出エジプト記 20章7節 「神の呼び方」

呼びかけ

 人の名を知って呼びかける。ということは、関係性を造り上げていく中で極めて重要なことです。名前を知らなかったら、その人の存在自体がいつのまにか遠のいていってしまう。時々人の名前が思い出せないということもあるかと思いますが。やはり関係性が希薄であるときに、忘却が起こる気がいたします。自分の息子、娘の名を忘れる親はいません。しかし、たった一日しかあったことの無い人の名は何処かにいってしまう。これが、人間の脳の限界かもしれません。

 名前を確定し、その方に呼びかけるということは極めて重要なことであり、関係性を築いていくための基盤であります。特に神様の場合は、神様ご自身のご性質を御自分のお名前で説明なさるという要素さえあることですので、神様がどんなお名前かということは重要なのです。本日お話する内容に関してはぜひとも暗記していただいて、度々神に思いを馳せる機会としていただければと思います。

 さて、神様がご自身のことを、ご自身の言葉で説明されている場面を開きたいと思います。出エジプト記3章14節です。

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 わたしはあるという言葉の意味は、「わたしは在りて在るもの」「実在するもの」「ありありと目の前にあるもの」というような意味があります。旧約聖書のヘブライ語で神はヤハウェと記されているのですが。このヤハウェという神様の固有名詞も「わたしはある」という言葉と関連していると言われています。語幹がほぼおなじだという理由から、ヤハウェも「わたしはある」という意味であろうと言われております。

名前を知っているということ

 神の力を引き出し、神に祈るためには、神の名前を知らなければならない。そう古代の人々は考えていました。確かに祈り呼びかけるためには、その名前が分からないと呼びかけられませんし、届く確信が湧いてきません。しかし、知っていればそれがやがて届くであろうことを信じる事ができる。そういった意味で、名前を知っているということは極めて重要だったのです。

存在の根拠である神

 私は中学生ぐらいの時から、どうしてこの世界に秩序が存在するのか。もっと茫漠としたカオスで物質が散り散りであってもよかったのではないか。私は大きな夢を持っていました。しかし、自分の目的に向かって自分の心と体を従わせ切れない自分を強く感じていました。ですから、私の存在と同じようにこの世界はもっとカオスであっても良かったのではないか。という疑問というか、確信というか、思いが自分の中に渦巻いていたのを覚えています。何か、存在の中心がなければ、この世がこんなに秩序立っているのはおかしいのではないかという直感ですね。まぁ、直感ですから、これも何の根拠も無いんですが。しかし、大学のときにこの聖書の神に出会って、心がすっとしたと言いましょうか。存在の根本であられる、「わたしはある」というお方が。この方が始まりであるというお方がおられて。確かにその御方は、御自分のことをすべての存在の根拠であるとお教えくださる。

「わたしはある」は

 「わたしはある」は「わたしは共にいる」ということとつながります。存在の根拠であり、愛そのものである、父である神ですから。出エジプト記からもその愛が溢れ出ているのを感じます。ずっとこちらを御覧になられているわけです。十戒の第一の戒めには「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」とありました。これは「あなたは、わたしの顔のまえに、ほかに神はない」という言葉であると申し上げました。全部わたしの顔の前で起こっていることであり、そこで他の神をつくり出すなどということはありえない。父である私がすぐそこにいるのに、他の父を求めるなどありえないのだ。

 その御方の思いは、イエスさまも同じ思いをもっておられて、マタイ福音書の結論の言葉でこうもおっしゃられるわけです。マタイによる福音書28章18節以下。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 存在の根拠であられるので、一切の権威をお持ちであるとおっしゃられます。それゆえに、すべての人がこの神の存在を知ることができるようにしなさいと。この方のことを知ることこそが救いであり、この存在の根拠であられる方のそばで生きることこそ、私たちの生きる道であり、イエス様の贖罪の業にあずかることこそ、この罪深い自分から救われる唯一の方法であることをお示しくださるのです。そして、いつでもどこでも、世の終わりまで、この世界が壊されて新しく造られるその時まで、ずっとそばにいてくださるというのです。

 救いであり、私たちの根拠であり、食べ物を与えくださり、住む場所を与えてくださり、着るものを与えてくださり、荒れ野を導いてくださるこの御方。姿は見えなくても、ずっとそばにいて下さるお方。この御方がおられるのだから。本日の十戒の第三の戒めを守ってほしい。出エジプト記20章7節。

 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

 主の名をいま学びました。ヤハウェ、わたしはある。では「みだりに唱えるな」ということは、私はこのように「ヤハウェ」と口にしたこと、これをするなということなのでしょうか。みだりにということは一体どういうことなのでしょうか。ユダヤ人はこの戒めから畏れを抱いて、もうヤハウェは発音しないようにしようと決めました。そして、ヤハウェと書いてあるところはアドナイ(わが主)という言葉を発音することにしたんです。徹底しています。

 みだりにってどういうことなんでしょうか。そのヒントはこの十戒に隠されております。4節に。

 あなたはいかなる像も造ってはならない。

 という言葉があり、この言葉はむしろこう訳した方が、直訳に近いと申し上げました。

 あなたは自分のためにいかなる像も造ってはならない。

 「自分のために」という言葉が省略されてしまっているのだと。自分のために、自分の頭の中にあるこの世界の生き物や物の形を形作って、分野別の神をつくり出す。それが偶像なのだと。分野別というのはこの部分はお世話になるけれども、この部分は違う。この部分は入ってこないでほしい、この部分は自分の思い通りにしたいのである。だから、この部分だけは神様におささげしますが、ここは私の思い通りに。それから、自分にとって都合の良い、祝福というか、ご利益の約束だけを聞き取って他は全部無視するだとか。そういう捉え方。また、世界の中心は自分であり、その自分の幸いばっかりを考えて、他の人に目は全く閉じている。また、他の人を自分の物差しで判断し、裁きまくって、あらゆる人の害になっているような人。とにかく、「自分のために」神を使うようなことは、全部偶像礼拝なのです。

 神を私に従わせるのではなくて、神に私が従う。私の思い通りに人生を運ぶのではなくて、神が思われたとおりに自分を神に服従させていくのです。といっても、人間不純なところが多々あります。ですから、そういったもの全部ひっくるめて、自分の人生をしっかりと神の前に置いて、ひざまづく覚悟があるのかどいうか。これが大事なのです。

 と十戒を見ていきますと、みだりにというのは、これも自分のことだけのために、セルフィッシュに神を呼ぶ。しかも、神を自分に従えるといいましょうか。この部分は私の思い通り、それ以外はもう神はどっかいってくれ。そういう態度こそが、みだりにということの示す内容です。

 前回も言いましたが、神のことはオレはわかっている。だから、お前たちの知らないオレが知っている神を教えてやろう。などということをもしも思っているひとがいたら、それは神を自分の想像の内側に押し込めている行為であり、自分勝手で、自分本意な神の捉え方になってしまいます。そうではなくて、私たち人間はどこまでも、神の前にひざまづいて、存在の根拠である方の前で、この方から私たちが教えていただいて、この方にこそ従うことを選び取るのです。人間が造り出したなにかでは決してないお方に従い、求め続けていく道。

 以前哲学者の本を読んでおりましたら、哲学と宗教との違いは、哲学は知を追い求めていく行為であり、宗教はもう求め続けるのをやめてしまって、結論を出してしまって、追い求めるのを止めること、という理解の人がいたんですが。

 実際はそうじゃないと思います。求めるのを止めてしまって思考停止状態の人も確かにいるかもしれません。しかし、追い求めるのを止めるというのは、私たちの神への態度として明らかにあやまっている。

 人間は神のもとに行くまでは決して神を極めることはできずに、ずっと追い求めていく存在である。礼拝や祈祷会。これは何かが分かったから、来るのを止めるとか、何かを得られないから来るのを止めるとか、そういうもんじゃないです。ずっと神の前に自分自身の態度を改め続け、神に自分を捧げ続ける、まさに、私たちでは極めることができない、わたしはあるという存在の根拠である方に向かって、日々歩む方向を糺すための行為であるのです。

 キリストの者の中に形作られてくる徳というものがあり、それをパウロは言葉にしています。ガラテヤの信徒への手紙5章22節。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 これらは神を前にして礼拝の生活をしていると、私たちの内に流れ込まざるを得ない内容です。柔和というのは、神の前で硬直化した考えをもつわけに行かなくなるということの結果形作られていく態度です。常に考えを変えながら、180度方向をつぎからつぎへと変え続ける歩みになりますので、粘土がこねられて柔らかくなるようなものです。

 自分勝手に思い込み、自分勝手な神を造るのを止めて、人生こうだという思い込みも捨てて、神の言葉の前に心をまっさらにし続けて、1から、いや0からまた今日を始めるそういった清められた心を持って神の前に生きる。そこには祝福が流れ込むことになります。確実に。

 前回申命記を一緒に見ながら、祝福についての話をみました。祝福って言葉、理解しづらいですね。というのも当然かもしれない。祝福は捉えきれないものだから。全生活に及ぶ神さまの私たちに対する恵みでありました。生活の糧から、家族、人間関係、そして軍事にいたるまでも聖書には記されている。生活に必要なもの全てですね。それらを祝福してくださる。しかし、私たちが神を勝手に造り、神の名をみだりにとなえるようになると、どうなるかというと。

 みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

 罰する。ということは、祝福の真逆です。必要なものを取り上げられて、人間関係も破壊されて、そしてあらゆる面で敗北を帰さなければならなくなってしまうということです。喜びではなくて、悲しみ、平和ではなくて争い、寛容ではなくて不寛容、親切ではなくて悪意、柔和ではなくて石の心になり、節制することを知らずに、肉体も生活も崩壊していくのです。

思い込みは怖い

 神をどう見るか。と、人をどう見るか。というのは密接につながっています。私たちは本当に自分の心を戒めただしていくということが必要です。思い込みで神はこうだと勝手に決めてしまうといことが非常に大きな障害となっていることが分かると思います。人間にはおそらく処世術として身につけてしまったものであろうかと思いますが。この人はこう、この人はこうって思い込む癖があるように思います。そんなことを同じように「神はこうだ」ってやっぱり思い込んでいる。そういう思い込みから常に抜け続けて、常に神の前にひざまづき祈って。全面的に祝福を授けてくださるかたに信頼をして、自分を常に改めて行きたい。

 キリストの十字架こそが、私たちの思い込みを破壊するものです。王の王、主の主が、処刑台に立たされて、ボロボロになる。栄光を受けるべきお方が、呪いを引き受けられた。これが愛であり、神の姿なのです。神様は、あなたがここにはおられないだろうと思い込むその所におられるのかもしれません。アーメン。