出エジプト記 20章3節 「あなたの神」

救いの神であること

 イスラエルの民にとって、神が神であることは、体験と結びついて理解されることでした。机上の空論では全く無かった。その体験というのは、神が奴隷状態であったエジプトから、ファラオという強大な王の支配から救い出してくださったという体験でありました。体験を通して得られた認識というのは、非常に強いものとなります。

 神様はどのような思いを民にお持ちであられたのかというと、それは十戒の前文に記されております。

 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(出エジプト記20章2節)

 これは先週の説教でも触れました。これこそが十戒の精神であると。あなたの救いの神であるということを神様は示され、その関係の中でこれだけは守ってもらいたいというものをお決めになられたのだと。この前文の精神が反映されている言葉があります。極端な話、この前文の精神というのは、この聖書全体を貫いているとも言えるのですが、もっと具体的にここだという箇所がありますので、ご一緒に読んでおきたいと思います。

 それは、出エジプトの奴隷解放のリーダーであるモーセが使命を与えられた時に記された文章です。そのところに、神様が何故民を救い出すのかという熱き思いが示されております。出エジプト記の3章7節以下です。

 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

 信仰と契約によるイスラエルの民を神は、「わたしの民」と呼んでくださいました。ご自分の民とされたその民に対しては、その叫びを聞き、その痛みをすべて知ってくださるというのです。その痛みを知ったらならば、天から手を降さざるを得なくなると、エジプト人の手から救い出し、素晴らしい乳と蜜の流れる土地へとイスラエルを導いてくださるというのです。それが神が「わたしの民」と呼んでくださるということの具体的な恩恵です。どんな深い闇があったとしても、救い、素晴らしい所へと導く。

乳と蜜の流れる土地

 乳と蜜の流れる土地というのは豊穣の土地という意味があります。山羊や羊は、荒れ野を旅しているような時よりも、約束の地カナンに入ると乳の出が非常によくなります。というもの、荒れ野と違って、定住して緑が豊富で、エサが沢山有るところに来ると、家畜の乳の出方が全く違うのです。家畜の乳の出方が変わると当然、それも人間に影響を与え、人間の母の乳の出も良くなったのです。だから乳と蜜の流れる所というのは、すべての生き物にとってありがたい土地です。

 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。

 とあります。神様は、どんなところからでも、民の苦しみを見ていてくださっていつの日かこの状態から解放してくださって、ご自分のお力をお示しくださる。絶対的な神の救いを体験するのです。この神の力を体験するために、苦しみは準備されているのでしょう。

 神の言葉を信頼することができると、何十年にも渡って、苦しみからの救いの準備がなされていくということを信頼することができるようになるのです。ずっと苦しみからの解放の準備が整えられていっている。カラッカラの干上がった土地にいつまでも置き去りにされるということは、決してあり得ないことであり、神はやがてご自分の力をお示しくださるのです。

 つぶさに見ていてくださって、憐れみを注いでくださり、かかわってくださる。それが救いの神であるということの内容です。その救いの神が、かかわってくださる神が、戒めとしてこれだけはということを残してくださったのです。だから、天の父を信じるものはこれに従わねばならないのです。その御恩に応えるために。ご恩に応えるのが当然なこと、それだけの恩恵を受けているのだから。

 本日与えられております箇所は、その十戒の第一の戒めです。出エジプト記20章3節。

 あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。

わたしをおいて

 わたしをおいて他に神があってはならない、の「わたしをおいて」という翻訳。この翻訳は原文と意味においては変わりませんが、原文をそのまま覚えた方が皆さん信仰にとってよろしいことであろうと思いますので、是非覚えてください。「わたしをおいて」は「わたしの顔の前に」と直訳することができる文章が書かれているのです。

 つまり、やはりさきほどから見てきました神様の思いがはっきりと反映されているということです。ずっと民の苦しみを見てきたのです。すなわち御自分の顔の前に民を起き続けてこられたのです。モーセが神様に遣わされるとき、あの時から変わらず、そのままこの十戒に神の思いが反映されている。見ていないようであったとても、ずっと見ていてくださって、ご自分の顔のまえに民を置いていてくださる。

 イスラエルが生きていくということは、神のお顔の前ですべて起こっている出来事であるということなのです。

 だから、もしもみなさまの中に、神を今信じて、神の民となった。そういう方で、「いやいや神様ずっと見ていて下さる、という割に、なんと私は不幸な歩みであったのでしょうか。」とか「なんで私はあれほど周りの人と比べると不運な歩みであったのでしょうか。」「どうして私はこんな人生を与えられたのでしょうか。」

 そういう思いがおありであれば、神様のお顔の前での人生なのですから、その不満を神様に全部申し上げていただければ良いのです。神様は私たちが神を呼び求めることを何よりも求めておられるので、もしかしたらその不運な出来事は神との関わりを見いだすためにあったのかもしれないし、何かしら神様の意図がおありで、そこに神によって追い込まれたのかもしれないのです。その意味が分かるように、神よ私に語りかけてください。どうか、私を乳と蜜の流れるところへと1日も早く導いてください。そのように、必死になる祈りを捧げていく。神は、その方の祈りを顔の前で聞いておられるので、それに必ず何かしらの方法をもって答えてくださるはずだ。そう信じております。

 私を洗礼へ導いた鈴木崇巨牧師に教えていただきました。

 「石井くん。誰かが祈れるように、導いたら良いんだよ。」

 と。確かに、人が自分の言葉で、自分で必死になって神に祈りだしたとき、そこに神の力を皆が例外なく発見していく。神が真に私を見ていてくださっているということを実感するのであると。だから、祈りに人を導くことができるかどうか。祈りを自分の言葉で、実行してただけたら、それで確実に神と結びつくのです。

わたしの他に神はない

 歴史を通して導き、その実績が明らかにあり、ずっと導いてきた。心と心がふれあうことができるほどに、近くで実際に力を発揮してきた。ファラオから救い出し、葦の海を割り、奴隷状態から解放した。人間の歩みが全部神の顔の前での人生であるように、張り付いて、じっと見ていてくださって、その歩みを共にしてきた。私があなたの神であるのであって、他に神などいるはずがない。

 他の偶像の分野別の、ご利益主義の神、そんな、人間の欲望の反映のような、欲望の塊の神が神であるはずがなかろう。

 3節の、「わたしをおいて他に神があってはならない。」

 という言葉は、禁止命令としてしか日本語では読めないのですが、原文を厳密に探っていきますと、「あってはならない」ではなくて「わたしをおいて他に神はない」と訳す方が的確であるということがわかってきます。あなたに私以外の神はない。この言葉の中に神様の救い主として自信と、人間への愛と、人間に関わってきた長年に渡るその実績が読み取れてくるのは私だけでしょうか。 

 「お前には俺しかいない」

 恋愛ものドラマで出て来そうなフレーズです。「お前には俺しかいないじゃないか。」

 「わたしは熱情の神である」と5節にありますが。熱情というのもまた「ねたむ」神とも訳せるんですよね。これまたまるで恋愛のように、他の人の方を向いていたらねたむぞ。と、それが私たちの信じる愛なる神なんです。

献げ物への記述

 20章の後半部分が祭壇の建立について書かれているということは、とても重大なことです。神の約束の言葉、十戒が与えられて、民は神様と契約を結び、神の民となる。するとそこで大事になってくるのが、人間の献身ということです。

 祭壇というのは、人間の献身をあらわす場所でありました。特に全焼の生け贄というのは、動物をすべて焼き尽くすというこういうによって、自分自身を神にささげてしまうという意味がありました。しかも、雄の動物しかそこでは献げることができませんでした。雄というのは、家族を代表する存在でした。家、家族、長、族長。その務めを負うのは男子。だから、男子というのは家全体を象徴する存在でした。その雄を全部ささげつくしてしまって、神にその一族全部を献げつくしてしまって神様の言葉にお応えする。それが神のご恩に対するふさわしい答え方であるということなのです。

愛のリアリティ

 愛を受け、愛を求め、愛をささげ、愛によって導く。このリアリティの中に生きることができることが幸い。祈りによってなんでも神に申し上げることができる。祈りによって感謝の歩みをすることができる。祈りによってどんな文句や不平不満もすべて打ち明けたら良い。祈りによって神が目の前におられたんだと気づく。祈りによって神が御子さえ献げつくして、焼きつくすささげもののように、御自分の愛を燃やし尽くされて、私たちに御子を犠牲にしてまでも救いの道を準備するという愛をおみせくださった。

 もう、何があっても、ここまで、救いが届く。何があっても、この方は天から関わってくださる。この御方の顔の前で物事は起こっているのだから。アーメン。