出エジプト記20章1〜2節 「救う神」

十戒の前文

 9月から子供たちと十戒を読み、学んでいきます。私たちの教会の大きな賜物というのは、子どもと礼拝の歩みを共にしているということです。「みんな一緒の礼拝」という教会標語を掲げつつ、大人も子どもも、互いの姿から影響を与え合って、共に礼拝をささげております。子供たちと共に、聖書の基礎の基礎に入っていけるということはこれまた喜びであります。本日取り上げております、十戒というのは、旧約聖書の中心です。この中心を学ぶことから、聖書全体を見る力が養われていきます。

 ちょうど振起日と重なりましたので、この時から私たちは新しい視点で、新しい態度でまた聖書に取り組み、神様のお言葉をいただいて一週間を歩み始めたいと思います。さて、本日注目しております箇所は、十戒の十の戒めそのものではなくて、その前文です。

 この前文こそが、非常に重要なのだということは、祈祷会を通して、また説教を通して何度もお伝えしてきました。私にとってはこの十戒の前文というのはまさに人生を決める言葉となりました。過去も現在もいやこれからも、この十戒の前文こそが自分の人生を方向づけるものになっていくであろうということは疑いようも無いことです、わたしにとっては。私は神学生の時、もう神学校をやめたいなぁと思っていたときに、この十戒の前文が頭の中をぐるぐると回っていたという経験をさせていただきました。非常に苦しかった時です。

 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(出エジプト記20章1節)

 もう自分はダメだと、自分に固執して、自分にこだわり、そんな自分の不甲斐なさに自暴自棄になり、こんなことでこれから牧師は務まるのだろうか。そんな悩みの中にあった神学生のとき、折々で「わたしはあなたを捕らわれの国から導き出す」という神の思いが心に響いておりました。

 確かに、神様からいただいた言葉というのは少しずつ少しずつ私の心の中で、実現していっていると思います。キリスト者としての歩みを続けていくことで、心を奴隷状態にするさまざまなとらわれから徐々にではありますが、確実に解放されて行っているのを感じます。その証拠に、どんどん人生が楽になっていっている、自由に歩みがなっていっているという実感があります。それはたった一言、この言葉を思い巡らすというところにその根拠があります。

 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

 神は何があっても救い出されるのだ。この前提に徹底的に立ち続けると、心が変化してくるのです。

十戒の前文の前文

 本日は前文に注目しておりますが、この前文の前文ともいえる19章の言葉。この言葉も実はとても大事なのです。なぜ、イスラエルの民を奴隷の国から救い出したのか。というその理由が書かれているからです。出エジプト記19章3〜6節。

 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。

 「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

十戒を与える理由

 そもそも何故十戒が与えられるのかと言えば、それはイスラエルの民と神様とが契約を結ぶためです。しかもこの契約というのは、人間が人間と結ぶ契約とはかなり次元の異なる契約です。神が恵みを一方的に垂れてくださって、それを民が受け取るかどうか、という契約を結ぶのです。受け取るかどうかという契約です。

 そして、それを受け取ったものは律法を実行して歩まなければならない。十戒を守らなければならない。というものです。法を受け入れて実行できてはじめて神の民として迎え入れるよ。という契約ではありません。私はあなたを救い出した、あなたを導いてきた、そのあなたを民として迎え入れる。その大前提があり、その上でこれは守ってほしい。だから、法をさずけるというのが十戒であり、律法であるのです。民が神の民として聖なるものとなり、幸いに生きていくことができるようにという神の基準が示されていると言ってよろしいでしょう。

 だから、神様は常に救いの歴史というものをまず言葉の先頭に置かれるのです。救い、そして、なすべきこと。この救いがあって戒めという構造の文章が出エジプト記もそうですが、いま祈祷会で読んでいます申命記でも繰り返されています。出エジプト記19章4節。

 あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。

 奇跡を起こし、エジプトから連れだした。驚くべき鷲のような速さで敵の手から救い出した。そのことを、まず覚えていなさいと。そして、この戒めを守っていくのならば。出エジプト記19章5節。

 今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。

宝の民となるとは

 宝の民となるとは、具体的にどういうことなのでしょうか。それが19章の6節に記されていることです。

 あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

 宝とは、祭司の王国、聖なる国民となるということです。祭司というのは、人と神様との間に立って、誰かと神様とを結びつける人です。祭司となるべき人は、聖なる人でなければなりません。聖なるというのは神様に選ばれたということです。聖というのはヘブライ語で分けるという意味があります。

 だから、神様に選び分かたれたその人ということですね。日本人は清く正しく美しく。それが聖ではないか、と多くのひとが考えますがそうではない。選び、分かたれて、神にささげられた人。その人が聖なる人なんです。

 だから、選ばれて、キリスト者となって洗礼を受けた人。その人はどんな人でも「オレは聖なるものなんて呼ばれるほどのもんじゃないよ。」って思っている人ほど自覚しなければいけない。内容がどうこうではなくて、神が選び出したあなたがキリストの名のもとに洗礼を授けられ、清められ、聖別されて、聖なる者とさせていただいているのであると。

イスラエルだけじゃない

 選ばれ、聖なるものとされた。そういう自覚に立つことが大事です。しかし、なぜ選ばれたのかということをいつも忘れてはいけないのです。祭司としての役割を与えられているのだと。神様がイスラエルと契約を結んで神の民としてくださったのは、イスラエルの民だけが救いに預かって、その他の民は滅びるのだということではない。その他の民が滅びることがないように、滅ぼさないためにこそイスラエルが選ばれた。選ばれた民は祭司として人と神とを結びつけるのです。

 これは信仰の祖であるアブラハムの時から、明確な方向性として選ばれし民に与えられている使命です。創世記を確認しておきたいと思います。創世記12章1〜3節。

 主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷/父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福にはいる。」

 アブラムというは、アブラハムのことで私たちの信仰の父と呼ばれる人です。信仰のみによって神に受け入れていただけるという、そのことを身をもって私たちに教え続けている存在です。この信仰のはじめの時から、ずっと、アブラハムは祝福をいただいてそれを誰かに手渡して、そのアブラハムの子供たちが増え広がって、地上の氏族がすべて祝福にはいるという、そのところまで神様の視野は向かっている。ということは、信仰を持つものは、自分が救われてあぁ嬉しかった、で終わってはならない。この宝の民とされるという喜びをまた誰かに伝えてこそです。そのための選びであったのだということです。宝とされて喜びを十分に味わったならば、その喜びを誰かに手渡して一緒に楽しまなければならない。共に神を楽しみとすれば、その楽しみは何倍にも増えていくのです。

神の前での備え

 神の前で民は上からの啓示をいただくための準備をしなければなりませんでした。神から啓示をいただくため、神から言葉をいただくための準備。その準備とは、不思議なことに「シナイ山に登ってはいけない」というものでした。出エジプト記19章16〜19節。

 三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れだしたので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主がヒの中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセがかたりかけると、神は雷鳴をもって答えられた。

 シナイ山に神がお越しくださる。しかし、罪人は神にお会いすると死んでしまう。だから、主はこうモーセにおっしゃられました。

 「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」

 神に近づけないということを認識して、シナイ山の麓で待っている、これが不思議なことに民の備えなんです。

清め

 さらに、もう一つの準備は、衣服を洗って清めるということ、そして女性には近づかないということ。女性に近づかないというのは性的な関係を持たないということです。衣服を洗うということは荒れ野での旅では水が非常に貴重ですから難しかった、だから、かなり、労力をかけて準備しなければならないことだったのです。しかし、それでも彼らは水を準備して、衣服を洗って清めたのです。

 契約の民は、この一連の出来事を通して、神がどんなお方であるかを学んだのです。神をお迎えするために備えるということを通して学ぶのです。

 「神に近づいてはならない」ということを通して、神様には本来、罪人は近づくことはできないのだということを学んだのです。私たちは知っています。私たちが神に近づくことができるように、キリストが十字架にかかって罪を精算された。ということ。だから、私たちが親しく神と対話できるのは、祈れるのはすべてキリストの十字架の業ゆえなのです。しかし、本来は近づくことはできない、畏れ多いことであるのだ。ということをわきまえて礼拝に座るのとそうでないのとでは全く意識が違うはずです。

 認識によって人の態度というのは全く変わります。

 神の前で衣を清めるということは、いままで自分が背負ってきた汚れと向き合って、それを清めるという行為です。私たちキリスト者も、自らの罪を認めて告白して、その清めを受けて、神の前に行かなければならないのです。

備えるものに

 神は、畏れ敬う心、罪を悔いて神の方に方向転換し、神を見上げるもの、それが備えです。そのような者達に約束の言葉を賜ってくださるのです。「私は救いの神である。あなたを宝としている。」そして、「祭司として、あなたの民のところにあなたを送り出す。」この言葉を誰か他の人への言葉としてでは全くなく、神から私への言葉として聞く。

 そうして、人は自分の人生が驚くべき変化の中に置かれていることを自覚して、その神の働きの中に自分自身を投げ出して、飛び出していくのです。私はキリスト者として15年の歩みを続けて参りましたが、ずっと変化の歩みでしかありませんでした。大阪にいることを一度も想像したことがありませんでした。それが10年前のことです。目を開いて、神の業にもっと信頼して委ねきれば、もっと素晴らしい変化と祝福が待っていると期待しているものです。

 救いは人間の側に要求されていることは、神を信じる、キリストの十字架の業を信じるという信仰しかありません。しかし、この世でのそれぞれの歩みについては、それぞれが神の業をその歩みの中にいかに見出し、その神の御手に自分自身を委ねていくのかということが非常に重要であると思います。人間が委ねないと本人の前に神の業は開かれていかない。神は人間に無理強いをされる方ではないので、こちら側が信じ、実際委ねるということをしていかないといけない。

 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

 この宣言の前に、ひざまずき、沈黙し、しかし、キリストの名によって応答し、救いの神を信じて目の前の課題に立ち向かっていくのか否か。人生をこの言葉への応答とするのか否か。私は問われている思いがいたします。皆様はいかがですか。救いを受け止め、救いにお応えしたいと思われる方は。ご自分に与えられている道は何なのか思い巡らし、今日の内に主にお応えしたいと思います。主にお応えするには今日です。明日は明日のみぞ知る。私たちに与えれている今日という日のうちに信仰の応答をささげて、そして、祝福を大いに頂いて明日につなげてまいりたいのです。アーメン。