出エジプト記 20章4〜5節 「偽りの像を造るな」

十戒の大前提

 十戒の大前提、律法の大前提、聖書の大前提、信仰生活の大前提。これを覚えていただきたい。それは十戒の前文にすでに記されていること。

 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(2節)

 すでに、過去においてあなたを救い出したのだ。救いの業を長年かけて計画し、それを実行してきたのだ。あなたは圧倒的な不利な状況からすでに救い出されているのだ。その救いの神がかかわって下さることをまず意識せよ。それが聖書の大前提、律法の大前提、十戒の大前提です。このことを受け入れると、人生が変化するでしょう。

 救いが既にあるということを理解すると、過去に起こった出来事の意味は変わりますし、また現在なぜ自分がここにいるのか。その意味さえ変わるでしょう。過去と現在の意味が変わったら、未来は確実に変化します。そのようなダイナミックな変化を私たちにもたらすもの、それが神の言葉、聖書です。

顔の前に

 前回、十戒の第一の戒めで確認したことは、神は私たちを御自分の顔の真ん前に置いていてくださっている。すぐそこでわたしたちを御覧くださっているということでした。

 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(3節)

 の「わたしをおいて」という言葉は「わたしの顔の前に」という言葉が使われているということを重く受け止めてほしいというお話をさせていただきました。イスラエル民族の苦しみと叫びとをつぶさに御覧になられていて、解放のリーダーであるモーセを長い年月をかけてお導きになっていたのだと。

モーセの「顔の前」の生涯

 モーセは使命を与えられてイスラエルのリーダーとなっていきました。しかし問題は使命を与えられた時のモーセの年齢です。彼はだいたい80歳であったと言われています。それまで色々ありました。80年の歩みにおいて、殺人を犯してしまったこともありました。同胞がエジプト人に傷めつけられているのをみて、義憤にかられて殺してしまった。その結果ミディアンの野に逃げていかなければならなかったのです。

 モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして1人のエジプト人が同胞であるヘブライ人の1人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。(出エジプト記2章12節)

 エジプト王に追われて、ミディアンという荒れ野を彷徨わなければなりませんでしたが、幸いにもその地に住むエトロという祭司のところでツィポラという娘を妻として迎え入れます。男の子を得て、平凡だけれども、家族と共にすごす平安な日々を楽しんでいたのです。かつて殺人を犯してしまったのですから、静かに目立たずに生活したかった。それが本音でありましょう。しかし、モーセの思いにかかわらずに、神は御自分の使命のためにモーセを呼びだされました。

 モーセの人生を見ますと、ずっとイスラエルの解放のリーダーとして神が始めから奇跡的な仕方をもって導かれていたことを思います。命が危ないということが何度あったことか。エジプトで殺されそうになったことがありました。イスラエルの民が勢力を増してきたものですから、エジプト王はイスラエルの力を削ぐために未来を奪い取りました。すなわち、子どもを虐殺するということをもって、イスラエルの未来を封鎖しました。そんな恐ろしい思惑が渦巻く中、辛くも赤ん坊であったモーセは生き残ることができました。それはこの神の御業のためにやがて動き出すためでありました。神がイスラエルの民を見ていてくださったということが何度も記されていきます。

 それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。(出エジプト記2章23〜25節)

 もしかしたら、モーセの心は、同胞に対しては、冷めきっていたかもしれません。イスラエルの神のこともどこかいってしまっていたかもしれない。もう80歳でありました。静かに暮らしてきたのです。愛する妻と、子どもと。あえてその生活を捨ててイスラエル解放のリーダーとして立つにはあまりにもおそすぎた、そんな気がするのです。案の定、モーセは自分が立ちたく無いと神の前でごねます。

 しかし、もしもモーセの心が冷え切っていても、神の心は冷たくなることはない。民への思いで燃えているのです。民が苦しめばそれを解放するために、燃えるような情熱を傾けられるのです。それが、あのエジプト人への10の災いとなり、葦の海の奇跡となったわけです。約束の地に必ず導いて、乳と蜜の流れる土地で民が平安に安らぐその姿を神様は御覧になられたいわけです。そのためにも、戒めを与えて民が契約の中にずっと立ち続けることが必要でありました。戒めを実行することによって神に従っていく道が準備されました。それが十戒です。

 そして、この十戒の前で十戒を実行して生きるということが、また神様がお顔をずっと民の方に向けているということに対する応答でもあったわけです。

第二の戒め

 本日はその十戒の第二の戒めを読みます。

 第二の戒め。

 あなたはいかなる像も造ってはならない。(4節)

 この中に実は新共同訳聖書では省略されてしまっている言葉があって、しかもその省略されてしまっている言葉こそが大事なのですが、、、なぜか省略されているので、ぜひとも皆様にはそれを知っていただいて記憶にとどめていただきたいと思います。

 あなたは「自分のために」いかなる像も造ってはならない。

 偶像崇拝の本質というのは、「自分のために」像を造ることです。お金がほしいととにかく思ったら、お金を自分に与えてくれるだけで他のことは何も言わないような神を造り出すのです。それが偶像崇拝です。よく説明させていただくのですが、「分野別」のここだけはと支配しているような、その他のところは全くわからないような神を造るわけです。そうしたほうが「自分のために」都合が良いからです。

 このところは神に委ねるけれども、他のところは自分の思い通りに。だから神に関わってほしくないから、ここからは入れない神を。。。などと思っていると全能の神には祈れなくなります。「ここは委ねられない」というところを心に残していると、心がもやもやとして祈りに自分を投入していくなどということができなくなるんじゃないでしょうか。

 私たちの人生を私たちの思い通りにすることはできなくて、私たちは神の思いのままに神が思っておられることに従うという歩みをするのが人間の歩みであると聖書は教えるのです。神を私たちに従えるのではなく、私たちが神に従うのです。そのときに、祝福が溢れるばかりに流れ込みますし、喜ばしい、幸いな歩みとなるのです。

祈祷会で学んだ祝福

 ちょうど、先週の祈祷会において、祝福について共に読んだばかりですので、皆様とも祝福というのは具体的にどういうものか、知っておきたいと思います。神様がお与えになる祝福というのがどういうものなのか極めてわかりやすくまとめてありますので、お読みしましょう。申命記28章1節以下です。

 もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。

 確かに、イスラエルの民が律法を守って、それを実行するのならば、誇るべき民、世界に類を見ない、素晴らしい民になることでしょう。共同体の中で当時弱い立場にあったひと、例えば孤児であったり、寡婦であったり、寄留者外国人の権利を守るということを積極的にせよ、経済的な支援もせよ、と記されておりますので、実際に国をあげて、そういう弱い立場の人々を守ろうという運動を起こし、さらには他国に対しては非常に強い軍事力も有していて、他の民はどうも手をだすこともできない。福祉に手厚いしさらに、力もあり脅威、そして高い倫理的基準を有している。まさに輝くべき位置にイスラエルの民はあるであろう。そのように神様はおっしゃられるわけですね。それが神の言葉に聞き従うことの具体的な祝福であると。さらに。

 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。(3節)

 町にいても祝福されというのは、まぁ、平たく言えば都市で交易に携わるもの、商業、経済活動にたずさわること、これも祝福される。さらに野にいてもというのは、農業従事者のことですが、農業の分野も祝福される。

 あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、籠もこね鉢も祝福される。あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。(4〜6節)

 自分の子どもも、家畜もどんどん増え広がって、食べ物にもことかく事が無く、労働においても祝福を受ける。

 大体おわかりになりましたでしょうか。具体的に少しみてきましたが、、、とにかくこれは、、、私たちの生活に関わること全部ということです。それらが神の祝福を受けて、良い方向に導かれていく。 

 神を自分の思い通りにしよう、人生を自分の思いどおりに運ぶようにしよう、そのために自分にとって都合のよい神にしておこう。そういう思いをかなぐりすてて、自分の思い通りにはならない神様uを受け入れる。私たちの想像の内にも収まりきらない神様。私に神を従えるのではなくて、私たちこそが従うべき神様。その私の脳みそにおさまりきらない神様を追い求めて、祈っていく、ひざまづいていく。言葉が与えられたらその言葉に忠実になろうとしていく。そうすると、不思議なことに、自分の思い通りにはならないんですが。。。神は先程も見ましたとおり、人生すべてに及ぶ祝福を与えようと待ち構えておられるので。自分の思い通りにならない事を認め、自分の思い通りにしようとせずに、従うと恐ろしいほどに全生活にまで及んでしまう祝福が流れだしてくるということなのです。

 これは人生における不思議な逆説と言ったらよろしいでしょうか。自分の思い通りにしようとしないと、むしろ、おそらく思い通りになるならこうだと考えていたものよりももっと素晴らしい人生に神様がしてくださるということなのです。

地上のものではなく

 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。(出エジプト記20章4節)

 上は天にあり、下は地にあり、地の下の水の中にある。。。

 上は天に、は分かると思います。空ですね。下は地、地上ですね。天というのは聖書では第三の天まで考えます。第一の天は空です。第二の天は宇宙空間。第三の天は神様のお住いです。地上はこの地球上の地上、それから地の下の水の中にとありますが、これは地球が丸いってわかっていない時代のことです。だから、地の下にはマグマとかマントルとかそういうものじゃなくて、水になっていると考えていたんですね。海があれだけ深いものでしたから、地は水に浮いていると考えていた。だから、地の下の水。という言葉が出てきます。この世界におけるありとあらゆるものの形に似せて神を造っちゃいけないよということです。言い換えると、さきほども「自分のために」像を造ってはならないと言いましたが、自分のあたまの中にある想像によって人間の想像の範囲に神を押し込めちゃいけないよ。ということでもあります。

 しかし、神様は私たちの想像をはるかにうわまわってというか、誰も神様のお顔を見たことがないですし。果たして私たちの脳みその中に収まりきるご存在なのかどうか。ただ父であられること、そして、肉体をもってこの世にこられてキリストというお方を通して、天の父はこういうお方であるなぁということがおぼろげながら分かるのであって、極めることはできない。分かったと言い切れない。

 だから、私なんかは、神の前にひざまづいている人というのは信仰者として信頼できますが、神はこうなんだ、神はこうだ私はわかっているんだ、お前たちわかっていないもの、これを分かれというような態度を言外に示している人など信用できませんよ。そんな自信は嘘だって分かりますもん。自分のために神をつかっている、自分だけはわかっているということをもって自分に視線を集めたいんです。自分のためです。だからそれも偶像礼拝ですね。

熱情の神

 わたしは熱情の神である。(5節)

 神様は御自分を表現されます。この神が御自分を表現されたこの言葉を通して神を知ることができます。熱情はねたむとも訳せる。人を愛するあまりに、人が他を向いているとねたむということです。

 わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(6節)

 神様は神のもとに帰ってくるものを直ちに迎え入れて下さるお方。イエス・キリストの十字架の御業によってそれが実現されました。私たちは悔い改めて神のまえにひざまづくのならば、すぐに受け入れていただける。しかし、神様はわたしたちの罪を野ざらしにはされておかれない。そのことに対しては必ず公正な裁きをなさる。だから、罪は厳しく問われ続けるのです。しかし、神に従い言葉に従おうとするものに、幾千代にも及ぶ慈しみを与えるとおっしゃられるのです。

 わたしはこの神の約束の言葉の前で、自由に生きることができます。過去に引きずられず、未来を心配しすぎて悲観してしまうのではなく、それは神に委ね、神に従うものに幾千代にも及ぶ慈しみを与えると約束してくださっているのですから、安心して今あるこのとき、この一瞬にだけ集中して努力することができる。過去に引きづられない現在は晴れ晴れとした歩みです。自由な歩みです。未来を必要以上に悲観する必要の無い現在はとても喜ばしい、自由な歩みとなります。

 神の言葉を喜び楽しむと、自由で晴れ晴れとした歩みとなるということを、教会を通して、十戒を通して知ることができます。熱情の神のもと、ねたむ神のもと、神はこちらをずっと御覧くださっていて、幾千代に及ぶ慈しみを祝福を与えようと待ち構えておられる。その方を無視することはできません。その方の方をむいて、神様の思いを一身に受け止めて歩みたいと願います。

 今日この神の言葉に応えて歩む歩みとはどのようなものとなりますでしょうか。主の思いに応えたいと思います。アーメン。