使徒言行録1章6〜11節 「昇天」

 限られた人生の中で、何をして天に帰るのか。多くの人が100歳に到達することなくこの世を去ります。その日は今日かもしれません。誰にもその時はわからない。その時に、神の前で赦しを乞いつつ、「どうにかして、わたしはこれを達成しようと努力いたしました。」ということができるか。神の前に立った時に、何を言うのか。これが私の最近の特に深い関心です。というのも、あまりにも多くの時間を浪費してきてしまったという自戒が深くあります。与えられている恵みからすれば、もっともっとできることがあっただろうにと。しかし、その自戒をバネに神がお喜びくださること、それを今するとすれば何かを考えて行動したいと思っています。

 本日は「キリストの昇天」ということに注目したい。キリストの昇天には非常に大きな意味があります。キリストが十字架で死に、陰府に下った。陰府とはハデスという言葉で現されるところ。そのハデスには、信じる者たちが入るパラディソス(パラダイス)という場所があった。キリストが十字架で死に陰府にくだられた時、死に対する勝利を宣告された。そして三日目に復活されて、弟子たちに40日にわたって復活の事実を示されて、キリストを信じてキリストと一体となったものは、同じように復活するのだということを示された。そして、昇天なさるときに陰府にあったパラダイスを天にまでご一緒に引き連れて、天に昇ってくださった。だから、キリストを信じて死んだものは、すべて今キリストと共に天におる。と信じて希望を抱くことができます。

 この世に残されているものがなすベきことは、このキリストの十字架と復活、昇天の事実を伝えることです。使徒言行録に本日は注目しておりますが、1章1節には。

 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

 とありますように、ルカによる福音書と使徒言行録の著者であるルカさんは、この一連の出来事を記し、後の人たちが受け継いでいくことができるようにとまとめあげたんです。ここに出てくるテオフィロさまという人は実際にいたかどうかということは非常に疑わしい。いやいなかったんではないかというのが通説ですね。だから、これは献呈という形をとってはいますが、テオフィロというのは「神を愛するもの」というギリシャ語の意味がある名前ですので、信仰に生きるものすべてにこの書物をささげるという意味でここにテオフィロさまと書いたのでしょう。信仰によって読むものすべてに、力が与えられて、キリストの弟子としてキリストがこの世でなそうとしておられることにかかわり、自らの使命として受け止めることができるようになるようにと。

 使命。という言葉。これを使うのがなかなかこそばゆい、と思う時期がありました。私が大学生だったのは2000年ぐらいでしたから、今から16年ほど前でしょうか。この時、「使命を持って」などということを言うのが恥ずかしいというか。なんか、独善的な空気をだすというか。あんまり若い人たちが使命、使命とか言わなくなった時代だったと思います。そして、やっぱり時代というのはつながっていますから、今まさに大学生である20代前後の若者も、「使命に燃えている」ような空気は全くと言ってよいほど感じない。なんとか、時代の波を乗り越えて、やり過ごすか。というような空気がある気がしてなりません。もしかしたら、この認識は間違っているかもしれませんが。。。

 しかし、2000年も前も、今も変わらないと思います。使命をもって、自分が神に対してなすべき仕事に自分なりに取り組んでいるかどうか。それを意識しているかどうか。聖霊を意識しているかどうか。神の力によって仕事をしようとしているかどうか。これが、後々大きく響いてくるであろうと。

 後悔しなければならなくなるのか、いや、神の国目指して徹底的に前に進みつづけるのか。

 神様と向き合って、自分のこころと向き合って。使命を発見して、仕事を発見して、神の前で積み上げていく、天に宝を積み上げていく仕事をしているか。多くの人が、周りがどう思うか。この世の中の価値観はどうか。周りの人が自分を善いと言ってくれるか。周りの人が羨んでくれるか。周りの人よりも自分はちょっとは幸せそうにみえるか。などという、「周り」に価値判断を委ねてしまうような歩みをしてしまっている気がします。

 そんな歩みは捨て去って、神と私、私のこころに問いかけて、私のこころに神がお働きくださることを信じて、聖霊が注がれていくのですから。その聖霊を信じて。心の中の声に耳を傾けて。キリストに従う道を選び。

 この使徒言行録を書いたルカのように、誰になんと言われようとも、なすべきことをなす。この当時、イエス様は重犯罪人として処刑されたのですから。イエスの弟子の肩身は狭かったでしょう。誰が一体このことに耳を傾けてくれるんだろうか。そんな思いももしかしたらもったかも知れない。しかし、神と自分の心に問いかけ、何を自分がなすのか。何を神の前でしなければならないのか。もっとも幸いな自分の道を選びとって、誰になんといわれようとも、ルカはキリストのことを書き記したのです。

 使徒たちにとって、弟子たちにとって最も大事なことは何か。ルカはちゃんと記してくれています。使徒言行録1章4節。

 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたはまもなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 キリストの名による洗礼を授けられたものには、すでに聖霊が注がれています。聖霊を受けると、神の思いが分かるようになります。具体的に言うと聖書の言葉が光り輝いて見えるようになります。聖書に対する理解力が深まります。聖書を読んでわからないというのは、聖霊を求めて、聖霊を意識していないからです。神の働きを信じてこの御言葉を手にとって読み始めるならば、この御言葉が光を放ちはじめます。

 神様はすでに必要なものを備えてくださっている。それを受け取れないのは、私達人間の責任です。受け取ろうとしていないのです。いろいろ理由をつけて、神に従わない理由をこしらえますが、それはその人の意思がそう決断しているのです。他の人の責任では全くありません。神様が問われるのは、あなたがどうかであって、他のひとがどうかではありません。人や物、環境のせいにしてはいけません。

 使徒言行録2章を見れば明らかです。教会は、信じるものたちの集まりは聖霊を受けるのです。遠くの中東の話で済ませることはできない。ペトロさんの説教でヨエル書が引用されてこのように言われています。2章17節。

 神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

 終わりの時というのは、イエス様の御業からはじめられている大きな時のスパンのことです。新しい天と地がつくられる壮大な話です。しかし、これは今も含まれていて、霊がすべての人に注がれて、息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。幻とか、夢というのは、神の働きのために必要なあたえられるべきヴィジョン、目当て、目標です、目的ですね。

 聖霊による洗礼、聖霊の満たし。これは特別な人にだけであって、私には与えられていないよ。そのように考える人がいらっしゃるかもしれません。しかし、そうではない。聖霊降臨節の時に起こったこと。そこには、この人は優れていて、この人は受けるべきではないほど劣悪で。。。などという区別は全くありません。ただただ、祈って期待して待っていただけです。そして、その聖霊を受けた人は、見えない神のお働きというのを強く意識していく人となった。神のお働きを見ようとしているのです。聖霊はイエスの名による洗礼を受けた時、また、信仰が与えられたその時に受けている。第一コリント12章3節に次のような言葉があります。

 聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 聖霊は受けている。だけど、満たしを得ていない。満たしは得られないのは、そちらの方を向くことを怠っているからです。見ていないからわからない。ただそれだけです。神の見えざる手、を祈りによって見出そうとしている人はそれを見出します。見出した人はそれによって励まされる。そして、自分をこの神の業のためにささげていこう。神のために働こう。喜んで仕事をしよう。という風に神の業のために押し出されていく。聖霊を受けるとどうなるかは、使徒言行録1章8節にかかれております。

 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに到るまで、わたしの証人となる。

 私は聖霊を受けたいと願っておりました。洗礼を授けられた時から。しかし、その時は、どういうふうに聖霊を受けたいと思っていたかというと、喜びに溢れて、なんだかキラキラして、力いっぱい、まわりの人が羨むような状態。言うなればトランス状態というか。特別な状態。そんなことばっかりを考えていた。

 しかし、冷静に聖書を読むと、聖霊が与えられるのは、神のこの世界でのお働きのためですね。言うなれば、神の仕事をするためのパワーですよ。嬉しいとか嬉しくないとか、喜びに満ちているとか。もちろん喜びに副次的に満たされるでしょう。しかし、そういうのがはじめじゃないですね。感情はどうあれ、神の業のために前に進む力が与えれる。で、もう全世界にでていっちゃったりするわけです。

 地の果てに到るまで、わたしの証人となる。

 イエス様が生きておられることを何が何でも伝え続けて、人々の霊がよみがえり、神の前に立つようになる。そのために、使われる。神の働きのための内的な力が出てくる。それが、聖霊の究極的な役割です。

 イエス様が天に昇られて、起こってきた驚くべきことは、イエス様が地上で歩まれていたように、弟子たちが聖霊を受けて、神の業に邁進しはじめたということです。誰に言われるでもなく、自由に弟子たちは、命を実際にささげてキリストが生きておられることの証人になりました。処刑されるときにも、イエス様がおられる天を見上げて、確かにイエス様がおられることを証ししました。聖書に書かれている通り、証人となったのです。

 祈りは徹底的に神に心を向ける行為です。どうか祈ってください。聖霊を受けます。使命を思い出します。何をなすべきなのか。天にいって主におほめをいただきたい。主と自分との対話がはじまります。天に昇られたキリストは皆さんの見方です。天にいる聖徒たちも見方です。

 その前に行った時に、赦しをこいながらも、しかし、この点に忠実に取り組もうとしました。といえることを一つ造って、証をたてて天に行きたいと思います。イエス様がおられますので。アーメン。