テモテへの手紙 二 4章1〜2節 「裁きと救い」

 テモテへの手紙は、愛弟子とも言うべきテモテに対するパウロの手紙です。パウロ自身はテモテのことを自分の弟子という表現を使うことは無かったでしょう。彼らにとっては主イエスのみが師でありますから。しかし、間違いなく非常に近しい人でありました。テモテとパウロの間には確実に愛がありました。

 私たちキリスト者同士の愛というのは、どういう形で実現するのでしょうか。

 キリストの前に跪いて、共にキリストが願われていることを実行したい。その単純な志に共に立つものを、皆兄弟姉妹と呼ぶことができる。ここにその基礎があると思います。その兄弟姉妹はキリストという愛の絆でつながれている。と信じることができる。キリスト者の愛は互いにまず信じるところからはじまる。お互いがお互いのことを好きか嫌いか。などということはどうでも良い。私たちはそんな判断をしようと思ったらいくらでも好き、嫌いの評価を出せます。そうではなくて、神様によって一緒に神の目当てを目指してここに座っている。そう確信できるのであれば、私たちはすぐにでも兄弟姉妹となるのです。

 本日は日本国際ギデオン教会の近藤高史(こんどうたかし)さんと、西口省三(にしぐちしょうぞう)さんがお越しくださいました。金曜日から本日まで日本国際ギデオン協会の全国大会が大阪のガーデンパレスで開かれています。牧師午餐会に招かれて出席してまいりました。

 まさにキリストを伝えたいというそのただ一心に集まっている一人一人がそこにおられました。教派教団、出身地。みな違うバラバラのその中で、ただただキリストの言葉だけが伝えられていくようにと集まり協力していくその人々の姿を見ました。あぁ、ここにキリストの兄弟姉妹が確かにおられるのだ。それぞれの素性は全くわからない、しかし、知っていなかったとしても、それでも兄弟姉妹と信じることができました。ただただ神の言葉である聖書を人々に伝えようとしているからです。そして愛し、お慕いするその心が自然と湧いてきました。この一致点だけで私たちは一緒にいることができる。

 議論して喧々諤々、ケンカしている場合じゃない。徹底的に聖書の御言葉だけによる一致。御言葉だけによる兄弟姉妹。その関係を築き、キリストの言葉を伝えることに邁進する歩みをしていきたいと願うものです。

 キリストの言葉を伝えるためには、その福音に実際に生きる。ということが大前提です。そのために自分が、聖書の言葉から聞く。本日もご一緒に聞いてまいりましょう。そしてキリストの弟子の交わりをここに形づくりましょう。御言葉のみによる一致です。

 テモテへの第二の手紙は「牧会書簡」と言われて、パウロがこういうふうにテモテの教会では信仰生活をしていったら良いよ。ということを言うための指南書と言ったらよいでしょうか。それは直接現代の私たちにも語りかけてくるものであります。しかも、この手紙はパウロの遺言と言っても良い手紙です。本日引用されているところの少しあと、テモテへの手紙 4章6節を御覧ください。

 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。

 最後にこれだけは愛するテモテよ、お前に言っておかなければならないことがある。そんな文書なのです。そして、本日の4章1節以下です。

 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現と御国とを思いつつ、厳かに命じます。

 キリスト者の幸いとは何ですか。その一つは、神の御前で生きることができるということにほかなりません。私の人生色々あるけれど。良いこともあったし、悪いこともあった。人に言えないこと、誇れること。色々ある。しかし、今この時、神の御前で自分は生きる。神の前に行くんだから、そのことを思って、テモテに言うべきことを言うことができる。これだけは大事だぞと。神の前で、この人生を考えることができる。これほどに大きな恵みは私はないと思います。例え、それが裁きであったとしても、キリストというあの赦しのお方を知っていて、それで神の前に行くのでは全く違う。キリストは私たちと神との間を必ず執り成してくださるのですから。ただただ信頼するのみです。

 神なしで生きてきた、教会に行く前の、私の20年あまりの人生。ムダだったとは言えませんが、神の前で、神の前にやがて行くから、天に行くから。その時を思って今を大切に生きよう。そうもっと早くに思えていたら、良かったのになぁ。としみじみと思います。しかし、神がここまで導いてくださるためにその道程が必要であったとも言える。

 しかし、今確かに言えることは、天に行く、その時のことを覚えて、神様にお喜びいただけるように生きると生き方は違うだろうということです。すこしでも、ほんの一瞬でも神様のお役にたてるように、この時を使っていく。これほどに充実して、幸せなことは無いです。ある心理学者が、人が幸せと感じるときというのは、誰かに対して貢献していると自分で思えた時だと言います。その認識は正しいと思います。神様に一瞬でも何かで貢献できたら。もう、そして、神様が私の行為にこやかに微笑んでくださったら。もうそれだけで、自分が生きてきた意味があった。生きている価値があった。そう思えるんですよ。その時のことを思って、今を生きることができる。マタイ福音書6章33節には、イエス様の言葉がこのように記されています。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

 神の国と神の義ってどうやって求めるんですか。って思っておられる方は多いのではないでしょうか。

 イエス様がここにおられたならばどうされるだろうか。イエス様の前で小さなこの私がなすべきことはなんなのだろうか。平たく言えば、これが神の国と神の義を求めているということになります。神の御前でものごとを考えるようにすれば良いのです。その時、その時。今神のまえで何をするのか。それだけに集中していて良い。明日のことは明日が思い悩むのだから。明日のことまで心配していたら、意識は神以外のところに行く。だから、今をどう主の前で生きるのか。そこに集中してしまえば良いのです。

 さらに、イエス・キリストはどういうお方であるのかというと。「裁き主」であるのだということが、本日のテモテ第二の4章1節に書かれていることです。

 生きている者と死んだ者を裁くために来られるイエス・キリストの御前で、

 イエス・キリストは裁き主であるということがこの箇所から分かります。そして、何を裁くのかというと、生きているか死んでいるか。を裁くのです。神の前に生きているか。死んでいるか。です。この世で大成功をおさめて人からうらやまれる人がいたとして、その人が神の御前で生きていないのであれば、その人は生きているようで、実は死んでいるということなのです。神の前で生きるということが、それほど最後の裁きにまでつながる。いや、最後の裁きのみならず、今日をどう生きるのか。どう真剣に歩むことができるのかということと直接につながっているということです。

 今日を本気で、神の前で自らをささげて生きていない人は、天に行っても、同じことをするんです。死んだら浄化されてとおぼろげながら、考え希望している方がいますが、どうもこのままで裁きがあるのです。生きるか死ぬかは、この世でどう生きたかで結論がつくのです。神に受け入れられたら、いわゆる浄化というような、清くされるということが起こるでしょうが。しかし、死んだその時は今と変わらない。神への思いは変わらない。だからこそ滅びということがあるのです。死んで、神の前に来なさいと言われても、いや行きたくないです。神に感謝を述べるなどまっぴらだとこの世で考えているひとは、そのまま同じ思いで神の前にでるはずです。だから、神はその人を退け、その人が滅びに定められるということが起こってしまう。第二の死というものを経験してしまう。

 だからこそ、今ここで神の前で襟を糺して、一から神に仕えることの価値が恐ろしい程に高いということが分かるのです。高すぎるほどに高い。私がここで神のまえで変われば人生すべてが変わる。今と天とはつながっているとも言える。今神に対してしたことは、永遠とつながる。これから私たちがどうずっと生きていくのか。といこととつながっているのです。

 パウロはまた、最後の遺言として、大事なこととして4章2節の言葉をも残します。

 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

 御言葉を宣べ伝えるとは聖書を伝えるということです。3章16節。

 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

 御言葉を伝えるということは、「とがめ、戒め、励まし」ということがその教えの中に含まれておりますので、人々の心にぶつかっていくと言いましょうか。チャレンジングな内容を人々にそのまま伝えるということです。耳に聞こえがよいというか、自分にとって都合のよいことが書いてあるわけでは全くありません。これは私の罪の告白なのですが、私は人々に滅びとか、こうすべきでないとか、お前はここを正せ、とかそういうメッセージをどちらかというかマイルドにオブラートに包んで言わないようにといつの間にか考えてしまっていた傾向があった気がします。それは、自分が厳しいことを言って人に嫌われたくない。という愚かな動機であったと思います。その結果、教えを歪めてしまうことになってしまっていたのではないかと。これは牧師や伝道者そして、みなさんにとっても大きな誘惑でしょう。相手の耳に聞こえのいいことだけ言いたいと。

 しかし、聖書はそもそもそういうものじゃない。あなたはここが間違った考え方であるから、こうただしなさいとか。あなたの生き方はそのままで本当にいいんですか。とか、鋭く問いかけてくるのが聖書なんです。

 4章の3節に書かれている通りです。

 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。

 確かに、人間には聞きたいことだけ聞いて聞きたくないことは聞かない。という傾向があるし、ある人の話しは聞くけれども、ある人の話しは聞きたくない。そんな風におもったらずっとそのまんまという状態になることがある。しかし、そういった時にこそ、聖書の言葉に立ち返って、神に立ち返って、人がどうかではない。そうじゃなくて、神が何を語っているかに徹底的に集中していったらよいのです。

 神が何を語っておられるのか。神が私たちに何を求めておられるのか。キリストを伝えたいという純粋な動機で集まっているのか。もう私たちがお互いに向き合って、お互いを批判したりうだうだと訳の分からない議論をしている時じゃない。この聖書の言葉を必要としている人に伝えるために、一緒に神の前で生き返っていただくため。聖霊が注がれて、神の前でその人が復活し、神と共に歩むために。やがて来るべき、キリストが通られた肉体の復活にも皆で達し、ずっとご一緒に歩んでいけるために。もうお互いを見つめるのをやめて、神に皆が方向を定めて、隣人(となりびと)とは神の前に一緒に跪いて、神に向かっている大切な兄弟姉妹であることをしっかりとみて。同じ目当てを目指して歩むのです。

 キリストは皆さんの味方となるために十字架にかかられました。どうかこの人をお救いください。この人を神のもとへ、とお考えになられて、犠牲になられたんです。だから、何があっても皆さんがお帰りになりたいと願われて、あの十字架のキリストの所に集うならば、主は手を伸ばしてくださる。

 しかし、人々がどんな状態に陥って神を求めなくなるのか。それが3章2節に記されております。

 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。

 こういう人々を避けなさいとパウロは言っておるのですが、実のところ、避けるどころではなく、自分がこういう人となっていることもあるのではないでしょうか。こういう人々のためにもキリストは十字架におかかりになられて、神のもとに帰りたいと願うものをすべてお引き受けになるために、ご自身が十字架で犠牲となられて、罪の代価をお支払いになられたのです。

 今ここに来ることができて、神の言葉の前にひざまづくことができて、そしてご一緒にキリストを伝えるために、聖書をもって歩み始める。その所に立たせていただいたのは、神の導きによるところです。だから、今日という与えられている一日の内に神に立ち返って、皆が同じ志をもって、神の言葉を伝えるものとなって、天で神におほめをいただきたい。

 今日という日の内に!ご一緒にキリストを目当てとして歩む歩み、同志として歩む歩みをはじめたいと思います。アーメン。