預言は実現した」ということです。

 特に使徒信条をご一緒に学びながら、教会学校にあわせて、大人の礼拝でもこの聖書箇所も読んでおります。使徒信条、日本基督教団の信仰告白の最後の段落が使徒信条ですが。この使徒信条は、教会の初期紀元2世紀後半にローマ教会においてまとめられたローマ信条をもとにつくられております。洗礼式の準備のために必要な信仰告白でありました。

 今日はその中から「十字架につけられ、死にて葬られ」というところに注目したいと思います。特に、「死にて葬られ」です。

 この使徒の信条も、メシアにおいて約束されて来たことが、すなわち預言が実現したのだということを言い表しているとも言えます。

 死んで葬られるということが、死が約束されている。そんなことあるんだろうかと思いますが。それが約束されていたんです。その預言の箇所をまず見ていきたいと思います。本日の箇所の中盤ぐらいのところですが。ヨハネによる福音書19章36節以下です。

 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

 「その骨は一つも砕かれない」ということが旧約に記されている。その箇所はどこなのでしょうか。二つの旧約の言葉が上げられますが、一つ目は、出エジプト記12章46節です。

 一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ちだしてはならない。また、その骨を折ってはならない。

 もう一つは詩篇です。詩篇34編20節

 主に従う人には災いが重なるが

 主はそのすべてから救い出し 

 骨の一本もそこなわれることがないように

 彼を守ってくださる。

 

 出エジプト記。これは過越の祭りに関する規定です。過越の祭りというのはユダヤ人の祭りです。神の怒りが過ぎ越すという意味です。奴隷状態であったエジプトから解放されたことを祝う祭りです。神の怒りがエジプト人に下りました。その時鴨居に羊の血を塗っていたユダヤ人だけが助かった。そのことを祝う祭り。

 この祭りの時に羊を食べます。ユダヤ人が解放されたことを覚える祭り。イエス様がこの過越の羊として屠られたのだ。過越の羊の骨は折ってはならない。イエス様の骨がおられることが無かったということが、過越の羊として屠られた証拠である。ということをヨハネ福音書を書いたヨハネは強調したいんです。

 イエス様の骨は、実は折られる寸前だったのです。ヨハネによる福音書19章32節。

 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。

 イエス様の足が折られるかどうかということは、私の視点から見れば、紙一重のように思えてしまいます。神様の御業というのはそういう紙一重の奇跡が本当に多いですね。イエスさまの左右には犯罪人が十字架にかけられていました。その人達は死んでいませんでした。イエス様は確かにその時死んでいました。本来十字架刑は、長時間苦しみにさらし、長時間恥ずかしめ、さらしものにして殺すものなので。わざとすぐに死なないようにマニュアルができていました。だから、二人の犯罪人が死んではいないということは、ありうることであり、ほとんどの場合長く生かされてしまうのでした。しかし、イエス様は御自分の意思をもって天の父にその命をお委ねになられましたので。殺されたというよりも、御自分の意思をもって御自分を献げられて、ですから、生きているはずでしたが、もうなくなっておられました。

 十字架にかけられたものを、この時にはすぐに殺さなければならなかった。なぜかというと、ヨハネ福音書19章31節にその理由が書かれています。

 その日は準備の日で、翌日は特別な安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残して置かないために、足を折って降ろすように、ピラトに願い出た。

 と書かれております。特別な安息日だから、十字架の上に死体を放置しておくわけにはいかない。ローマ人的な感覚からしますと、死体はそのまま放置して、野獣や鳥にその死体を食べさせるのが、見せしめとして行われていたのですが。ユダヤ人的な感覚からしますと、死体を放置しておくと、その町が汚れるということになるのです。安息日に町が汚れているということは見過ごすことはできない。さらに、この安息日は過越の祭りの期間の特別な安息日である。ならば、なおさら絶対に十字架の上に死体を放置しておくことなどできない。というのがユダヤ人の考え方です。

 だから、早く十字架にかけられしものを死に至らしめ。死体をどけなければいけない。町が汚れないために。日没から次の日がはじまるのがユダヤ人の感覚です。イエス様が十字架で息を引き取られたのが午後三時ですから、日没は大体六時ぐらいでしょうか。二〜三時間の内に決着を付けて、なんとか片付けて清めなければならない。ということなのです。だから、兵士たちが、十字架にかけられたものの足を折って、スネを折って死に至らしめたのです。

 スネをおると、、、ショック死する場合だってあるでしょう。多くは、窒息死する。体を支えきれなくなって、肺が圧迫されて息ができなくて呼吸困難で死にます。

 これで遺体が片付けられればエルサレムが清くなる。そうイエス様を十字架にかけたものたちは思ったのです。しかし、本当にそうでしょうか、遺体を片付ければ清くなるのでしょうか。むしろ、神の独り子を十字架にかけて、何の死刑に値する罪を犯していないイエス様を殺害することこそ、罪の中の罪。汚れの中の汚れ。神の子を十字架にかけることこそ人類にとっては、汚れの中の汚れでありましょう。

 その事が全く分かっていないんです。十字架の周りにいた人たちは外面的な、戒め上の清めしか考えていない。形のうえでのきよさは死体をエルサレムに置かないということで達成できるのかもしれない。しかし、実際に神の独り子に対して犯した罪には気づかないのです。

 神に対して犯した罪に気づかず放置し、それが全く問題ないと思っている。その半面、神が気にもされないようなことで正しいことをしたと自負し、自分は清いと思っている。そんな自己矛盾の中にあることに気付けない。それが私たち人間なのだと。この聖書の箇所は語りかけている。

 確認のために兵士が槍をイエス様のわき腹に突き刺します。この槍の名前は、兵士の名前を取って、ロンギヌスの槍と一般的に言われています。目の前で起こっていることを何も理解せず、ただただ自分がなすべきとをせよと命じられて、ロンギヌスは槍をキリストに突き刺した。しかし、その背後でというか、そこで行われていたことは、人類の罪を取り除くキリストの血が流されていたという、救いの出来事。

 何にも理解できていない内に、救いは達成され。何にも理解できずにそこでキリストの体を突き刺すなどというしてはならないことをしてしまった。すべては、もう事がなされてから気付く。はじめは単なる傍観者、いやそれを邪魔するような存在として歩むしか無かった。しかし、その傍観者でしかない、神の業を邪魔するしかないような人類のために、キリストは犠牲を払われた。そして、そのキリストの行為を受け取るもの、ただただ信じるもの。信仰によってその賜物を受け継ぐものに、神の子として生きる権利が与えられた。

 しかし、このロンギヌスの槍も預言の成就でありました。大事な出来事でした。ゼカリヤ書12章10節以下にこのように記されております。

 わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。

 わたしというこの文の主語は神様です。わたしを刺し貫いた。神様と一体であるもの、メシアを刺し貫いた。それが人間。しかし、預言は成就する。

 人々の意図的に犯す罪、知らずに犯した罪。そういったドロドロとしたものが渦巻いていて、人間はどうにも神の前に常に過ちを犯す。けれども、その人間の罪の現実の中で預言の言葉は次々と成就していく。

 さらに極めつけに、ヨハネはどのようにイエス様が葬られたのかということを通しても、預言の成就であることを証しします。イザヤ書53章9節に以下のような言葉があります。

メシア預言の言葉です。

 彼は不法を働かず

 その口に偽りもなかったのに

 その墓は神に逆らう者と共にされ

 富める者と共に葬られた。

 その墓はというのは、どのようにどんな場所で死ぬのかということを言っているわけですが。十字架には、犯罪人とともにかけられました。そして、墓はアリマタヤのヨセフという人の墓に葬られました。アリマタヤのヨセフというのはユダヤ教の最高法院の議員で金持ちでした。イエス様の弟子となってはいたけれども、イエス様の関係者だということが知れると仕事も何もかも失うという中にあったので、黙っていたのです。富める者です。その墓にイエス様が葬られた。イザヤ書の預言の成就だということです。

 この人が遂に勇気を出してイエス様のご遺体を引き取りに来た。これまでキリスト者であることを隠していた人が、この時とばかりに命をかけてイエス様のご遺体のそばに、そして自分の墓を解放した。ニコデモという人もイエス様のご遺体を迎えにきました。彼は没薬と沈香をもってきた。これは遺体の匂いを消すというか、ご遺体に対する防腐処理のために必要でありました。それが32キログラムほど。32キロの粉を運んでくるのがどれだけ骨の折れる仕事であるか。

 ご遺体を洗いながら、没薬と沈香を混ぜたもの振りかけながら、おそらく粉状だったのではないかと言われています。亜麻布で巻いていきます。

 この行為はユダヤの議員であったアリマタヤのヨセフ、律法の学者だったニコデモにとっては自分の職を失い、社会から排除されるのがわかっている行為。いわゆる自殺行為とも言って良いほどの行為だったのです。しかし、彼らはイエス様が亡くなられたその意味を少しずつ心に理解し始めたのでしょう。自分の人生が例えダメになったとしても、イエス様にお仕えしたいという思いになったのです。

 愛するもののために捨て身になれる世界。それが信仰の世界。愛に生きようとするものの世界です。みなさんも家族の幸せのためだったら捨て身になるでしょう。捨て身になれた時幸せなのは、捨て身になっても構わないと思えたその人本人です。それを受ける人ももちろん幸せでしょうが、それを与えようと思えたその心を持っているその人が最も幸せです。

 

 神に背いていたけれども、それでも救いの道が準備され、預言が成就していく。どんなにキリストを妨害しようとしても妨害できずに、救いの業がなっていく。約束の言葉が次々と実現されていく。それは信じるもの全てに命を与えるため。

 命をいただいたのだから、命をさしだして、キリストよこの私を用いたまえと祈りながら、この身をささげていく。キリストのもとに走り寄って、もうあなたのためにこの身をお使いください。と言える幸い。アリマタヤのヨセフ、ニコデモ。すべてを失う覚悟で、遺体を引きとりにいく二人の姿。その信仰を与え給うた主。

 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

 目の前で起こることは、どうなっていくのか。分かりません。預言が、神の言葉が成就していきます。その現実の中で大事なのは、アリマタヤのヨセフとニコデモの姿です。理解できないかもしれないけれども、神の前で、キリストの前で、自分の糺すべき態度を彼らは糺したのです。周りに聞こえないように内緒でキリストを信じていた、そういう人生をやめて公明正大に、何がなんでもキリストを愛していることを公言していく。この二人の勇気は神に認められて、永遠に刻まれるものになりました。何たる幸い。アーメン。