出エジプト記 20章8〜11節 「安息日は安息すべし」

本当に安息しているか

 私は自分自身の姿を振り返りますときに、一つ悔い改めなければならないことがあるなと思います。それは自分の家族に対してです。この約10年間、牧師として働いてきまして、どうしても、自分で頑張って、自分でなんとかしようという、自力救済的なありかたで生きてきてしまったように思うのです。信仰によって、神に救われているのだと思いつつも、どうしても自分で頑張ろうとしてしまう。もうこれはクリスチャンになる前の20年あまりの生活が尾を引いてしまっているようにしか思えませんが、どうしても治らなかった。

 日曜日の準備をしますが、その準備も必死でしていますので、どうしても自分本位に、仕事優先で物事を考えてしまっていた。「なんとかしなきゃ」といつも考えていますから、プレッシャーとストレスを自分自身にかけながら歩んでいました。いつも自分にプレッシャーをかけていますから、イライラとしているという状態でした。そういう事が身にしみてしまいますと、休日だってイライラしてきます。家族と休みにいろんな所にいきますが、いつも仕事の事が頭の片隅にあって、こうすべきだああすべきだと考えているわけです。そうしているとまた、心はざわついて、落ち着かない。だから、本当に家族には迷惑をかけたなと思っています。

 休みに、イライラしている人がそばにいることほど、嫌なことはないでしょう。外に出さないように振る舞っていますが、そういう嘘はすぐにバレる。必死に自分の内側にある負の要素を撃ち殺しているのですから。

一緒にいて本当に楽か

 一緒にいて本当に楽か。相手に安息を与えているかどうか。これが一つキリスト者の自己評価の基準であって良いのではないでしょうか。自分自身が安息している人は、周りの人を安息させます。しかし、安息していない人は、周りの人にプレッシャーをかけて、周りの人を檻に閉じ込めて、周りの人の力を削いでしまいます。

 私と一緒にいてあの人は本当に楽だろうか。私はあの人に安息を与えているだろうか。いや、そもそも私自身本当に安息しているのだろうか。と問いかけてみてください。

 本当は安息していない。心のうちに、仕事への焦燥感がある。そういう状態なら、相手を安息させることは当然できません。私が陥ってしまったこういうケースは多いのではないでしょうか。今日はこの安息ということをテーマに聖書を見ていきたいと思います。

マルタとマリア

 安息している人、安息していない人。この対比が鮮明に描き出されているのは、マルタとマリアという二人の人の話です。ルカによる福音書10章38〜42節です。

 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 1人はこころをまっさらにして、キリストに聞き入っている。1人は「自分のなすべこと」で心をいっぱいにしている。だから、「なすべきこと」をしていない人が気になって仕方がない。なんとか言ってくださいよ。という言葉が出てくる。

 神の前で心を空っぽにするということが安息です。自分の行為を捨てるということです。そうでなければ、こうやってマルタのようにせわしなく動き回って、周りにプレッシャーを与えることになる。安息日に神の命に従って安息するためにこの場に集っているのであれば、自分のなすべきことを捨てなければなりません。心をからっぽにして主の言葉に聞かなければなりません。そうでなければ、安息日を守っていることにはなりません。マルタのようであれば、すなわち「心に自分のことが常にあれば」安息日を守っていることにはなりません。

カルヴァンの解説

 宗教改革者カルヴァンの安息日律法の解説に非常に私は信頼を置いています。彼は安息日律法には三つの意味があると解説しました。安息日を守る目的、その一つ目は、「霊的安息を形にあらわす」ということ。二つ目は、「教会の規律を守るため」です。三つ目は、「仕える人の慰めのため」です。

 一つ目の、霊的安息ということがマルタには無かったのです。霊的というのは、心の中という意味もありますが、特に心の領域で神の前における自分自身を意識するような時、それを霊と呼ぶのです。神の前での魂の安息。霊的安息とはこう言い換えた方がわかりやすいかもしれません。

神の前での魂の安息

 神の前での魂の安息はどうやったら得られるのでしょうか。それは以下の御言葉に表される内容です。詩編46編11節。

 力を捨てよ、知れ わたしは神。 国々にあがめられ、この地であがめられる。

 神の前で己の力を捨てること。これが安息です。そして神こそがあがめられるべきお方であり、自分があがめられることを求めることをやめることです。あがめられるということは大げさな表現かもしれませんが、自分が誰かよりも高められること、自分が良い評価をうけて人からすばらしい人と認められる、ということを求めるのをやめるということです。神をあがめるのであって、私をあがめるのをやめるのです。

 力を捨てて良い、人からの評価を気にしなくてよい、ただただ神の前にひざまづこう。そして神の御業を賛美しよう。神がなしてくださったことに耳を傾けよう。こうやってキリスト者は日曜日にまっさらになれます。このことを本気で受け止め実行すれば、心は自由になります。霊的安息が訪れます。自分自身をがんじがらめに閉じ込めていた鎖から自分を解放することになります。

 力を持って、人からの評価を受けるために緊張しているから、ガチガチの人生になるのです。そういうあり方は捨ててしまいましょう。自分が何をなしたかさえも、神に委ねるのです。

 カルヴァンはまた、こうも霊的安息について説明をしています。

 それはわれわれのうちに主がみ業を行なわれるために、われわれ自身のもろもろの業をやめることであります。(ジュネーブ教会信仰問答)

 自分の業をやめる。主の業が行われるために。これが霊的安息です。

見ること

 主が安息日を決められたことに対する説明についてさらにカルヴァンから聞きたいと思います。

 神は六日の間にそのすべてのみ業を創造された後、第七の日はこれらを見ることにおあてなりました。そしてわれわれを、このやり方に一層よく導きいれるために、そのお手本をお示しになるのであります。なぜならば、神に一致すること以上に望ましいことは、何もないからであります。

 自分の業をやめて、神のみ業を「見る」、見ることが大事です。視野が大事なのです。信仰においては。その視野を変えること、それが霊的安息を得る秘訣です。これまでは自分を主語として、自分が見たいもの、自分に見えているものだけを見て生きてきました。しかし、視野を変えるのです。神を主語として、神がなしておられることを見る。神は創造なさったものを見られて、それを良しとされて、安息なさったという、その神の安息を心に引き入れるのです。

 これを見ようとした時に、もし自分がマルタのようであれば、そのことに気付かざるを得ないでしょう。自分の「やるべきこと」で心を満たし、「自分」の視点で「自分」ばかりを見ているなと。そして、その結果周りの人に不快な思いをさせ、迷惑をかけている自分も見えてくるでしょう。しかし、それでもなお神はあなたを見捨てない。導きの中にいれて、たしかに神の業をなしてくださっているということにもあらためて気付くのです。

礼拝は献身

 礼拝に出席することは、献身をすることです。ユダヤ人は神にまず献げ物をもってきて、礼拝していました。自分自身をささげること。これが礼拝において重要です。ユダヤ人は動物をもってきて身代わりとしてささげました。私たちは自分自身をささげるということを心でまた実際に献金をしてあらわします。

 しかし、注意しなければならないのは、献身をするということが言われたとき、またマルタのような人は、あくせく動き出して、自分が動くことによって自分をささげるという方向にすぐに行くのです。人間の癖っていうのはすごいですね。もうガッツリと染み込んでしまっているので、オートマチックに自分を動かしてしまうです。そして、全部自分の考え方にものごとを引き寄せる。

 献身ということをイメージするときに、明確にイメージして良いと思うのは、命が絶たれて燃やされて神の儀式のためにダラーンとまさに自分の命さえもささげきって死んでしまっているその動物の姿を思ったらよいかもしれません。日本人は、質素倹約、真面目が一番。これが日本人の律法として染み付いていますから、なかなか、献身といって何もしないで空っぽになるというイメージを持つ人はいない。献身といえば、一生懸命身を粉にして働いている人の姿しか思い描かないのではないでしょうか。

 しかし、そうではない、まずは、ダラーンと霊的安息を神の前で得ないといけない。そして、神が七日目に被造物を御覧になられて良しと言われたように、まずは自分自身を見直さなければなりません。自分自身を見直すことなしに、自分のやりたいように、こうすべきだということをなしていたら、周りの人にプレッシャーをかけ、周りの人からエネルギーをそぎ取るだけです。まずは、神が自分を良しとしてくださっていることを十分すぎるほどに受け止めなければなりません。キリストの十字架によってあなたを受けれいてくださったのだから。だから、自分は神に良しと言っていただける存在なのだと。何ができるか、できないかでは全くない。何ができるか、そんなものは、神様が評価なさることで、自分の側にある判断ではない。今日神の前に、キリストの前にこうやって出て来た、この信仰だけで神は良しと言ってくだださるお方なのだと。自分がしなきゃいけないのは、自分が受け入れられているということを徹底的に味わい尽くすことです。それをしていないから、誰かに受け入れてもらうために、誰かの目を気にし、誰かのために動いているようでも結局は自分のために動く生活をやめられないのです。

規律とは

 カルヴァンは安息日が教会の規律をつくり出すのだと言っていますが、この規律とはなんでしょうか。非常に簡単なことです。七日に一度、一日を必ず主の前にひざまづく日と定めることによって、必ず神のもとで力を捨てて安息する日をもうける。これを思いのままに、来たいから来るとか、今日は時間があるから来るとか、今日は忙しいからいかないとかそういうことではなくて、何があっても必ず行く。むしろ忙しいからこそ行くということであったら良いのではないでしょうか。

 これは神の命令だから。そう受け止めてこの生活を形作ることがまた、自分の人生に神が定められたリズム、規律をつくることになるということです。神に従いたい。神の安息に預かりたい、神に祝福された歩みをしたい。心が解き放たれて、自由に、与えられたものを十分に感謝してそれを生かして、エネルギーに溢れて、楽しく、喜ばしい日々を送っていきたい。そう思うのであれば、安息日に主の前にひざまずくということを毎週行って行く必要があるのです。

 安息日を心に留め、これを聖別せよ。(出エジプト記20章8節)

 聖別するというのは、この言葉に別けるという漢字が入っているように、その日を別けて神によって聖とされた日としなさいということです。

仕える人のため

 仕える人の慰めのために安息日はあるのだという説明をカルヴァンはしますが、これは出エジプト記20章10節を根拠としています。

 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事をしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

 普段仕える仕事について、心も体も疲弊しているような当時の社会では弱い立場にいたひと、その人達への神様の視点がある。すべての人が休むことが出来るように。権威のもとにある人は、その権威者が休みをとらなければ休むことができません。ですから、権威者こそがまず休むべきであること。また、他者に影響力のある人こそが週に一日は必ず休むべきであることを教えているのです。

ジュネーブ教会問答の安息日律法のまとめ

 ジュネーブ教会問答において、カルヴァンは安息日の意味を簡潔に次のようにまとめます。

 (安息日は)非常に益があります。われわれはそれを真理にまで還元しなければなりません。すなわち、われわれはキリストの真の肢体でありますから、彼の支配にわれわれをゆだねるために、われわれ自身の業を捨てることであります。

 マリアとマルタの、マルタのように動き回る人にはおそらく明確な目的があります。その行為によって他者に自分を価値ありと認めさせようとしているということです。しかし、教会で行われている礼拝は、自分の業を捨ててしまうことにこそポイントがあるのです。自分を献げものとしてささげてしまうこと。神の前に、なーんにも無い状態になること。その安息を得ることによって、静かなエナジーが、他者を生かすための力が、人に手枷足枷はめて力を奪うのではなく、自由を与えて徹底的に相手を生かすその余裕が生まれてくるのです。

 神の前に自分の手の業を捨ててしまったら良いのです。それでも、キリストの十字架によって徹底的に、人生のすべてが受け入れられていることを味わってみたら良いのです。この憩いの中で十分充電して、そして隣人に良い影響を、プレッシャーではなくて自由を与え、私の願いの実現ではなくて、相手の思いの実現を願う。相手を生かすことを考えることができる余裕が生まれるのです。

 キリスト者と一緒にいるとどうも自由になって、安心できて、力が与えられて、元気になるなぁ。そう言われたらまことに安息日を正しく守っているということになるでしょう。とても喜ばしいことです。アーメン。