ペトロの手紙第一 3章18〜19節 「よみにくだり」

 使徒たちの信仰をはっきりと言い表したこの使徒信条。これに自分の信仰を重ねつつ、教会の歩みを続けております。そして、本日は「よみにくだり」というところに注目をしていきたいと思います。これは、キリストのことを語る内容となりますので、いわゆる「キリスト論」と言われる部分の一部です。キリストが一体どんなお方であるのか、それが教会にとって要です。この要石の上に教会を建て上げてまいります。

 教会は建物ではありません。教会はキリストへの信仰によってたつ。キリスト信仰によって歩みをしていくものたちが集まり、交わりを形成し、それがエクレシア、教会と言われるのです。キリスト信仰がなければ、このエクレシアは崩壊している。しかし、このキリスト信仰さえあればそこに教会はたつのです。このポイントを心に刻んでください。建物をいくら立派にしてもダメです。組織をいくら立派にしてもダメです。人に受けるようなイベントをいくら企画してもダメです。キリスト信仰さえあれば良いのです。

 さて、イエス様を語るために大事なこと。イエス様の「陰府にくだり」に注目したいと思います。陰府とは一体なんでしょうか。陰府については日本人は「正直良くわからない」というのが本音ではないでしょうか。そして、おそらく、地獄という言葉とほぼおなじような意味合いで理解していることが多いのではないかとも思います。この陰府についてどんな理解をするのか、ということが実は非常に重要なんです。

 まず一つは、地獄と陰府とは違うということ。これをまず覚えていただきたいと思います。

 死んだら人間はどうなるのか、死んだらすべてがなくなって消えるのではないか。そういう消滅への恐れというものを私は覚えて生きてきました。大きな不安なことがあったりして、夜寝付きが悪かったたりすると、朝「バッ」と突然消滅の恐怖におびえて起きることがありました。今はほとんどありませんが、何度も何度もそうやって怖くなって起きるということがありました。

 しかし、「死んだら消滅するのではない」ということを聖書を通して、知りました。その根拠となる箇所で、非常に重要な箇所がルカによる福音書の16章19節以下なので。ご一緒に確認しておきたいと思います。イエス様のお言葉です。イエス様のお言葉は約束の言葉でもあるということを常に覚えていただきたいと思います。適当なことを適当に言っているわけでは全く無いので、私達はこれを真摯に受け止め、受け入れなければなりません。

ルカによる福音書16章19〜26節

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、あたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先に水を浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえくるしむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

 まず、死ぬとその魂は消滅するのではなくて、意識はあって、ある場所に行くということが分かります。ある場所というのは陰府という場所です。陰府というのは新約聖書のギリシャ語では「ハデス」という言葉です。よく読むと、ハデスには領域がわけられていることが分かる。

 金持ちが行った場所というのは、「さいなまれる」場所。苦しみがそこにあり続ける場所。そして、「舌を冷やさせてください」と言っているということは、熱くて焼けるような場所なんだということが分かります。金持ちは苦しみの場所にいます。そして、ラザロという貧しい人は、「アブラハムのすぐそば」と呼ばれる場所にいる。アブラハムというのは信仰の父ですね。信仰によって生きるものの代表です。ローマの信徒への手紙4章3節にこうあります。

 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。

 アブラハムのすぐそばにおるということは、信仰によって生きている。信じるものたちがおる場所という意味です。それはハデスという陰府にありながらも、宴会をしながら、楽しみ喜びつつすごすことができる。というのです。これがパラディソスという場所だと考えることができる。イエス様が十字架上で言われた言葉もヒントになります。イエス様は十字架の上で、二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられましたが、その片方の犯罪人がイエス様への信仰を告白しました。ルカによる福音書23章42節以下。

 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と行った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 この楽園がパラディソス、パラダイスです。イエス様が十字架にかかって亡くなられた、その日というのは、陰府にくだった日です。ユダヤ人の一日の数え方は、日没から始まるというものです。大体夕方の6時ぐらいでしょうか。イエス様が十字架で亡くなられたのは午後3時頃ですから。その日というのは、陰府にくだっているまさにその時ですね。三日目に復活されます。だから、まだ天にはのぼっておられない時です。その時、この日、イエス様への信仰を告白した犯罪人はイエス様と一緒に、その日のうちにパラダイスにいる。陰府であるけれども、パラダイスである場所。そういう場所があるということです。陰府は二つにわけられていたということなのです。死んだものが行く場所です。

 私たち日本人はどうしても、自分の家族の中にイエス様への信仰を告白するものが少ない。そんな社会に生きているので、この陰府とかいう話はしづらいところがあります。もしかしたら私の愛するあの人はこの陰府の金持ちが行った、火で焼かれ続けるような場所にいるんじゃなかと思ってしまうからです。だから、陰府の話自体あまりしたくない。という風に思ってしまうんです。しかし、主イエスがこうやっておっしゃられたことは、すべて受け止めなければいけないと思います。聞きたいところだけ聞いて、聞きたくないところは聞かないというありかたではまずい。

 しかし、このルカによる福音書のアブラハムの言葉は私は慰めに満ちているとおもうのです。なぜなら、アブラハムはやはり行いによらず、どう神の言葉を受け入れたのかどうか。神の言葉を聞いたのか否か。そのことだけ。彼が気にしているということが分かるからです。

 先ほどのラザロの話の続きの部分を読みたいと思います。ルカによる福音書16章27節以下。

 金持ちは言った。『父よ(金持ちがアブラハムに呼びかけている)、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』(すなわち聖書に耳を傾けよということですね)金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』

 聖書という神の言葉に対してどんな態度をとったか。それが問題だということです。金持ちと貧しいラザロという対比なので、まるで金持ちが悪くて、貧乏が良いというように書かれているようにみえてしまいますが。金持ちか、貧乏かが基準ではありません。貧乏であれば良いのであれば、世界の中で比較的貧しい国に住んでいる人は全員救われるということですか。そうでは全くありません。大事なのは、神からの語りかけにどんな態度をとったかです。これです。アブラハムが気にしていることは。

 聖書を聞く機会の無かった人はどうなるのか。しかし、その人には自然や世界を通して神は語りかけられたでしょう。神は全能者ですから、どこからでも語ることはできます。その神の言葉に対してどんな態度をとったか。そのことが救いにとって大事なことであり、神の言葉を心から聞くものは救われていくのです。その人のうちに神へ信頼する思いがあれば、それを神は確実に受け入れてくださるのです。全能で、愛に満ちておられるお方です。それゆえ、この世の最後の最後まで人の救いはあきらめることはできません。神の前でその人がどんな形で信仰告白をするかはわからない。口がきけなくても信仰告白はできます。病の淵で、何もできなくても、神への思いを受け止めてくださるはずです。ローマの信徒への手紙10章6節にこうあります。

 「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これはキリストを引き下ろすことにほかなりません。

 私たちはその人の良心に信頼して、徹底的に最後の瞬間まで語り続け、御言葉を宣言しつずける以外になすべきことは無いと思います。パラダイスに入れられて、イエス様と一緒にいることを信じて疑わず。

 そして本日の朗読箇所、ペトロの手紙第一にやっと入れるわけですが。3章18〜20節をもう一度お読みいたします。

 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。

 キリストは正しいお方であったのに、正しく無いもののために、人間の罪のために死なれました。肉は死に引き渡されたけれども、霊は神によって復活させられて、生かされて、陰府に下って行かれた。この時には完全に神への信仰と信頼に立ち、滅びとはもはや遠いお方でありましたが、陰府にくだられました。そして、その陰府において、「宣教」なされたと記されております。しかし、これは原文に帰っていきますと、「宣言した」と訳することができる言葉なんです。だから、もともとは一体救いなのか、滅びなのか、どちらを宣言したのかわからない。しかし、キリストは捕らわれた霊たちに対して勝利の宣言をなされたのだ。宣告をなされたのだ、ととらえるのが妥当だと私は思います。

 この捕らわれた霊というのは、ノアの物語の中に出てくる堕天使たちのことでしょう。この時代信仰が冷えきって、天使たちさえも、神への信仰から離れて、すなわち堕天使となって人間と性的な関係を結び、その天使と人間とのあいのこが生まれてきた。という記事があります。あの時の、堕天使でありましょう。その天使たちに、勝利を宣言なさった。

 陰府にくだられ、パラダイスというアブラハムの近く、信じるものたちが集められた場所に行かれて、そこから、堕天使たちに対して勝利が宣言された。そして、その後どこに行かれたのかというと、復活なさったわけです。弟子たちに40日にわたって御自分を示された。その後天に昇られた。その時の記述をよみますと、キリストの昇天によって陰府(ハデス)の一部、パラダイスと言われる場所は天に引きあげられて、第三の天と呼ばれる、神が住まう場所に引きあげられました。

 エフェソの信徒への手紙4章8〜10節をお読みします。

 そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。

 キリストの昇天によって、それまで陰府にあったパラダイスは天に引き上げられた。だから、今キリストへの信仰告白をもって死んだものは、第三の天におるのだ。そう信じることができるということなのです。

 確かにアブラハムと同じように信仰に立つものは、信仰のみによって旅立つものは、パラダイスに入れられ。パラダイスはもはやキリストの昇天と共に天にあり。天において、信じるものは憩うのです。この恵み。

 もう、安心です。天への道が示されました。それは信じるというその道だけです。キリストが陰府にくだられたのは、信じるものを天に引き上げるためです。アーメン。