ヨハネによる福音書14章15〜16節 「聖霊」

 最後の晩餐の後、イエス様は御自分が十字架にかけられることを弟子たちに伝え、教えるべき教えをねんごろに、教え尽くされました。最後の説教の箇所が本日の14章と15、16章です。聖書は魂のこもった書といいますか、皆命がけでこの言葉を紡いでいると言いましょうか。最後の説教ですからイエス様の命がかかっている説教。先週のテモテへの手紙もパウロのテモテへの遺言であるということを確認しました。死への臨場感、すぐそこにある死というものを皆が意識していた。そして、その歩みこそが人を人生の中心、真芯の芯に向かわせるのでありましょう。私たちも今日礼拝に集いましたが、この時に、自分の歩みを見なおして、神への態度を改めたいと思うのです。

 今日この時の態度が神への態度そのものです。

 本日は聖霊に注目したいと思います。聖霊をイエス様がどのようにお語りになっているか。このことを見ていく前に、本日の箇所の前提についてお話をしたいと思います。弟子たちを二階の部屋に呼び集めて、弟子たちにお言葉をお語りになられました。しかし、そのとき弟子たちが非常に不安になる言葉をイエス様はお語りになられたのです。それがヨハネ福音書13章36節以下のイエス様とペトロとの対話のところに書かれています。お読みします。

 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 イエス様がどこかへ行ってしまう。そのことを匂わす発言をされたものですから、ペトロは不安になってしまたのです。しかも、さらにまた意味深な言葉をイエス様は重ねられます。

 わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。

 イエス様が念頭に置かれているのは明らかに「天」なわけですが、ペトロにそれは理解すできなかったと思います。命を捨ててでもついて行きます。という意気込みをもってペトロはイエス様に向かっていたのですがわからなかった。

 イエス様と直接話しをすることができたらどんなに幸せなんだろうか。私たちは思います。しかし、本当に目の前にイエス様がおられたら、イエス様が何をなさるのかなかなか理解できずに混乱状態だったかもしれない。イエス様がどういう意図でこの言葉を発せられたのか。ということが見えている私たちは使徒たちの何倍も実は幸いであると言えます。14章1節のイエス様の言葉をしっかり理解しながら聞くことができます。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

 「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」というところが理解するのが難しいです。口語訳聖書で同じ場所をよみますと、こうなります。

 あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

 口語訳がどんな訳よりも理解しやすいと思います。イエス様が確実に天の住処をご準備くださる、ということです。この聖句は何十回何百回と読んで心に定着させるべき御言葉だと思います。私は必ず葬儀の時にこの言葉を「口語訳」で朗読します。キリストへの信仰を告白して亡くなった方はもちろん、そうでなかったとしても、このようにしてキリストの僕である牧師、教会にその体をお委ねになられて、死を迎えられた方。そのような方がキリストに確実に抱き止められるようにと、心から願い祈りながら朗読をします。

 どんな人でも、キリストにすべてを委ねる。信頼しきる。信じきる。という思いがあるならば誰でも救われる。そのように確信するものですから、この言葉は葬儀でも、また私の人生の中でも絶対に忘れてはならない言葉です。

 ご遺体の横で私は何度も何度もこの言葉を朗読し続けてきましたし、これからもし続けるでしょう。

 トマスがこのイエス様の言葉に応えます。理解できないからこういう言葉にならざるを得ません。14章4節。

 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

 イエス様が応えて言われました。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなた方は父を知る。いや、既に父を見ている。」

 天の領域。人間には理解不能な領域。天としか呼びようがない神がお住まいのところ。その場所に行く道はイエス様を信頼するということを通してであり、真理を受け止めるのもイエス様を通してであり、命をいただくのもイエス様を通してである。

 フィリポという人がイエス様にお願いをします。8節。

 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」

 見せてください!そうすれば満足できます。そうすれば信じれます。というわけです。そのことに対してイエス様は10節で応えられる。

 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか。

 天の父を知る、天の父を見る。イエス様がその天の父をうつしているのだから、イエス様を見れば天の父を見たことになる。この目の前におられる方を信じる。この信じるということだけをもって、天と人とはつながる。だけれども、人は、目の前の出来事が先に見えていないと信じないと言う。しかし、信じない人は実は何があっても信じない。聖書に書かれているように、イエス様の奇跡を目の当たりにしても信じない人は信じませんでした。

 確かに人は自分勝手に物事を判断しているものです。これはインチキだ、そう心に決めてしまえば、何があってもインチキと思う。イエス様の悪いところを見出そうとして、悪人にしたてあげようとしたひとがどれだけいた事か。弟子たちと楽しく食事をし、ワインを飲んでいれば、放蕩に放蕩を重ねる大酒飲みだと判断され、安息日に麦の穂をつむことを弟子たちに許せば聖書の、律法の破壊者だと言う。人は見たいようにしか人を見ないんです。例え聖なる人、聖人と呼ばれる人にだってあらを探そうと思えばいくらでも見つかる。人間というのはそれだけ利己的に自分の認識をひん曲げて自分の見たいように人を見るのだということです。

 だから、私たちにとってもっとも大事なのは、何をどう信じるかです。人生の歩みというのは、いかに信じるか。という戦いだと言ってもいいと思います。いかにあなたが神の働きのために自分自身をささげきるか、そのことが神の守りによって可能であると、信じきることができるか。いや、私にではなくてあの人が頑張ればいいじゃないか。などというように他人に責任転嫁をしたりイイワケして生きていくのではなくて、自分に神の力がのぞむと信じる。信じる歩みをいかにしていくかどうか。神の御手がここにあり。このイエス様のところに神がおられる。この神の子イエスの僕達であるクリスチャン。

 12節。

 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。

 もっと大きな業を行う??そんなのおそれ多い。イエス様のように生きることなどできませんよ。それが私たちの本音ではないでしょうか。しかし、イエス様が行う業を行い、もっと大きな業を行うようになるというのは、自然な流れのようです。このことを可能にするのが聖霊であるということです。

 やっと本日のテーマである「聖霊」の話に入れるところまできました。14章15節。

 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。

 聖霊というのは神の見えざる霊です。聖霊が注がれていくのであれば、その人の心の中に、神への愛が生まれる。その愛によって、キリストの言葉を守ろうという思いが湧いてくる。キリストへの愛というのはどういうところにあらわされるのかと言えば。キリストがおっしゃられたことを守ろうとする行為においてあらわれる。聖書の言葉を読んでこの言葉に忠実になろうとする。それがキリストへの愛となる。今日はなんか誰かの説教やお話や証しを聞いて感動した、わぁ、嬉しい。イエス様に感動した。

 しかしそれだけじゃ愛じゃない。そこから実際に毎日をキリストの言葉によって生きようとしているかどうか。これが、キリストへの愛だというのですね。なんか、神様に見透かされている気がしませんか?一時の感情や感動はよくするけれども、実際に行動せよと言われたら何もできない。愛が無い。そう実感せざるをえない。しかし、そんな状態にあって自分の不甲斐なさに痛みを感じている人には光がある。

 それは、聖霊が私たちを助けてくださるということです。聖霊のことをここでは別の呼び名で呼んでおります。16節。

 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

 聖霊を「別の弁護者」と言っております。「別の弁護者」はギリシャ語で「アロスパラクレートス」と言います。「アロス」は「もう一つの」という意味です。「パラクレートス」は「傍らに呼ばれたもの」という意味です。パラは傍らに、クレートスは呼ばれたもの。という意味です。傍らに呼ばれて、そこにおられる存在。聖霊。弁護者。この聖霊に頼ることによって、イエス様の言葉を実行することができるようになる。17節。

 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 聖霊は真理の霊。この霊がおられると、私たちは真理が分かるようになる。真理はギリシャ語で「アレーセイア」です。「隠されていたものが明らかになる」という意味です。世が知りもせず、理解もしないもの。キリストの救いと復活、再臨。この驚くべき導きの中にあるという知らせ。これら真理、隠されていたけれどもキリストによって明らかになったこの救いを確信させる。天に向かう歩みを歩み通し、死さえも恐れずに前に進む力があたえられる。

 弟子と、世が明らかに対比されています。世は聖霊を受け入れることができません。なぜなら、信じないから。見たら信じてやろう。という神への態度だからです。しかし、信じ、キリストの懐の入って来るものに対しては次々と隠されていたことが明らかになって、新しい発見が与えられる。聖書を読んでいるといつも発見だらけ。そんな歩みなり、ますます聖書を大事にしていきます。

 そして、イエス様は約束の言葉で弟子たちを満たします。14章18〜19節。

 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。しばらくすると、世はもうわたしをいなくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きる。

 イエス様は信じる弟子たちを見捨てない。世はもうイエス様のことを十字架の後見なくなるが、復活の後弟子たちにイエス様は御自分をあらわされる。イエス様を信じなかった世は、誰一人復活のイエス様には出会っていません。しかし、信じるものは復活の主に出会うのです。私たちもすでに、キリストを受け入れてこの歩みの中にキリストの働きを認め信じているものは、キリストの導き味わうのです。

 聖霊はアロスパラクレートス。傍らに立つ者。弁護者。キリストのご存在がすぐ近くに感じることができるようになる。そして、真理、隠されていたことが見えるようになる。見えなかった神の御手が見えるようになる。神の導きが見えるようになる。過去の人生も、これからの人生も真理の霊が神のみえざる手を明らかに示すのです。

 十字架で血を流されたキリストの赦しによって、その聖霊を受ける歩みを今、始めることができます。キリストは遺言として弟子たちに、聖霊の存在と聖霊に頼ること、聖霊の力を信じていくことを伝えました。見たから信じるのではない。見ないで、先に信じる。すると真理の霊が注がれて分かるようになります。アーメン。