使徒言行録2章37〜38節 「罪のゆるし」

大いに心を打たれ

 皆さんが心を打たれる時ってどんな時ですか。心を打たれるって色々あると思います。感動するということがその中心であると思います。感動して、心動かされて、心が動かされるだけじゃなくて、行動にまでそれが及んで、人生が変わってしまう。それが心を打たれたって言うんじゃないでしょうか。

 本日読んでおります、使徒言行録2章37節にはこのように記されております。

 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

 ここには「大いに心を打たれ」と書かれておりますが。他の翻訳を見ると、「深く心を抉られ」とも記されています。

 心が抉られるっていうのは、心がかき回されるとか、衝撃を与えられるとか、苦痛を与えられるとかかなり強い言葉です。しかも、これはどちらかと言うと「傷つけられた」というような意味が強い言葉です。

ちゃんと向き合うと傷つく

 人格と人格とがちゃんと向き合って、それぞれ考えていることを受け入れ合うと、時に人は傷つくのです。これは避けられないことであるし、傷ついたということは、逆に言えば人としっかりと向かっているということの証拠です。全然育ちも考え方も違う二人が出会ったら、それだけで軋轢が生じる。しかし、いつしか大人になるにつれて衝突をうまく回避する方法を身につけて、逃げる方法にたけてくる。ですが、それでは人は成長しない。

 人は傷ついてこそ、成長するものです。傷を傷としてしっかりと受け入れていくことこそ大事です。そこで、傷を受けたら、新しい再生の道を目指す。それによって、人は明確に変化していく。心が抉られる経験をし、それによって成長させていただける。それは教会に来て、キリストと出会った皆さんが日々経験していることです。

教会に来て傷つく

 教会に来て、まずイエス様と出会って。イエス様のお言葉に触れていくと、イエス様が愛に溢れておられて、自分が全く及ばない存在でしかないことに気付かされてしまいます。私などは、自分はすこしばかり善なるものへの理解はできているだろうなどという自負をもって教会に足を踏み入れたものですから、善などキリストの前に全く有していないなどということに気付かされた時には、衝撃でした。

 聖書を読んでいると、律法学者、ファリサイ派、サドカイ派、最高法院の議員、多くのイエス様の敵が現れてきますが。イエス様は敵を敵として攻撃するということではなくて、別の戦いをされておられることに気付かされた。父として愛する。父として諭す。親としてなんとか彼らを神へと結びつけるために、静かに諭し続けるイエス様の忍耐と愛とをそこに見たのです。

 敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたも天の父の子となるためである。(マタイ5章44、45節)

 というこの敵を愛するというところまで行く愛はどうにも圧倒されるばかりでありました。しかし、この愛の前に圧倒され、打ちのめされて、まったくキリストには及ばない自分の心の小ささを思い知って、自尊心を傷つけれて、なにものでもない小さな自分を認めて。はじめて自分が変わるということを経験するのだと思うのです。ありのままの自分の姿を見る。そうしなければ自分は変わらない。ありのままの自分を直視できるのは、キリストというご存在がおられるから。その方を鏡のようにしながら、自分自身をみるのです。

ペトロの説教

 本日の箇所の前には、使徒ペトロの説教があり、このペトロの説教がまた辛辣でありました。

 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(使徒言行録2章36節)

 ダビデ王の末裔からメシアが現れる。しかし、救い主を殺してしまったのがあなた方である。あなたは神の独り子を殺してしまったのだ。その事実を民に突きつけた。それがペトロ。

 優しい、心地いい、自分のことを肯定してくれる。自己肯定の欲求を満たしてくれる、つつみこまれるまるでお布団のようなメッセージ。そんなメッセージでは全く無い。あなたが殺人者であり、あなたが罪人である。それをつきつけるメッセージ。しかし、ペトロには信頼があるわけです。そういう赦されざる罪を犯した人間でも、大丈夫だ。それでも罪の赦しは有効である。あなたは赦される。だから、大胆にもあなたは殺人者だ、メシア殺しの張本人だ、罪人だとイスラエルの民にはっきりと言うわけです。ここにもペトロの内に神の父としての愛の片鱗が宿っていることをみることができます。

 最善を願ってくれている人というのは、全肯定してくれるわけじゃないと思います。私もこの夏親元に帰りましたが、親は常に私に対してダメ出しです。なぜそんなことができるのかと言えば、受け入れる覚悟があるから。受け入れないのにダメ出ししても意味がありませんが。受け入れる覚悟を持ってダメ出しされると、もう人は成長するしかないでしょう。

 ペトロの説教は愛のあるダメ出しがかなりの割合をしめました。しかし、それだけじゃなかった。預言が、このイエスという人を中心とした出来事において実現して、救いがあなたがたの所に届けられているんだという福音の知らせをも語り続けました。厳しい言葉と同時にそれでも受け入れられているという罪の赦しを徹底的に語り続けたのです。あなたは赦されざる罪を犯している。しかし、神は赦すと決断してくださった。それが犠牲の小羊キリストが、血をながし罪の代価を支払った意味である。赦されざるものであるが、赦されるのだ。だから、ペトロはキリストを十字架にかけて殺した残虐な民に、あえて「兄弟たちよ」と呼びかけるのです。

 兄弟たち、先祖ダビデについては、(使徒言行録2章29節)

 キリストに向き合うものたち、預言と向き合い、神と向き合い、そして信仰に入ろうとしているものたち。そのすべての人たちと私は兄弟姉妹として繋がることになる。一つとなる。信仰におけるつながり。それが教会の絆です。キリストを中心とした交わりです。

 これ以外ではない。これ以外でつながっていると、軋轢があった時に、すぐに崩れる。問題が起こって崩れる関係性というのは本物ではありません。何かがおかしいのです。教会ではキリストによって結ばれていればその関係はこわしようがない。いやむしろ、キリストにおいてつながっているならば、問題が起こった時に、より強いつながりで結ばれうる。また兄弟姉妹であるならば、赦し合い受け入れ合うしかないないのです。

 この説教をペトロが語りかけている相手というのは、キリストを十字架にかけた民です。ペトロが愛している主を殺した民です。この主を殺した民を呪い殺したいという思いが湧いてきてもおかしくありません。家族として大切にしている人を殺されてしまったらどうですか。しかし、彼はその殺されたキリストご自身のお望みが、「すべての人を神の国に受け入れる」という思いであることを知っておりました。

 天の父として、真の親としてこの民をどうやって受け入れることができるか。どうやったら彼らが神の国に受け入れることができるか。その思い一つだった。キリストのご意志を思ったら、民を呪いたいという気持ちというのはスーッと消えていったに違いありません。この人をこそ神は愛そうとされた。主を罵り、つばきをかけ、愚弄した、この人をこそ神が受け入れようとされている。だから、静かに淡々と、福音の事実を伝えたに違いありません。「兄弟」と呼びかけながら。

悔い改めなさい

 ペトロははっきりと言うべきことを言いました。相手がどう受け止めるかなどという杞憂はせずに。

 悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒言行録2章38節)

 悔い改めなさい。というのはギリシャ語でメタノイアという言葉です。このギリシャ語の意味は「考えを変える」ということです。悔い改めなさい。といことももちろんすばらしい訳なのですが。より正確には「考えを変えなさい」ということであると理解するほうがしっくり来るように私には思えます。神の前にひざまづいて、自分自身の心や思い込みにがんじがらめになっていた堅い心を捨て去って、考えを神の前につぎつぎとかえていく。ということは徹底的に謙虚になるということです。自分が教えを垂れるのではなくて。自分が教えを乞わなければならない立場に立つということです。誰よりも低くなり、考えを変えつつ、神の前にひざまづく。

 そうすれば、どうすべきなのか示されます。ペトロはこう言います。

 めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。(使徒言行録2章38〜39節)

 イエスの名による洗礼を受ける。すると、罪を赦していただける。それまでどれだけ大きな罪を犯していようが、キリストが十字架にかけられるときに、十字架にかけろとさけんでいたとしても、悔い改めて、思いを変えていくのならば、すべて赦される。洗礼は洗い清めであるからです。洗礼の水によって罪が清められる。しかも、その洗い清めはイエス・キリスト、神の独り子の名によるもの。どんなに深い罪であったとしてもキリストの血によって贖われます。キリストの血よりも尊い犠牲はこの世には無いからです。だから全部赦される。キリストの名の権威は宇宙全体で通用する。それは神の子の名だからです。この名によって赦しが宣言されるのであれば、その宣言は絶対的な力を持つ。リンカーンの奴隷解放宣言がやがて奴隷を解放し、新しい世界を造るにいたったように、いやそれ以上の効力をもって洗礼は存在すると言ってよろしいでしょう。

 宗教改革者のマルティン・ルターは「自分は洗礼を受けている」と自分で自分に言い聞かせながら、反対派からの迫害を乗り越えていったのです。洗礼を受けて罪赦されているということが決定的なことだったのです。それだけが彼にとっては重要だった。教会が国との癒着によって堕落していく時に、もとの聖書にのっとった教えへと導く役割をルターはしました。偉大な役割です。私たちはその影響を今も受けている。プロテスタント教会の心の中には、いつも聖書に帰っていこうという心が宿っています。

 洗礼を受けるとどうなるかというと、聖霊を受けます。聖霊は神が私と共にあり、インマヌエルを確信させます。神がご一緒におられると信じることができるのは、すべてこの聖霊の働きによるものです。そして、キリストへの信仰を燃え上がらせ、信頼を置くことを覚えさせて、神に常に導きつづける。聖霊の見えない力を受けるのです。

 さらに言えば、これはすべて神の約束です。

 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。(使徒言行録2章39節)

 今日、私たちは神の不思議な業によってこの場に導かれました。招かれているもの、なのです。招かれているものには、この約束が与えられています。洗礼を受け、罪を赦され、聖霊を受ける。そして、生き生きと、消えることの無い心の光を宿して、キリストの心を宿して歩む民となるため選ばれたのです。神の国が心にあるのです。まず大事なことはそれを意識するということだけです。聖霊があなたのこころに。アーメン。