コリントの信徒への手紙 1章1〜3節「教会を信じる?」

召されているという事実

 いつも大事だと思うことは。「ここに召されているという事実」を確認することです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とヘブライ人への手紙11章1節にあるように。神が約束してくださっていることを、信仰によって受け止めて、見えない事実を確認していく。今日という日が与えられている意味を噛みしめていくのです。

 これらは忘れがちでありましょう。いつしかルーティーンに陥って、大変で忙しい毎日を心なく過ごしてしまうものです。ですが、そこで度々立ち返る。そのために聖書を日々読むという習慣をキリスト者は身につけています。

 使徒パウロは手紙のはじめの自己紹介では度々、この「召されたもの」ということを書き続けております。彼はその伝道の旅の途上でいつも思い起こし続けていたに違いありません。人の言葉というのは、その人が常に心に抱いていることがおもてに出てきてしまうものです。繰り返す言葉というのがあれば、常に心に思い起こしていることであるとも言えます。コリントの信徒への手紙 1章1節。

 神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、

苦しみの中で召されている

 苦しみのただ中にあるときにこそ、この「召されている」という感覚が非常に大きな力を発揮するものです。苦しみの中では「こころくじく」思いが私たちの心を支配していきます。段々意気消沈してきて諦らめの思いが心を満たし、力を失います。

 私は説教、祈祷会で何度も何度も同じ話をしてきています。それが伝わっていないんじゃないかと思ってしまったとき、特に意気消沈してしまいます。

 神が約束してくださっている約束の地に入っていくために目の前に大きな問題が横たわっている。その問題は神がご一緒してくださる問題であって、状況は神の力によって変わる。しかし、目の前の現状にばかり目が行ってしまって、この現状からすると、ずっと何も変わらないんじゃないか。などという発言が出てくる。こういう言葉を聞くと、なんだかしょぼくれてしまいます。私が何十回も言ってきたこと何も聞いていなんじゃないかとさえ思えてきてしまう。現状分析を信じるのではなくて、神を信じるのです。神を信じれば10年で物事は一変します。私は10年前の自分と今の自分は全く別人のようになっている。想像もしなかった人生の局面に遭遇しているのです。10年で変わります。本人にその気があれば。

 その時にこそ私も思い出すのです。「召されている」という感覚が大事だと。「召されている」ことを思い起こそうと。いまここが召されている場ならば、経験するすべては繋がっており、神の業のためにつながっており、今経験していることは、偉大な神の御業が現れるための布石である。この苦しみはやがて報われる時がくるのである。このように思えた時に、神のために、神のお役に立つことができるという喜びの中で、安息を得ることができるわけです。

コリントの教会は問題だらけ

 初代教会は素晴らしかった。という論調で話をすすめる人が結構おりますが。しかし、聖書を読んでおりますと。そうとも言い切れない。というのがわかってきます。教会ははじめから問題がかなりあった。というのも、キリストの福音によってあつめられる人というのは、ただひとつ信仰だけが要求されるだけであって、その他はどんな要素を持っていたとしても教会に受け入れられるわけです。ですから、そこには多種多様の問題が生まれてきます。これは必然なのですね。教会がちゃんと伝道していれば居るほど、問題を抱えることになる。問題が生まれるということ自体が、教会が外部の人々を排除していないということの証明です。その問題にどう対処していくか、が非常に重大な神様から与えられた試練であるのです。私たちの信仰はその時に、試されている。私たちと違うひとが来た時に、その人をどう受け止めていけるか。ここに、信仰の実力が示されていると言ってよろしいでしょう。すぐ排除して、問題を消そうとする人がいますが。その人は見えざる神の手を見ていません。

 御坊教会の林完赫先生がおっしゃられていました。日本にこれだけ自死する人が多いのは、教会が、来るべき人を締めだしているからではないですか。という問いです。この社会はすべてつながっております。また、教会は社会とつながっています。今キリスト教基礎講座において、明治の政治家たちがどれだけ聖書を学んでいたことか、ということに触れておりますが、教会は社会に何かしらの影響を常に与えて行くのです。しかし、まるで社会とのつながりが断絶してしまっているかのように、教会の社会への影響力が低下している。それは、私たちがどうあるか、ということが主な原因だと思います。

召されているということに集中しているか

 私たちが「召されている」ということに集中できているかどうか。ということが、とても大事なことであると思います。私たちの全生活を通して神は何をなさろうとしておられるのだろうか。そのために祈って求めているか。自分の人生を自分の好きなように、なるたけ問題がないように、快適に生きていけるか。ということを求めてしまっていないか。私たちに求められていることは基本的に「献身」であります。キリストがこの世界のために献身なさったように、私たちも献身するのです。それは、言い換えると他者のために自分の人生を犠牲にするということです。さらに平たく言いますと、自分の人生を壊してしまってまでも他者のためになすべきことを見出しているか。ということでもあります。

 私は召されているということに、心底集中しているキリスト者がいるのであれば。自分の人生を壊してでも隣人に差し出そうとしている人がいれば。日本社会の中おられるに心ある人に、その輝きが見えるはずだと思います。

 歴史上の人物、日本を造り上げてくれたその一人一人をみると、その献身の人生は輝いて見えます。それと同じように、キリスト者の美しさを理解してくださる方が現れてくるはずなのです。もしも、私たちがそれを実行しているのならば。

初代教会から吸収すべきこと

 初代教会も、今の教会も問題だらけです。でも、初代教会のすばらしき美徳は、彼らは自分の人生を壊してまでもキリストを伝えようとしていた。ということでありましょう。捨て身だったのです。捨て身の人に、熱き心をもった人は呼応します。そういう人々が次々と集まってきたのです。私は召されているから、何を差し置いてもなすべきことがある。私は召されているから、どんな人の中にもキリストの業を認めようとする。あの人も召されているのではないか。ひょっとするとあの人もやがて偉大な業をなさるのではないか。

 金曜日にキリスト教基礎講座に小学生の女の子、名前は伏せますが、この子が来てくれた。あの上杉鷹山の志を受け止めて、またキリストの美しさ、キリストの心を受け止めて、この子はきっとすばらしい働きをするのではないか。召されているのではないか。いやその子だけではない。あの場に座っておられた一人一人が偉大な業をするのではないか。そんな期待感をもちつつ物事を見ていくのならば。召されているという事柄から。一人一人に何が起こるかわからないというような冒険心を持ちながら歩ませていただける幸いを生きることができるのです。

 教会が召されたものの集まりととらえたとき、それは楽しいところとなります。

ギリシャ語の「教会」

 ギリシャ語の教会という言葉は「エクレシア」です。これは先ほどからいっています、「招かれた者達」という意味がギリシャ語にはあります。神から招かれた者達の集まりで、それを強く意識し。その中に生きて。その通り実行し。招かれたものとして歩み。神の力がその人とともにある。だからこそ、教会は恐ろしいほどに力強い。神の力がともにあるから。その中を本当に生き切っているのか。

 まずは、意識するところからはじめるのです。パウロに学んでください。パウロは、いつも「自分が召された」ということが口から出て来てしまったのです。それほどまでに考えに考え、祈りに祈りつづけていた。これこそがキリスト者が力強く歩む秘訣なのです。召されて、使命を託されているものとして、自分がどう献身するのか。そのことが話しあわれて。そのことを自分自身に問うて、そして、周りの人々と祈り続けていく。そういう教会でありたい。

一致が乱れる

 コリントの信徒への手紙でまずパウロが問題として上げているのは。教会内で一致が乱れはじめたということでした。分派をつくりはじめたんです。1章12節。

 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。

 召されているということよりも、「だれにつくか」などということを考え始めると、もう一致は崩れはじめます。パウロも、アポロも、ケファもキリストも。皆正しいことを言っているのです。誰かが間違っていて、誰かが正しい。などということではない。にもかかわらず、人々はそれぞれの派をつくりたがり、徒党を組んでお互い対抗意識を燃やし始めるのです。何故そうなるのかというと、「召されて」いるという自覚が足りないからです。本当にいつもこれですね、問題は「自覚が足りない」から、共通しています。「召されている」のであれば、「召してくださった方の意思に従おう」と思うはず。だから、こっちについたり、あっちについたりではない。主である神の意思をひたすら求めるだけなのです。神はお一人です。皆がこのお一人の神にお伺いをたてるところに一致。そして、皆がそれぞれ神に召されているのだということを認め合うところに一致があるのです。

名をもとめる?

 コリントの信徒への手紙 の1章2節。

 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、

 キリストの名を呼び求めているというのは、祈り続けているということです。召されている、それは祈り続ける生へと召されたものであり。その人の歩みの中には聖なるものとされたという自覚があり。聖なるものというのは、神のものとなったということです。神のものとなったその人の歩みには、至るところに神の見えざる御手の介入がある。

傲慢から不品行、思い上がり

 そもそも、片方のグループが片方のグループより優れている。などということを考え始めた時点で、人間を中心にものごとを考えているのではないでしょうか。それは傲慢です。傲慢に落ちていった人々は、神の支配を失いますから、自制ができなくなる。自制ができなくなると、性的な放縦生活に陥っていく。さらに信徒の間でも、お互いがお互いのことを配慮しあうのではなくて、優れた賜物を持っている人が、当時のコリント教会においては異言を語れることがすばらしいこととして推奨されていたようですが、もう理性もなにも無いかのように、誰かれ構わず異言が語られ、それが分からない人は困ってしまうような状況だったのです。これがコリントの教会で起こっていたことでした。そして、私たちの教会でも起こりうることです。

 傲慢、争い、自己正当化、自制心のなさ。

十字架にかかりしキリストのもとへ

 十字架にひざまづいて、キリストに、天の父に、服従する。十字架で命をささげられたキリストのところに何度でも帰ってくる。私たちの主はどんなお方であり、私たちは何をすべきなのか。それはキリストをみればわかってくるのです。傲慢になることなどできない。徹底的に仕えて、仕えつくされて命までささげられたキリスト。自分が正しいかなどということ、誰かを仲間にしてパワーゲームをしよう、などということ、決してキリストはお考えにならなかった。徹底的に1人の人を救うため、1人の人に語りかけられた。どんな人も例外なく神のものとして扱おうとされて、信仰とは何であるかを真正面から語り続けられた。人の顔色を伺うことなしに。

 傲慢さのかけらも無い方です。私たちが地上でもしもお会いすることが適うのであったならば、私たちに父として、友として、接してくださるはず。

 召されて聖なるものとされて、神の恵みを受け止めることができるようになったその人達の間に、平和が実現します。1章3節。

 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 究極的に、平和というのは、シャローム。主の平和です。御自分を犠牲になされるその方こそが神である。というここが宇宙の中心である。愛がすべての中心である。この愛である神に出会わないと争いはなくならない。召されて、聖なるものに既になっているという自覚のもと徹底的にひざまづき、祈りをささげるという経験をつんでいく者に人がなっていかないと平和は来ない。

 国家の中では、安全保障の問題が語られます。これはとても重要なことです。必ず話し合われなければなりません。しかし、それはどこまでいっても外側の話であり、そういった力の行使で最終的な結論を導き出そうとすることが誤りであることを皆が体感的にもう理解できているのではないでしょうか。力で力を抑えようとしても決してその力は抑えることができません。それが日々のニュースで分かります。

 召されているという自覚に立ち。キリストの犠牲によって、すでに聖なるものとなっているという驚きの上に立ち。キリストの名を行使し祈りつづけ、この祈りがすべて届けられて。神の御心のままに、祈りが実現していくことを体験し。傍らにすぐそばに親しく私によりそってくださっている。足を洗ってくださっている。苦しみに、病に触れ、涙を拭ってくださる。その御方を皆が知れば、それによってシャロームは実現していく。一人一人の心が大事なのだ。そこがスタートなのだ。それが平和の入り口である。教会に集うものは召されたものという自覚に立ち、使命に生きる人たちの集まりとなる。この私が使命を託された召されたものなのです。あなたはどう今日のうちに主に応えますか?召されて、使命を託されているというところに立ちましょう。さすれば、物事は動きます。アーメン。