出エジプト記 20章12節 「父母を敬え」

二枚の板の意味

 十戒は大きく前半、後半と分けることができます。第一の板。第二の板。と呼ぶ人もいます。モーセが授けられた律法の板は二枚でした。この二枚の板にどんな内容が記されていたのかということに関しては議論の余地があります。五つの戒めが一枚目にともう五つの戒めが二枚目に記されていて足して十の戒めと考える人。ユダヤ教の保守的な人はそのように考えているようです。しかし、当時の世相のことを考えると、契約を結ぶ際に二枚同じものを複製して、自分と相手とが持てるようにしていた。そのスタイルを踏襲しているのでは。と考える人もいます。しかし、これは神と人との契約でありますから、果たして神様の側がそういう契約の控えのような板を必要とされていたのか、いないのか。

 私はこう考えます。おそらく十戒はその内容から言って、二つに大まかに分けることができるので、そのことを意識するために、二枚の板に別の戒めを記してわかりやすくしてくださったのではないかと。そして、本日共に読んでおります。第五の戒めこそが、その分かれ目であり、二枚目の板に記されるはじめの言葉なのではないかと思っています。

 第一〜第四の戒めまでが神と人との関係についての内容。第五〜第十までが、人と人との関係に関する内容です。そして、この戒めを守るところから、喜ばしき人生、人の歩むべき道というのが見えてきます。これらはすべて、神との関係、人との関係、対神、対人との関係性に関すること。これらが、人生における救い、喜び、祝福を生み出す源であり、このところで私たちが問題を抱えることこそが、祝福の逆の状態。すなわち、まるで呪われているのではないかと思える現状が作り出されてしまうということなのです。

前半部分のまとめ

 前半部分に一枚目の板に書かれていたことは。神は救いの神であるということ。これが大前提であることを覚えなければなりません。信じるものに対しては神様は常に、救いの神です。これが大前提であるとまずは受け入れよ。それが十戒の基本です。

 エジプトという強大な国から小さな民族を救い出すこともおできになるその力に信頼せよ。神は御自分の顔の前に、人がいる、とそのように見える程に、私たちに近く、そばで、まさに共におられる方であるということ。

 だからこそ、自分のために像を形作ったり、分野別の都合の良い神をもってきたり、私の思い描いたこう神はあるというような、神の像を勝手に造り上げてはならないということ。私たちの想像を絶するところから神は現れるのです。イエス・キリストは人になられて、私たちの前に現れられた。これはユダヤ教の伝統では絶対にありえないことでした。神が人となるなど、神への冒涜としか考えることができなかったでしょうユダヤ人は。しかし、そうやって全く人間の予測をこえて、こうあるべきとか、こうであるはずとか、人間の思い込みを全く上回るお方であるということ。それだけ、近く天から私たちを御覧になられているのだから、私たちが別の方をむいていたら、そのことに妬みを抱かれるということ。

 神はときに厳しいお方で裁きをくだされる。呪いと呼ぶべき状況をもお与えになる。しかし、神に立ち返るものには幾千代にもわたる慈しみを与えられると宣言なさるのです。だから、主の名を軽々しく、自分のために、欲望を満たすためだけに用いるなどということはあってはならないことである。

 神がこの世界を創造された時、七日目にその業を離れて安息なさった。だから、七日目の安息日を守りなさい。安息というのは、己の業を止めるということ。自分がこれをやりたいというようなことを空っぽに一度捨てて、神の前にひざまづくことであると。マルタとマリアの例えを引きました。神の前に、こうするべきだとあくせく忙しく動き回っているのは、まさに心をなくし、己の業に手一杯になっていることで、安息とはほど遠い。心をからっぽにして神の前で脱力するマリアこそが安息しているのだと。

 私がこれをやらねばやらねばと思って教会の礼拝に来ていたら安息していることにはならない。あなたに神のもとでの安息をあたえ、さらにあなたのみならずあなたとの関係にある人々、特にあなたの権威のもとというか影響力の下にある人に、安息を同じように与えることも神様の視野のなかにあることを忘れてはならない。あなた自身が安息して、相手に自由を与え、力を与えることにならなければ安息とはいえないと。そういう内容を見てきました。何かをしてあげれば相手を安息させ力を与えられるというのではない。神の前にからっぽになって相手にプレッシャーを与えないで自由を与えることが誰かに力を与えることになると。

 神との関係が決定的に重要なのです。人がどう歩むのかということが、どういう神を信じているか。どう神様から語りかけられているのかというところにかかっているのです。こころをまっさらにして、己の力を捨てて聖書に聞くことが必要です。

父母を敬う

 そして、本日注目したい第五の戒めです。聖書を読みます。出エジプト記20章12節。

 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

 敬うということはどういうことでしょうか。宗教改革者カルヴァンはジュネーブ教会信仰問答の中で次のように説明しています。

 子供らは、父母に対して謙遜かつ従順であり、父母を尊び敬い、父母を助け、その命令にはそれにふさわしいように従わねばなりません。

 イスラエルの社会においては、父と母は神の言葉を伝える重要な役割を担っていた人でありました。信仰を伝えるのは親です。しかし、私に信仰を伝えたのは、親ではありませんでした。しかし、本来は親がそういった人のあるべき姿を静かに指し示す存在であるはずです。特にイスラエルでは父親が子供に神の言葉を語り伝えていましたので、神の言葉を伝える人を必然的に人々は尊敬していたのです。父母を敬えと言われて、そのまま納得できる社会をめざしていたとも言えるかもしれません。

 私は親になって、子供をみていて、子供のキャラクターはその子固有のものであるにもかかわらず、しかしながら、ほとんどが私の真似であったり、私が言っていることをそのまま言っていたり、行っていたり。コピーとまではいえませんが、親の鏡というか、親そのものを子供は純粋に写しているとしか思えません。

 そう思うと、自分のあり方を見直さざるを得ない。本当にこの子供に良い未来を与えるには、私自身が変わらなければならない。

この世において

 この日本において、神を、大切なものを、真実を、真理を、愛を、慰めを私に伝えてくれた人というのは、肉の親だけじゃないと思います。肉の親ではなくて、霊的な神の前における自分の親。そういう存在がいる。それはこの教会の中にもいるはずですし、私たちが聖書を読んでいて、私より先に、聖書を読んでいる人。その人達が親のような役割を担っているとも言えると思います。私は信仰歴15年ですが。私より信仰歴が長い人がいます。そういう人たちは私の兄であり、親である。そう言えます。この教会で、聖書を中心とした交わりの中で、私たちは家族を発見できます。

 父母を敬えと言われて。私には親がいない。いたとしても、尊敬すべき親では全くない。そういう人もいる可能性があります。しかし、そういう人こそ、この聖書を廻る人間関係、信仰の共同体である教会で。この中に家族を、父母を、兄弟姉妹をまず見出していただきたいのです。互いに教え励まし、一緒に敬意をもって歩むべき仲間がこの中にいます。

 教会では、互いへの尊敬が無いと維持できません。だから、逆に言えば安心して良いのです。尊敬がこの教会の中心になければなりません。もし、そうでなかったときには、大きな声でそうあるべきだと申し出て良いと思います。ときに教会が互いが互いへの敵意を燃やす巣窟となっているということがあるかもしれませんが。父母、兄弟。教会が家族であるのならば、お互いが尊び敬うことを神は求めておられるし、それを実現しなければなりません。幸い私にとって、年上の目上の方はこの教会で七割ぐらいの方でしょうか、もっと多いかもしれませんが、年上です。目上の人を父、母として敬いなさい。それが神からのご命令だと受け止めています。人として敬い、助ける。しかし、言いたいことは言う。こういう関係が理想です。

 父、母である目上の方々は、父母として敬われるのであれば。親としてそこにおらねばなりません。子供を育てるように自分より年下の人々には接する必要があります。私が子供に対して思う思いはこうです。「自分よりももっと大きな幸いを得てほしい。」「自分よりももっと喜んで、楽しみ、生きてることが嬉しい。神に感謝せずにはおられない。そういうふうに思えるようになって欲しい。」静かに子供たちの成長を見守っていく必要があると思います。

 神がお命じになられる人間関係の戒めというのは、片方が片方にだけ、というような理解の仕方をしてはなりません。例えば、父母を敬えと書いてあるから。父母だけ敬われるべきで、父母が上に立つものであり、上に立つものに問答無用で、無理やり従えとか、子供はものをいうべきではないとか。そんなことを言いたいのではないのです。

 聖書は集会において女性は下がっていなさいというような箇所があるので。(コリントの信徒への手紙一14章34節以下。これはもちろん当時の社会情勢を反映していますし、女性が前にでていくとそのご主人である男性の権威が疑われかねないそういう事情があったのです。)そのことを持って来て女性は黙っていろとか、そういうふうに片方のことだけ考えて、片方の論調でものを言い出したら終わりだと私は思っております。人を押さえつけて自由を奪うための法ではありません。むしろ、お互いがお互いに対してさらなる自由を獲得していく、そのための法です。

約束

 神様は、「父母を敬え」という十戒を守るものに対して、一つの約束を加えてくださっています。

 そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

 父母に尊敬を払い良い関係を結ぶものは、与えられた土地に長く住むことができるし、長く生きることができる。すなわち長命を約束するというのです。神様はこの世の中でどんなに悲惨があったとしても、神を信じて生きるそこには常に祝福があり、神様がその信仰に生きる人を養い育てて、その愛を証ししてくださるということです。

 それでは、若くして死ぬ人は一体どうなるのでしょうか。

 しかし、この世から早く召しい出されて神のもとに行くということも一つの祝福であるのです。長命を与える、だからそれを与えられないものは祝福されていない。そういう単純な話にしてはならないのです。私たちはすぐに価値を上、下とか、良い、悪いとか判断したがるのですが。神がご一緒してくださることであれば、長く生きようが、早く神のもとに行こうが、それは変わらないのです。しかし、長く生かしていただけるのであれば、この世で主から頂いた使命を行い、誰かと喜びを共有できるという恵みをいただけるのです。

 そもそも、自分の人生の長短を自分で決めることはできません。自分で決めることはできないといことは、自分でその長短を価値判断してはならないということです。しかし、長かろうが短かろうが、主の祝福がかならずその人を訪れるということです。

 父母を私たちの上に立てるということは、神の秩序です。私たちが決めたものではない。この神が決められた秩序を大事にするもの、そのことに敬意を払うものを主が祝福される。命の長短も私たちが決めるものではない。しかし、そのことに敬意を払い服従するものを主は祝福されるのです。その人は神を見るでありましょう。

主が与えられる土地

 主が与えられる土地。というのはどんな土地でしょうか。イスラエルの民にとってはカナンの地です。しかし、我々日本人、もしくはイスラエル以外の国に属する人々はどうなんでしょうか。神が約束された土地というのはあるのでしょうか。

 確かに私たちはそれぞれに、ホームランド、すなわち祖国があります。私にとってはやはり日本が祖国であり、東京で生まれましたので、あの土地はやはり格別な土地です。それぞれがそれぞれ祖国、ホームランドを既に与えられている。これもやはり自分で選び取ったというものではありません。神が与えられた秩序です。帰るべき場所。神が与えられた父母を大事にすると、神が与えられる祖国、約束の場所が与えられ。そこに住むことをゆるされるのです。しかし、究極的には使徒パウロがフィリピの信徒への手紙3章20節で言っているように。

 わたしたちの本国は天にあります。

 ですから、この世でも住むべき場所が整えられ、しかし、天に本来の住むべき究極の場所はあるのだということです。そこに行くという確信が、父母を敬い、また後続の子をかわいがり。お互いが敬意をもって接していく中で主からの祝福として、いただけるということなのです。

 教会に集い、キリストと出会い。キリストの十字架の意味を知り。キリストに従うものにとってキリストは崇敬の対象です。崇め敬う対象です。敬意を払いつづけます。キリストを崇め敬うとそのキリストが愛されている一人一人を大事にするということしか方向性としては向かえなくなります。

 私たちはやはり自分の親が大事にしているものを大事にし、自分の親が大事にしている人を大事にしてきました。また、私の大切にするあの人が大切にするものを大切にするということが幸せにつながっているということをも知っております。

 教会にあつめられたキリスト者は特に敬うということを大事に歩みたい。これが人間関係の基礎です。まずは、神から与えられたものであるということ。父母との関係は自分では選べません。すなわち、すでに与えられてしまっている関係性の中。この神が与えたもうた秩序を大事にし、敬意を払うのです。すると、自分の周りの人々に対しても敬意を払うということが基本であることに気づきます。

 キリストを敬い、父母を敬い。子や孫を大事に尊重し、この敬意ということをそこらじゅうに張り巡らせていきたい。天の国はまさにあの人達のところに、と世の人が見てもすぐに分かる共同体を形づくっていきたいと思います。アーメン。