マルコによる福音書10章13〜16節 「子どもが神の国に入る」

 一体どんな人が神の国に入るのか。ふさわしいのか。それを確かに見極めること。それが今も昔も変わらない欲求というもののようです。私は神に気に入っていただけるのだろうかと。確かに、自分が神に受け入れられるのかどうか。それは真に神を信じる人にとっては大問題でしょう。

 イエス様はそのことに一つの答えをくださいました。マルコによる福音書10章14節。

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

 神の国に入る条件は一つ。子供のように受け入れること。子供のようにということはどういうことなのでしょうか。子供は生きるために、大人を信頼しなければなりません。自分に力が無いことを良く知っているので、信頼するしか生きるすべはありません。信頼するといことが子供らしいということです。

 小さく、貧しく、弱い。その子供は親に信頼するだけ。弱くても、信頼することによって必要なものすべてを得ることができます。

 天の父は、親は、子の必要をすべて先にご存知です。週報にもしるしましたが先日『復活』という映画を見て参りました。ローマの百人隊長の物語です。イエス様を十字架に掛けた側の指揮官です。その人が復活のイエス様と出会うことになるのですが。イエス様に対して彼は顔を向けられないというか、敵方に身をおいていたので、今更イエス様に合わせる顔が無かった。

 しかし、十字架を経て復活されたイエス様は笑みを浮かべながら、百人隊長が敵方であったことを「知っている」とおっしゃるんです。微笑みながらです。すべてを「知っている」とおっしゃり、もはや敵も見方もなく受け入れる。赦しと愛がそこにある。百人隊長は死を克服したいとずっと願ってきたのですが。それもイエス様は知っているとおっしゃった。そして「ただ神を信じなさい」と。信頼しなさいと。

 あなたのことを知っているよ。あなたのこと全部。良いところも悪いところも、これまで犯して来た罪も全部。あなたがどんなことを求めてこだわってきたかも知っているよ。しかし、それでもあなたを私は迎え入れる。全部知っている。でも拒絶しない。この思いに信頼して、親に抱きつきに行く。それがまさに子供です。

 弟子たちはイエス様が子供を受け入れようとしておられることを理解できていませんでした。子供を連れてきた人をしかりつけました。なぜ叱りつけたのか、はっきりと理由は書かれておりませんが、推測はできます。イエス様はマルコ福音書の本日の10章のあとの11章ではエルサレムに入って行かれます。そしてその週の内に十字架に掛けれられて処刑されてしまうのです。イエス様はそのことを自覚しておられました。既に二回ほど御自分が十字架におかかりになられることを言っておられたのです。本日の箇所は十字架の寸前の話なわけです。

 弟子たちには、そのイエス様の緊迫した空気が伝わっていたのでしょう。ただごとではないことが起こる。そのためにエルサレムに向かっている。この大切な時に、子供たちのことでイエス様の思いを煩わせてはいけない。ただでさえイエス様の周りには人が殺到している状況です。病気を治してもらいたいと言って来るもの。またファリサイ派やサドカイ派の人々はイエス様に議論をふっかけようとしていました。

 このままではイエス様は疲れ果ててしまうのではないか。そういう配慮から、子供をイエス様のところには行かせないように。ということだったのだと思います。弟子たちなりに、最大限の配慮と、気配りをしていたということでしょう。

しかし、イエス様はこれを見て怒られました。怒られたんですここが大事。本日の最大のポイントです。

 どんなにイエス様にとって危険な状況が近くにあったとしても、イエス様は信頼の思いをもって来る人を拒まれない。それを邪魔しようものならば、憤られるわけです。イエス様のもとに来て、イエス様に触れていただく。このこと以上に大事なことはない。何を差し置いても、行われるべきこと。

 忙しいとか忙しくないとか、大変とか大変じゃないとか。そんなことよりも、イエス様が一人の人とかかわりを持たられる。そして、その人がイエス様の行為を受け入れる。それはどんなことを差し置いても良いほど大事なことであるのです。

 イエス様がお怒りになられることって、稀です。その稀な姿がここに書かれている。それだけ大事なことであり、イエス様の憤りをしっかりと心にとめるべきです。

 子供のような自分がイエス様の所に走り寄って、「今すぐに」行こうとする。その自分を止める力が人の中には働いています。「今すぐに」ではなくて良いのだという自制心とでも言う心がある。大人である自分、理性的である自分です。理性というのは極めて重要なのです。しかし、本来こうあるべきだということを阻害する理性であったら、そんな理性は役立たずです。まず、親のもとに走り寄るのが、何においても大事なことのはずです。子供にとって親のところに行く以外に大事なことなどありません。

 イエス様が親であるならば、その方のところに行くこと以外に大事なことはありません。イエス様の表情にふれて、イエス様の心に触れて、そうでなければ人間は安心できないし、信頼に生きることはできないし、イエス様のもとでこそはじめて人間らしい人間になるのです。だから、そこにまず行かなければならない。しかし、そこに行ってしまうことをとどまらせる力がある。

 でも、大丈夫、もうこの話を耳にしているものは、イエス様の力の内側にいる。イエス様はそういう力に対して「怒られる」ということを私たちは知っている。そういう力はイエス様が吹き飛ばしてくださる。イエス様の権威によってその力を退けられる。だから、安心して良いのです。

 今週の水曜日にある方が「聖書の御言葉の前にいることができる。これだけで安心なんです」とおっしゃられていました。申命記の17章の言葉なのですが。18〜20節。王に対する言葉です。

 彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟に忠実に守らねばならない。そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、その戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる。

 聖書の言葉に信頼し、その言葉を何度も生きる限りに読みなおし、主を畏れることをそこからまなび、聖書の言葉に忠実に従い、聖書の神の言葉の前に生き続けるならば、そのものを神は必ずお守りくださるということです。これは約束の言葉です。神の言葉には力がある。すべて発せられた瞬間に約束の言葉になるのです。

 イエス様のお叱りの言葉。イエス様はイエス様に近寄っていこうとするものを妨げることを一切なさらない。そして、もし逆にイエス様との間に立って私たちとの間を妨げようとするものがあるならば、それらにお怒りになり、叱り(しかり)飛ばしてくださる。だから、この神の言葉の前に私たちがおるのであれば、主のお叱りの言葉が飛んで、いかに私たちがいろいろな事に信仰が邪魔されていても、それらを吹き飛ばしてくださる。その守りの中におることできる。これが安心なのです。主イエスとの間の妨げは主ご自身が叱り飛ばして退けてくださる。ここに平安があります。

 イエス様は今御自分が危険な状態になるとかないとか、忙しいとか忙しくないとか。そんなことは度外視して近づく私たちの所に起こしくださるということです。

 この記事の後に、金持ちの青年が現れて、この人も「どうやったら神の国に入れるのか」「永遠の命を得ることができるのか」という問題意識を持っていました。彼もまだ確信が無かったんですね。そして、彼は金持ちでありましたから、当時のユダヤ教社会では、成功した人、信仰深い人として周りから扱われていました。だから、自信はどこかにあったのでしょう。しかし、自信はあるけれども、どうしても最後の最後、永遠の命に関しては自信がもてなかった。だから、イエス様に最大の関心をはらって聞きにいったのです。

 イエス様は、その若者に、あなたの財産をこそ手放せとおっしゃられました。自らが誇りとしているもの。自分の強さ、力だと思っているものを手放せということです。先ほどから言っているように、子供になれ、弱いものに、小さなものになれ、貧しきものになれ。ということです。しかし、彼はそれを手放すことはできなかった。自分自身にとって極めて重要なもの、自分のアイデンティティを形作っているもの、自分の力を物語るもの、それがお金だったからです。そしてイエス様はおっしゃられました。マルコ10章29節。

 はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍に受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。

 イエス様はもちろん、大切なものを人から奪い取ろうとしておられるのではないのです。ただただ神の前で受けるしかない子供になるために、一度捨てる必要があるということを教えてくださるのです。私は、幼稚園に登園する子供の姿から、この信仰の秘訣を学ばせてもらった気がします。

 妻が具合が悪い時に、幼稚園に子供を送りに行った時です。それまで、ベタベタにこっちにくっついているくせに、幼稚園の先生や園児が見えた途端に、こちらをスッカリ忘れて前のものに集中して、もう後ろを全くふりかえらない。こちらは寂しい思いも多少はしますが、それが子供にとっては一番良いあり方でしょう。目一杯幼稚園で遊び学んでくれよと言いたくなる。

 後ろ髪ひかれずに、前にある世界に信頼して、信頼するがゆえに、一度すべてを捨てたようになって前のものに集中するのです。するとそれは目の前から消えたように、捨ててしまったようになるけれども、天の父は捨てたようになっているものすべてが人に必要なのはご存知なのであとでまたお返しくださる。だから、前にある世界に、神が働き、神がおられて、神に全幅の信頼をおいて、ただ前の世界に身を投げ出していけば良い。そうすれば、必要なものは加えて与えられる。マタイによる福音書7章33節。

 なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

 子供のように、無力だけれども、外の世界に、神に信頼するしかないものになれ。

 イエス様に触れていただくために来るもの。その道を邪魔するものを許してはおかない。メシア、救い主、権威ある御方、王の中の王、主の中の主。その御方がお叱りくださって、退けてくださる。その御方の一声はローマ皇帝よりも力がある。その方があなたを守り、祝福するためならば、あらゆるものを遠ざける。それが本日の聖書箇所で約束されていることです。子供になって全幅の信頼をもって、すべてをかなぐりすてて、幼稚園児が友達のところの走って一目散で行くように行けば良い。信頼をささげればよい。そのことだけに集中したいのです。

 今日という日からその子供の姿でイエス様に走りよることをはじめたい。今日しかない。目の前に見るべきものは、神への信頼。それだけで良いのです。アーメン。