10月16日 出エジプト記 20章13節 「殺してはならない」

なぜ殺人をしてはならないのか?

 無知というのは罪を犯す大きな原因です。悪人だから悪行を行うということよりも、知らないから悪を行ってしまう。それが私たちの世界にある現実ではないでしょうか。殺してはならないということに関して、はっきりと「こうだ!」と私は教会に来るまで人に説明できませんでした。法に裁かれるからしてはならない。相手が痛い思いをするからしてはならない。自分だってそうされたくないだろう。相手の命を奪うことは、自分の自由を奪うことでもある。色々な説明や理由付けはできるのです。しかし、これだということがなかなか言えなかった。聖書には何と書いてあると思いますか。それが教会が世に問う明確な答えです。ご一緒に見ていきましょう。

 創世記9章6節を見てください。

 人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。

 人の命を奪うものは、自分の命でそれを償わなければならない。人にとって命は一番大事なものです。どんな人にも共通です。その一番大事なもので償わなければならないのです。命こそもっとも大事なもの。それはなぜかと言えば、人は神にかたどって造られているからであるというのです。尊い神のお姿に似せてデザインされている。神の愛がそこに投入されている。

 もとの聖書箇所は、創世記1章26節です。

 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

 神に似せて人を造られた。だから、尊い。だから、その命を奪うことはできない。この神の似姿ということは、さらに具体的に言うと。海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させるということ。これが神のご性質にそっくりに造られているところであるというのです。しかし、誤解してほしくないのは、支配するというのは、強権的に自分の思いのままに従わせるということではないということです。ちょうど私たちが神様からのご支配を受けて、愛されて、自由を与えられて、より喜びに満ちて毎日が送れるように。そのように支配するということ。

 確かに、人間にだけ環境をコントールし、環境を変えてしまう力さえ与えられています。それを良き方向に使うか、悪しき方向に使うか、それは人に委ねられている使命であります。これを神から頂いた力である、としなければならないのです。これを自分の欲望のままに、欲望を満たすための都合の良い道具にしてはならない。

 神の似姿であることをどう意識できるか。知って心に刻めるかにその行く末はかかっているのです。ですから、教会のこの世界に対する使命というのは大きいのです。

殺すということに関連することから遠ざかる

 「殺すなかれ」に、従うには、神の似姿として相手を見るということが基礎になります。さらに具体的なアドバイスに聖書は溢れていますので見ていきたいと思います。レビ記19章17〜18節です。

 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

 憎むとはどういうことか、同胞を率直に戒めないことです。パターンとして決まっていると言ってよいと思いますが。憎むひとは相手に直接に話をするよりも、自分の内で思いを増幅させて、それを本人にぶつけることなく、他者にぶつけます。するとその怒りは自分の中でさらに増幅していきます。そこにあらぬ想像が込んできます。相手を本来の姿よりも悪人に仕立てます。妄想から妄想が生まれ、それを他者に話すことでそこにもう怨念が出来上がっていくのです。

 もし、本人に言わないのならば、もしくは言えないのならば、そういう勇気が無いのならば、いち早くその思いを赦すという方向に持っていかないといけません。そうしないと、怨念に変化するので厄介です。憎むというのは、人の心の問題なので、これは自分でなんとかするしかありません。ここがポイントでありましょう。

 相手に変化を求めたって無駄だということです。多くの場合相手に変化をもとめて解決しようとしている。しかし、相手は変わらないということが現実です。だから、自分が憎むのを止める方向で考えていかないといけません。どうしてもこころに残るなら、責任をもって相手のためにそれを口にすべきです。そうでないのならば、言う必要がないことならば、赦して忘れてしまうことです。いや、そんなことできないですよ。とおっしゃるかたがおられるかもしれませんが、できます。心を自分でコントロールするということは人間に任せられていることです。

 イエス様のアドバイスもお聞きください。マタイによる福音書5章21節。

 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言うものは、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

 殺すというその行為に及ぶ前に、その根っこについて治療しておかないといけない。そうイエス様は教えてくださるわけです。根治治療するためには、イエス様のところに来て、また聖書に聞いて、礼拝に生きるということが必要なる。礼拝において人は神の似姿であることを聞けば、人に対して『ばか』という思いを持ったとしても、引っ込めざるをえなくなるのです。引っ込めるか、または相手の益となるという範囲で、また共同体にとってもっとよいと思える範囲で本人に言うべきことを言うかです。相手を徹底的に大事にする。と決めればできることとできないことはすぐに分かってきます。具体的にどうすべきか、が聖書に書いていなくても、根本がわかれば、自ずとどうするのかということは見えてきます。

 箴言に憎むものに対する行動の答えが書いてあります。箴言25章21節、22節。

 あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。

 徹底的に与えることをもって相手に報いよ。それが神の子たちのなすべきことであると教えています。

同胞を戒める

 同胞を戒める。ということは実は私たちが回避しがちであり、人間関係をつくる上で非常にムズカシイところであると感じているかもしれません。私は牧師の仲間の中に一人、友人を率直に戒めていた人が一人いたなぁと思い出しますが。それも稀です。彼は、常に言うべきことは言う人でありましたが、それゆえに周りとの軋轢の中に置かれ、ある人からは毛嫌いされていたというのを記憶しています。しかし、私は心の底からその人に敬意を払っておりましたが、しかしとてもムズカシイ問題ですこれは。

 例えばある人に対して注意すべきことがあるなぁと考えていながら、言ったら嫌がるだろうな、などと考えて言わないという選択をすると、注意されるべきことを注意されないでその人は一生過ごさなければならないかもしれません。相手に責任的になるのであれば、必ず注意をしなければならないのですが。

 そのときにまるで自分が上に立ったものであるかのような視点で者を言えば人は聞いてくれないか、戦いを挑まれたかと思って怒るでしょう。人は注意するときに自分が正しいものであり、あなたは間違っているから私に従え的な言い方になりがちであることも確かです。

 対等な立場で、間柄で、仲間として相手にものを言わなければならない。そのためにも、やはり私は神の似姿に造られ、あなたも神の似姿に造られ、私たちは対等である。という地点に徹底的に立たないといけない。神の似姿という尊さを内に秘めたものとして、相手を扱い、私も私自身をそのように尊ぶということがなければなりません。

 そうやって対等な立場に立てたときにはじめて冷静にものが言えるのではないでしょうか。

それでも、怒りが

 人間関係で、それでも、相手が神の似姿であるといくら思っても、わたしは決してあの人を赦すわけにはいかない。というどうにもならない心の状態が作り出されることだってあるでしょう。しかし、これは基本的には自分でなんとかしなければならないことであるという前提に立ちつつも、しかしそれでも、どうにも煮えくり返って仕方がないということが起こりえます。そのときには、その怒りから離れる必要がある。ローマの信徒への手紙12章19節にこのような言葉があります。

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる。」と書いてあります。

 復讐は全部神に委ねるもの。だから、どうにも赦せない人が、赦されざる人であるならば、神が裁きを与えてくださるに違いない。だから、自分では決して復讐の手を下すことなく神の手に委ねよう。そして、自分はその呪いの連鎖から下りて、その人から遠ざかるのです。心に怨念のようなものを抱えながら人と付き合うというのは、自分にとっても相手にとっても良いものにはなりません。だから、そこには第三者の介入がどうしても必要です。仲介者がいない限り怨念に怨念をぶつけ合うバトルに発展するのは確実でありましょう。だから、その場から自分の身を引く。そして、祈り。本当に関わるべき人であれば、神がその時を下さると信じれば良いのです。

 そもそも、相手を神の似姿として大事にする、ということから外れることは時間の無駄です。どんどんバトルからおりていくということが必要でしょう。人間の生は限界があります、時間に限りがあります。自分がなすべきことをして生きて良いはずです。

 エフェソの信徒への手紙4章26節には。

 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。

 罪を犯すということは、ギリシャ語でハマルティア、「的を外す」という意味です。全然なすべきでないことをしていることがハマルティア。怒ってそれをずっと持ち続けることというのは人間がなすべきことではないのです。ハマルティアです。それをするとその怒りに支配される。神に支配されるのではなくて、別のものに支配されてしまう。

 だから、そういったものはすぐに捨て去るべきなのです。祈り、後の顛末を主に委ねるということをもってそれは解決できます。心は常に主に向ける。

 イエス様の決定的な言葉をどうぞお聞きください。マタイによる福音書26章52節。

 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。

 剣をさやに納め続けるのです。そして、その場を離れる。人はどうしても剣を抜いてしまうことがある。言い換えると、怒りをおさめることができないときがある。しかし、それでもそのときに自らの心と戦い、主イエスのご命令であるからとその怒りをおさめ、そこから立ち去る。そして主に委ねるのです。そこに信仰の勝利がある。主イエスの前に私は跪きますという勝利がある。そこに天があります。本当の勝利はそこです。争いに勝つことでは決してありません。相手を屈服させて力で従わせることでは決してありません。真の造り主である主の前にひざまずく。その主の前に私は剣をしまわざるをえない。主の前にひざまずくことが私たちの勝利です。そこに主は確実に祝福を溢れさせてくださること。杯を溢れさせてくださって、勝利の美酒に酔いしれる瞬間をくださることを。

 しかし、悲しいことに神の似姿を不当に握りつぶそうとする人はこの地上が罪の状態にある限りなくなることはない。神の似姿を神の似姿として見ないのであれば、知らないのであれば、そうせざるを得ないということなのかもしれません。だからどうしても、権力を持つものが剣を帯びてそれを止めなければならないということがある。ローマの信徒への手紙13章4節。

 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕えるものとして、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。

 個人的な怒り、恨みというものではなく、人の命が守られるために、剣を持つものが立たなければならない。それは神がお立てになった権威であるというのです。確かにあらゆる社会において、人が人であることを破壊するもの、そのものに対しては鉄槌が下されるということがなければ規範が形作られません。出エジプト記21章14節にもこのような記述があります。

 しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のものとからでも連れ出して、処刑することができる。

 しかし、争いが争いとして噴出してきてしまってる時点ではもう遅いと言わざるを得ません。というのも、主イエスは殺人の根っこ、そこまで掘り下げていって、つまり普段の生活において主の前にひざまずくことを求めておられるからです。神の似姿としてお互いがお互いを見るということ。相手の最善を願う行動をし続けること。ときにそれは戒めるという形になりうるが、その場合も相手のために躊躇しないということ。この1人の人とどうかかわるのかというところで私たちは恨みにするのかしないのか、怒りにするのかしないのか、その思いをもちつつも主の前に跪いて剣をさやに戻してその場を去るのか。

 この普段の何気ない人間関係でこそ、殺人の根が生まれ、また殺人の根を刈ることもできるということが分かるのです。

 すなわち、あなたが怒りという剣をさやにおさめ、主の前に跪いて、跪きつつ隣人を見ているのかいないのか、そこに隣人との関係はかかっている。

 主キリストの前にひざまずける。この幸いの中で、自分の怒りを全部下ろして、主に裁きをお委ねして、そのかわり、キリストが見ておられるように、相手の内に神の似姿を見て。それでもその人をまだまだのろいの目でみてしまうならば、その人から離れる勇気をもって、主の前にひざまずくのです。剣をさやにおさめ、主にひざまずくという勝利を手にしましょう。アーメン。