コリントの信徒への手紙 一 15章42〜43節 「からだのよみがえり」

復活こそ大事!

 復活などということは、頭では理解できないから、考えるのも信じるのもやめよう。と思われる方がおられるかもしれません。しかし、使徒パウロはこう言うのです。

 キリストが復活しなかったら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。(コリントの信徒への手紙一15章14節)

 キッパリ!パウロは言い切るんです。復活を信じなかったら信仰は無駄だよって。

 キリストを信じるものは、キリストと一体となる。ということは、キリストと永遠に住まうことになる。そのキリストは、十字架にかかり、肉においては一度死んだ。しかし、そこから天の父はキリストを復活させて、栄光を授けた。

 新しい肉体に復活する、という恐るべき栄光です。そのキリストと一体とさせていただける。キリストを信じるものたちは。これが喜ばしい知らせ。福音です。キリストが得たものを私たちも得ることができる。復活を得る。

 復活を信じなかったら、なんの意味があるのか。それを希望としてこの世を喜んで生きることができなかったら、あなたがたに何故神は希望を賜ったのか。それがわからなくなっちゃうじゃないか。ということを使徒パウロは言いたいんです。 

大事なことは何度でも

 人は本当に大事なことであっても、忘れます。はじめの感動がどこか飛んでいってしまう。やっぱり目に見えることばかり考えているからでしょう。キリストの復活を目の当たりにした人々も、またその知らせを聞いて信じた人々も、復活がどこか遠くの出来事というか、私に関係の無い出来事のように考えるようになってしまった。

 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(コリントの信徒への手紙一 15章1節)

 もう一度言うということはそれが大事であるということです。大事なことにもかかわらず、コリントの教会の人たちも、復活が目に見える出来事として迫っていないので。いつの間にか、無関心になるということが起こっていたのでしょう。使徒パウロは大事なことを短い言葉でまとめて言います。

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いているとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。(コリントの信徒への手紙一 15章3〜6節)

 我々がキリストの死によって罪を精算し、神のところに帰ることができるようにしてくださったんです。キリストの復活を受け入れ、キリストこそが私たちの主であり、私たちの行くべき道を指し示すお方。キリストが肉において死んで復活されたように、信仰を与えられたものは、肉において死んでも生きる。ということを信じていく。

 肉において死んでも生きる。この確信こそがキリスト者の強さです。

聖書が示すこと

 聖書が指し示すことを本当に信じるのならば、私たちの心に力が与えられる。聖書はこれから起こるであろうことを私たちに指し示してくれています。私たちのこの命は死んで終わりというわけではなく、死とその向こう側には連続性があるということを伝えている。キリストへの信頼によって死を乗り越えていくありかたが実際にあるのだということを示すのです。

 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も1人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。(コリントの信徒への手紙一15章20〜24節)

初穂の祭り

 キリストが初穂となられた。というこの表現は、農業の言葉ですが。キリストと同じようにまた復活にあずかるものたちが大勢でてくるであろうということを示唆します。作物と同じように、キリストが復活されたら、そのキリストに続く者たちが一斉にワッと復活の命にあずかるであろう。そんなイメージがここに盛り込まれております。

 ユダヤ人の祭りの中に「初穂の祭り」というものがあります。それは旧約聖書のレビ記23章10〜11節に記されております。

 わたしが与える土地に入って穀物を収獲したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい。祭司は、それを主に受け入れられるよう御前に差し出す。祭司は安息日の翌日にそれを差し出さねばならない。

 安息日の翌日というのは日曜日のことです。日曜日を我々が記念し、このように礼拝を守っているのは、それはキリストが復活されたからです。この日曜日がユダヤ教の初穂の祭りでもあった。キリストの復活を古代からユダヤ教の祭りにおいて静かに指し示されていた。キリストを指し示すために、キリストが生まれる以前からこの初穂の祭りが設定されていた。これによってユダヤ人は教育されてメシアであるイエス様が来られた時に、日曜日のキリストの復活によって初穂が得られたということが分かるようにと、不思議な仕方で神様は教育なさってきたのです。

 ユダヤ教の習慣というのは、キリスト教の祭りとオーバーラップします。重なり、そして、キリストにおいてその祭りが成就する。そのように考えると、全能の神様の御業というのは、本当に恐ろしいほどに時空を越えて、人間を飛び越えてといいますか、歴史を飛び越えて私たちにかかわられ、その結果今があり、私たちの信仰がここにあるということが分かる。ユダヤ人の文化歴史と我々の教会の歴史文化はつながっております。

 そのように何千年の時を飛び越えて今があるわけですから、私たちの将来をおそらく何千年も飛び越すようなパースペクティブというか視野をもって神様は御覧になられていて、私たちもキリストによって神の子でありますので、その未来を見据える必要がありますし。そのことによってまた力を与えられるということがあるのです。これでまだまだ終わりではない、これから先がある。そのための準備を重ねているんだ。神の栄光がこれからまた先に示されるのだ。そんなワクワク感やドキドキ感を持ちながら歩むことができるのです。

復活は具体的には??

 それじゃあ、復活は具体的にどんなふうになるの?という問いが出て来て当然だと思いますが。それも聖書に書かれておりますので、見ていきたいと思います。

 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。(コリントの信徒への手紙一 15章35〜38節)

 種においての死を経験していくこと、そして別のものに生まれていくということ。連続性はそこにあるけれども、かなり異質なものに種は蒔かれると生まれ変わる。カラシ種というのが聖書の中に例えとしてよく登場します。カラシ種というのは本当に吹いたら飛んでしまう、小さなゴミ粒のような種ですが、成長しますと家よりも大きくなる。神学生のときカラシ種の家という新潟にあるグループホームに滞在したことがありますが、本当に家よりも大きなカラシ種の木が建物の中庭に植えられていてびっくりしました。決して太い木というわけではないのですが、非常に背の高い木でした。あんなゴミ粒のような種からどうしてこんなに大きくと驚きました。

 人間の命に関してもこの肉の体はやがて脱ぎ捨ててもっと偉大なもの。別の体を与えられるのだということなんです。

 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。(コリントの信徒への手紙一 15章40節)

 これ、言い換えますと、命を得るために死ぬ。新しい次元に行くために死ぬ。ということです。死は新しい誕生であるということです。

 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときには朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。(コリントの信徒への手紙一 15章42〜43節)

 朽ちる肉体であるがゆえに、これを脱ぎ捨てて朽ちないものとなる。卑しい罪深いものであるけれども、これが栄光に満ちたものとなる。弱いものでしかないが強くなる。何もかも新しくなる。新しくなるための準備の期間である、今のこの世は。 

 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。(コリントの信徒への手紙一 15章50節)

 神の国というのは永遠の世界ですから。この限界のある私たちの今のままではそれを受け継ぎ続けることはできない。

 そのままでいいんだよ。ありのままでいいんだよ。何も変える必要はないんだよ。そういう言説が最近はやった気がしますが、確かに、それは正しいところがあります。神に受け入れられるのに、こちら側、人間が変わることによって神に受け入れられるわけじゃないから。だから、神のまえに行くために、何か準備するのではなく、そのままでいいんだよ。そのままで神は受け入れてくださるんだよ。ということは間違い無いことです。

 しかし、ずっとそのままでいい。ずっと今与えられているところから一歩も動かなくていい。というわけではない。神に導かれて人は変化していくのです。何より、死ななければならないのです。これは恐ろしく大きな変化であり、私たちにとってはある意味試練です。

 フィリピの信徒への手紙にこのような言葉があります。私の一生記憶すべき言葉。神学生の時に研究対象としてこのフィリピの信徒への手紙3章を選びました。

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。(フィリピの信徒への手紙3章12節)

 キリストが私を捕らえてくださっているから。自分はその招きに応えて、神の前に切磋琢磨し、この復活の出来事、与えられている福音の出来事、神の約束がその通り実現するのだということを心から信じ、心の内に信頼が造り上げられていくこと。信頼を造るために自らもまた努力を重ねて行く。変化に変化を重ねて、前に前に神を追いかけて、そして遂にはキリストを追いかけ信じ抜く生涯の中に、新しい命がやってきて、連続性がそこに与えられて、そのままで受け入れられ、しかし、神の国にふさわしい形に変えられて、信頼に信頼を造り上げて神の国に行くのです。そのままの所と、そのままではないところ両方あって、そして神の国に入って行くのです。最後は死という最大の試練を通って、完全に変わる。

 しかし、最終的には死をも克服します。

 「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(コリントの信徒への手紙一15章44、45節)

 この希望に生きることこそ人生であると思います。肉体をもった状態で、もうすでに死を克服してしまったかのように見える人々に、度々私は会ってきました。キリスト者というのは幸いです。また、牧師というのは幸いだとつくずく思います。

 病床のキリスト者に出会うわけですが、その一人一人は、明らかに死を乗り越えてしまっている次元を心の中にもっています。肉の弱さを感じるほど、動けなくなるほど、「死は怖くない」とおっしゃられる人が本当に多い。

 最近入院されて退院されたKさんも言っていました。死など怖くないと。入院された以前からずっとおっしゃられていましたが。。。毎晩キリストの祈りである、主の祈りを祈りつづけて、どんなに肉の弱さを感じても、怖くはないと。Kさんはかつて、戦争の時兵隊であられました。仲間は先に日本海で船が沈没し死んだ。あの時自分も死ぬはずだったんだ。自分も日本のために自らの命を賭すと決めていた。あの時に死ぬはずだった。

 しかし、神はどういうわけか自分をその後長い間生かしてくださった。日本海に沈んだ友のように自分もあの時死すべきであったのではないかと何度も思った。しかし、今あるのはすべて神から授かったものである。だから、生きるにも死ぬにも、もう怖くはないんだと。毎晩主の祈りを祈り続け感謝と共に生も死も乗り越える歩みをしておられます。

 私たちは天を目指して一緒に歩ませていただいております。どうか、私たちをお守りくださいと、この方と先日お祈りしました。どんな肉体的な状態になっても、元気そうに見えるものも、そうとは言い切れないものも、皆同じ、天を目指しての歩みを一歩一歩踏みしめている。

 キリストの復活を受け入れて、天に向かう歩みを歩み出す。その歩みは死を乗り越える歩み。死はもう怖くない。勝利にのみ込まれた。死を乗り越えて、雄々しく、キリストを目指し続ける歩みをしたいと思います。

 喜んで、楽しんで、天があること、この後の命があることを信じて。種が死んで、肉体が死んで、新しく生まれ変わることを信じて。だからこそ、先があり、神の前に行くのだからこそ、それまでには!誰かのために、この世界のために、キリストを求める人のためにこの命を賭して歩みたいと思います。アーメン。