ヨハネによる福音書17章3節 「永遠の命」

自分根拠ではなく

 クリスチャンのすばらしいところは、もはや自分を根拠として歩む必要はなくなったというところでしょう。本日の聖書箇所は、イエス様のお祈りが記されているわけですが、このイエス様の祈りを根拠として、自らの歩みを考えていくことができるようになります。これまでは、人生は自分を根拠として、自分中心で、自分が何をなすのか、なさいのか。そのことだけで生きてきたかもしれないけれども、イエス様と出会うと、イエス様が私たちに必要な祈りをすでに、徹底的にお祈りくださっているので、その祈りの中に自分の人生があると考えることができるようになるのです。そう認識が変われば、人生が変わります。

 教会に来て、悔い改めなさいという言葉を聞きます。それは自分を責め、自分の不甲斐なさを知って自己憐憫に陥って、ウジウジしろということでは決してありません。悔い改めなさいというのは、方向を変えなさいということです。自分を根拠とし歩むのはもうやめなさい。目をあげてキリストの思いによって生きはじめようではないか。それが悔い改めなさいということです。

 ウジウジ自分のことを見つづけ、自分の不甲斐ない過去にこだわりとどまり続けるというのは、それこそ自己中心です。そうではなくて、目をあげなさい、前をみなさい、神の御手を見なさい。神があなたに手を差し伸べようとされている。そして、今日は聖書を開いて、聖書に中に記されているイエス様の祈りのなかに、すでにあなたがいたということを知って驚き、勇気を頂く。キリストが私のことを覚えてくださり、私のために祈てくださっているんだ、と胸をはって生きて行きなさい、ということなのです。

最後の晩餐における祈り

 とりわけ、本日の祈りの箇所は、最後の晩餐における主の祈りであるということにも注目しなければなりません。主は、御自分が逮捕されて、大祭司のもとにつれていかれ、最高法院で裁かれ、暴行を受け、十字架にかけられ。御自分が犠牲となる。という決意をお持ちでありました。その強い決意のもと、天を見上げて祈りをささげられたのです。ですから、本日読んでいる祈りというものは、命がけの祈りであるということがまず大事なことです。

 命がけの祈りというものを、人は一生のうちで何度するでしょう。毎日命がけの祈りをしているという人はいないでしょう。祈っていても、命がけ、と普段の祈りは違う。しかし、よく考えてみれば、命がけの誰かの祈りによって私たちは支えられているのではないかと思うのです。肉の母がそれをしてくれたかもしれません。胎に宿し、肉を切り裂くような痛みを負いながら、子供を生み出すのは母です。その母が、命がけの叫び、祈りをささげてくれていたことでしょう。その祈りによって、この世界に人は生まれ出ると言ってよろしいでしょう。それと同じように、神の国に生まれ出るためにキリストは命をかけて祈られる。その祈りは必ず天の父に受け入れられる。その祈りは私たちに気づくと気付かないとにかかわらず、すでに私に向かっていた。主の祈りのもとに、私たちの歩みが今あったのだと気付くことです。

 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。(ヨハネによる福音書17章1節)

 決意の眼差しとともに天を見上げる主イエスのお姿を、私たちは聖霊によって心の中に見るのです。そして主は言われる。

 父よ、時が来ました。

 御自分がささげられる時です。暴力に引き渡されて、痛みを全身に背負う時です。その主が受けた苦しみによって、私たちが癒やされるためです。主が苦しまれたからこそ、苦しみの中で私たちは勇気をいただけるのです。主がこの苦しみを味わってくださったんだと。一人じゃないと。

 神の時というものがあります。イエス様はまだ時ではない。ということも度々おっしゃられました。周りの多くのユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしておりましたし、当時の彼らの権力からすれば、そうすることができたかもしれません。しかし、時が来ない限りキリストは死ぬことも無い。時というのが非常に重要なのです。旧約聖書のコヘレトの言葉に次のような言葉があります。

 何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時 (コヘレトの言葉3章1〜)

 神の時がこなければ物事は起こらない。その神の時の中に生かされていること。それをまず祈る。キリストは、十字架を目前にして、その祈りを通しても私たちにその道をお示しくださいます。

毎週、ここに

 私は毎週、このポイントに帰ってこなきゃいけないと思います。毎週イエス様が私たちのために、汗を流し、御自分の肉を引き裂き、御自分を私たちのために投入するために祈られたこと。私のために天を仰いで、父に願われていたこと。

 何があっても毎週ここに帰ってくる。そしてもう一回、人生を再びはじめる。そうしないと、私は自分が変わらないと思います。このキリストの言葉を聞き、キリストによって生かされる生を与えられている。この一瞬一瞬が御子の命、御子の魂が注がれているかけがえのない一瞬一瞬である。この瞬間をまことにキリストに勝ち取られた子として。神によって愛されて、導かれている子として生きていく必要がある。真実なる神の子として。安心して。楽しんで、喜んで、後先考えずに、神の導きに信頼して歩むのです。

 先ほどのコヘレトの言葉の続きにはこう書かれております。

 人が労苦してみたところで何になろう。 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜に適うように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。 わたしは知った  人間にとって最も幸福なのは  喜び楽しんで一生を送ることだ、と。  人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは  神の賜物だ、と。  わたしは知った  すべて神の業は永遠に不変であり  付け加えることも除くことも許されない、と。  神は人間が神を畏れ敬うように定められた。  今あることは既にあったこと  これからあることも既にあったこと。  追いやられたものを、神は必ず尋ね求められる。 (コヘレトの言葉3章9〜)

 金曜日に、愛光幼稚園において「パパのための子育て講座」というものがありました。その中で、子どもたちの姿がビデオにとってあって、それを見るという時間がありました。これがまた非常に興味深いものでありました。2歳の子供の朝のようすを見たんですが。みんな必死で、楽しそうに、自分が向き合う課題、、、といっても遊びなんですが。集中しておりました。必死に、楽しそう。これが私の印象ですね。脇目もふらずという感じです。目の前にある遊びに、真剣に、楽しく。安心して楽しんでいるんですね。

 神に守られて、神の導きのもと、自分ではなかなかコントールできない日常に直面し、今日守られているのは真に神の力による。なのに、どうして大人は安心できないんでしょうか。子どもはあんなに簡単に安心して一瞬一瞬を楽しんでいるのに。しかも、コヘレトの言葉、ソロモンの言葉によれば、それで良いのだというのに。大人にはそれがムズカシイ。

 大人って良きにつけ悪しきにつけ、わき見しまくりだなって、子供の姿をみていて気付きました。もっと、目の前にことに安心して、没頭しつづけても良いのではないか。大人は没頭するのではなくて、ソワソワと、周りを見回して、心配ばかりして、、、3歳4歳になってくると社会性が出て来て撮っているカメラのこちらがわの先生とのやり取りが始まります。これは発達段階として非常に喜ばしい、社会性の形成ということなのでしょうが。しかし、この社会性こそが目の前にあることとしっかりと向き合うということを阻害するということも起こりえるなと思いました。周りの事が気になりすぎて、社会で自分がどうであるかといことにばっかり心奪われて、目の前にある神が与え給うた恵みがどっかいってしまって。社会性というベールに包まれて、何かがはっきりと見えなくなってしまう。

 安心して、集中して、没頭して、楽しんで、喜びながら、目を開く。その土台が、キリストが私たちに集中して、私たちのために祈りをささげ、私たちの未来をその祈りの中に置いてくださっている。キリストの祈りは全て聞かれる。そして、その祈りは実現する。その信頼感の中で憩うことができる。この境地こそが、私たちの心から他者の目を気にしてソワソワと不安な自分自身を払拭していく根拠となるのではないかと思うのです。社会性ももちろん大事でそれは決して捨ててはなりません。しかし、そこに天を見上げる要素が加わってくると、私たちの心を解放し、より自由でのびのびと、安心して楽しみ、喜びのうちに物事に没頭する。そういう力が宿っていくのではないかと思うのです。

 天を見上げる力を与える。その根拠として、主イエスの祈りがある。

 あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになられました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。(ヨハネによる福音書17章1〜3節)

 キリストに栄光が与えられる。その栄光は「すべての人を支配する権能」。人間を支配する。という言葉は一体どういう意味なんだろうと思います。イエス様は人を支配し隷属させようとしておられるのか。そうではありません。支配というのは、いろんな支配がありますが、キリストの支配というのは、平安を与えて人を自由にする支配です。服従させて隷属させ、自由を奪うものではありません。人が生き生きと、本来の有様に回復させられる。そういう支配です。いのちを与えることによる支配です。

 すべての人を支配する権能をお与えになられました。

 とありますが。この言葉は直訳しますと、「すべての肉の権能をお与えになられました。」と訳せるのです。肉の権能というのは、肉を支配し従わせる力という意味です。この肉というのは、どのような意味があるのかというと。それはローマの信徒への手紙を読むと見えてきます。

 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。(ローマの信徒への手紙8章6節)

 肉というのは死に向かわせる何かです。例えば、私を徹底的に人との交わりから遠ざけ、孤立させ、まるで窒息するような毎日を送らせる力に支配されてしまったとします。もうそこから動けない。そういう時に肉の思いに支配されてしまっているというのです。とにかく、神が造られた自分というところから離れて、死に向かっていく。どんどん物事がダメになっていく。そういう方向性に向かわせるベクトルです。

 霊の思いというのは全く逆。命に向かう、エネルギーに溢れて、命がそこから溢れ出てきて、楽しく、喜ばしく、平和と協調、決して孤立せず、多くの人と恵みを分かち合って、喜びが次々と増幅して、愛がそこに溢れてくる。そういうベクトルです。平和がそこに形作られてくる。

 この肉をキリストは支配することがおできになるのですから。肉の力、ベクトルを支配する権能を神から授かることを祈り、キリストが祈られたその祈りは確実に実現しますから。そのキリストに、肉の力に支配されそうになっている自分自身を明け渡していく。具体的には、自分の肉の要素、死に向かわせる力、神とは真逆の方向性。そういったものさえも、キリストの力、権能に信頼して祈り、委ねていくのです。肉の恐ろしい力に支配されて、そこから抜け出せず、神の方に行けない。命の方に行けない。と感じていても、キリストはそれを支配おできになる。

 命を与えられて、平和があたえられる。そういうエナジーにあふれた、安心した状態から、私たちを引き離す力。それがもう、そこら中に蔓延している。安心から遠ざけ、力を奪い意気消沈させる。状況が、環境が、人が。あらゆるものが肉の要素、死へと向かわせる要素となり得る。しかし、それはもうキリストが支配おできになる。そう信じて、祈り、委ねてしまう。

 このキリストの力を信じてしまうという驚くべき恵み。もう、この自分の心を暗くする要素にずっと縛られ続ける必要はない。それらはキリストがご支配くださる。だから、もうそれら不安要因を後ろに投げ捨てて、心が喜び、神のもとで憩い、神の恵みへと徹底的に思いをシフトしていったらよいのです。

 永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネによる福音書17章3節)

 この言葉が示すように、永遠の命とはキリストを知ること。キリストと対話をすること。会話をすること。その関係をしっかりと保ちちつ、何があっても神がお支えくださることを信じて疑わないこと。この肉が朽ち果てようが、キリストが受け止めてくださることを信じること。具体的には天に自分の居場所があるということ。この天の要素が心に入ってくることによって、肉から解き放たれ、自由で、力強く、喜んで生きるその道が開かれるのです。

 私は牧師としてもう6年の歩みが与えられました。伝道師の時代が2年ありましたから数えれば8年の歳月を聖書を伝えるものとして過ごしてきたのです。が、多くの人が牧師たるものこうだという、上着を私の方にかけていったような気がします。しかし、それは私の体には決してあいません。常にあいません。Eい他人がこしらえた牧師像など私にあわない。だから、そういうものを無理やり着させられるとめちゃめちゃ窮屈でストレスフルでフラストレーションが溜まっていくのです。すっごく苦しい時期が続きました。

 皆さんもそうでしょう。親としてこうあるべきだ。子どもとしてこうあるべきだ。オトコとして、オンナとして、夫婦として、職業人として。クリスチャンとして。そういった上着を上からかけられると、それにそぐわない自分が見えてきて、なんとも着にくいというか。ストレスフルで、力が湧いてこない。力が逆に削がれる。まさに肉のヴェール、肉のマントがそこにかぶせられるような思いがして、エネルギーが尽き果てていく。

 人間が人にかける期待とか、思い込みとか、そういったものは、人の体に合わないものがほとんどで、息苦しいのです。しかし、キリストが与えてくださるものというのは、自由になります。キリストはすべてを知っておられる。こうあるべきだ。などということをぶつけてくるではない。

 私を知れば良い。それが命だ。

とおっしゃられる。大きく腕を広げて。私を知れと。私と対話をしていけばよい。私と関わりをもてばよいのだ。私に相談しなさい。祈りなさい。そういう言葉として聞こえてきます。すなわち、キリストのことを思いながら過ごすその生こそが、私たちの命。永遠の命なのであると。

 もう、この命のダイナミズム。安心感。この私をとにかくキリストに。いろんな肉的な要素も、罪も、持っている。しかしそういったものを、支配していただけるお方のところにとにかく行って。すべてを打ち明けるのである。キリストは御心のままに、すべてを行ってくださる。アーメン。