出エジプト記20章14節 「姦淫してはならない」

 モーセがシナイ山において神様から賜った十戒の板には、十の戒めが記されておりました。この前半部分が、神様と人間との関係について、後半部分が人間と人間との関係について記されているものです。すなわち人間が生きるにあたって大事なことというのは、関係におけることである、ということです。すべてが実は神と人間との関係にいきつく、そういう命を私たちは実は生きているということなのです。対神関係、対人関係。これこそが、人生の課題のすべてであるということであります。それを明確にまとめたのが、十戒。対神、対人関係を健やかに保つということこそが、人が幸いに生きていく秘訣であるということでもあります。私たちが経験する悩みは実はこの関係性に由来するものがすべてであると言ってもよいぐらいです。

 十戒が教えているまず最も大事なことは、神は救いの神であり、救うということが前提である。そういう神様を私たちは父として仰いでるということを徹底的に認めるということです。その文言は十戒の前文にしるされています。出エジプト記20章2節。

 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

 大阪のぞみ教会に普段来られて礼拝をささげておられるかたは、もうこれを暗記してしまってください。礼拝で何度目でしょうか、十戒を読みすすめる中で毎回確認していると思います。それだけ大事なことで、これを受け入れるところから、神との信頼関係はできていきます。受け入れなければ、いくら神様の言葉を聞いたって心に響かないでしょう。絶対的に、私に見方してくださって、私を見捨てることはない、この信頼にたたないと、信仰生活ははじまっていきません。

 いや、信頼できる証拠を見なければ私は、信頼しませんよ。そうおっしゃるかもしれません。しかし、信頼というのは、自分がその人を信頼するかどうかです。自分の主観的な意思で決めることです。証拠を見なくても信じるということもできます。証拠を見て信じるというあり方もあります。しかし、私の信じ方は、何かを見たから信じるというものではありません。神は神であるから信じる。何か証拠をいただけるから信じる。何か自分に得になるから信じるというものではありません。もし、そういう信じ方をしているのであれば、逆に私は神様から有益な情報というか、良き学びというか、生き方を変えるような出会いはできなかったでしょう。

 しかし、ある時から信じるということに決めました。それからは、神の言葉がどんどん心に入って行くようになりました。対人関係において、まず信じるというところからはじめようとしなければ物事は前に進みません。私たちはどんな人からでも、何かを得ることができますが、それは信頼している、相手を大事に思っている。そういう関係性からでないと何も得ることはできません。というか、信頼することを知らなければ人との関係はうまく結ぶことはできません。だから、自分の心でまず決めるのです。この人を信頼すると。神の救いの宣言を信頼すると、神は救う神であると御自分でおっしゃられているから、それを信じて生きて、それを信じて祈ってみる。そういう生活をはじめられたら、神の業を体験するでしょう。信じれば、何かを必ず人は、対神、対人関係からでも得ることができます。しかし、信じなければ何もありません。

 信じるということが教会の、信仰生活の中心であるということを、一つの言葉としてまとめると、信仰義認といいます。信仰によって正しいと神から認められるということです。これは、プロテスタント教会の中心的な考え方であり。教会の中心はキリスト、十字架ですが、人のあり方として何が中心にあるべきかって、それは信仰義認であると言うことができると思います。信仰によって義と認められる。人が持ちうる正しさは信じるということである。神が求めておられるのは実は信仰だけであると言っていいぐらい。信仰によってすべてがはじまる。神との関係、人との関係も、信頼するという信じるというところからはじまる。ここからはじめなければ良い関係はできない。

 聖書のみ、信仰のみ、信仰義認、万人祭司と。プロテスタント教会が大事にしてきたものです。神の言葉によって人は変えられる。神への信頼だけが必要である。聖書のみ信仰のみ。信仰義認。そして、万人祭司。それまで造られてきた、教会や教会と癒着した政府によるヒエラルキーによる支配ではなく、神に対してすべての人が平等に、対等に1人の個として立っている。その1人は神と対話をすることができる。だから、1人の人が神に信頼し、神との対話にたつことこそ何にもまさって尊いことであると。

 教会に教祖様がいて、カリスマ牧師とかがいて、その人が教会を牛耳っている、ファンがそこにあつまっている。そんな教会だったら私は絶対来なかったと思います。初めに行った教会は全くそうではなかった。私は来るべくしてプロテスタント教会の門を叩いたような気がします。神と1人の人が、誰が上とか下ではなくて、1人が神の前に信頼をもって立っている。そのことの尊さ故に、このプロテスタント教会が本当にすばらしいものを世界に伝えているなと思ってもいるのです。この原則をゆるがせにはできません。神以外は皆フラット。

 私は東京の頌栄教会に来て、そこで鈴木崇巨牧師と出会って、その先生が何を恐れることもなく、先輩牧師に物申している姿をみて、私はこの教会にこそ行かなければならないのだなと思いました。鈴木先生はある先輩牧師に対して面と向かってあることを言った。その牧師は、まぁいわゆるおえらい先生と言われていて、「名誉牧師」などという称号を貰おうとしていたらしいです。その牧師に対して「何を馬鹿なことを言っているのですか、私たちが信じ讃えるのはイエス・キリストだけです。名誉牧師なんていわれて怒らないのですか。」と。

 1人信仰が1人の人生をひらき、1人の信仰が恐ろしいほどに大きな神の業をその地域にもたらす。そういうことが、たしかに信仰だけ、神に向き合うだけ、信じるということよって物事をはじめていくことによって。信じるということで神と人との関わりを造っていく人によってもたらされる。それが私たちが頑なに信じ続けております、信仰義認であり、万人祭司。すべてのひとが神への信仰によって上の前に立ちうる祭司である。という尊い考え方なのです。これが、道を開きます。

 だから、スタートポイントは、十戒の前文、救いが前提であるという驚くべき言葉であります。

 そして、先日読みました。第一戒から第四戒までは、いかに懇ろに人を神が愛しているかといことが描かれていた。神の顔の前にいるかのように人を神は大事になさっておられる。人がそっぽを向こうものならば、そのことに嫉妬せざるを得ない。神の前で安息して、力を捨てて神から受けることができるということをこそ大事にしてもらいたいと。ですから、人は神様との関係性において徹底的に受けるべきものを受けて、その関係性の中で愛を受けていく。それゆえ、その愛は、神から受けたものが私たちを通して他者にもまた影響を与えていくのです。その影響をしっかりとしみわたるように、わたしたちは十戒を学び、十戒の心に生きる必要があると思います。

 と言っても注意していただきたいのが、十戒を守らなければ救われないというような、人を裁き判断する道具として私たちが用いてはいけないということ。これは私たちを良き方向に導くためのものであって、私たちが神のようになって人をまた自分を裁くものではない。これを守ることによって救われるなどと考えてはならないのです。イエス・キリストによって私たちは救われるのであって、戒律を守ることによってでは全くありません。イエス様のご存在、イエス様への信仰のみによって救われるのです。その点ご注意を。

 

 人と人との関係で、まず大前提は、父母を敬えというもの、それから殺すなということ。隣人に対して敵意を抱いてのぞんでいては良き関係を結べませんから、その敵意の段階で自分の心をコントロールすることの重要さについて見てきました。イエス様は、兄弟に「バカ」と言った段階でダメだと。その段階から相手の存在を否定する自分に注意せよと教えてくださいました。すなわち、言い換えると根っこが重要であり、心根がどうであるかで、結果は変わってしまうということです。この根っこの根っこまで掘り下げていくのが十戒であり、神との関係性をあるべきすがたに保つところから、人間との関係性が保たれるのだということが記されておるのです。

 本日の聖句は出エジプト記20章14節。

 「姦淫してはならない。」です。

 姦淫とはそもそもなんでしょうか。これは結婚関係に関する言葉です。男女の肉体関係、性的な関係は結婚の中でこそ祝福される。そもそも、男女の肉体関係は神の祝福を受け継いで行くために非常に重要なものであり、人が増え広がり発展成長していくために無くてはなりません。しかし、この結婚の関係においてこそ、問題を多くはらむのが人間の社会であり、これによって人生が破綻する。また、これによって人生が安定感を得るということも確かなことでありましょう。

 神が人を男と女に創造されたのは、神がのぞまれたことです。これを変えようとしたところで変えることはできません。そして、この男女の交わりを通じて、子供が与えられて成長していく。この交わりがなければ私たちはやがて死滅する。だから、神様は男と女として人を形づくり。この二人によって増え広がるようにとのぞまれました。創世記1章27節を見たいと思います。

 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 とおっしゃられました。人が男と女で祝福を受ける。その結果、増え広がり、造られた世界を支配する。支配するといっても、神が人を愛されるように、愛によってしっかりと良い方向にこの世界を方向づけるのです。

 異性が交わって、世界に広がっていく、これは神の業であり、祝福の内におかれていること。ならば、それを信仰によって感謝をもって受け止めていくのであればできないことがある。自分の欲望のままに、夫婦の関係性までも破壊して追求される情欲は必ず否定されなければなりません。

 欲望や情欲が独り歩きして、人と人との関係を破壊するような状況を造り出してはならない。性的な関係を誰といつ結んで良いのか、いけないのか。その判断は容易についてきます。信頼の中で、未来をともに歩むという約束関係の中で、相手に自らを与えるという決意と覚悟の中で、交わりをもたなければなりません。

 そもそも、男と女をどのような存在として創造なされたのかということを知らなければなりません。前回も言いました。知らないことが罪につながるので、知ってもらう必要があります。創世記2章18節です。

 主なる神は言われた。「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

 彼に合う助けるものというのは、対等な存在として、お互いに助け合う関係を造ることができるようにということです。決してどちらかが上で、どちらかが下で、どちらかが主で、どちらかが従という関係ではないということがポイントです。彼に合う助ける者です。

 というのも、このあとの話の流れをみれば、女性は、男性と全く同一、同等、対等なものとして造られているのが分かるからです。その箇所も見ておきましょう。創世記2章19節以下です。

 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。

 神様はいろんな創造物のそばに人をおいて、どんな反応をするか見ておられたのです。その中で、自分に合うもの、同等の者、対等なもの、助けとなりうるもの、それはどうしても被造物の中にはいなかった。だから、男そのものの肉から、全く同じものからつくられ、同等で対等であるけれども、違うもの、女を神様は造られ、その女こそがパートナーとして歩むべく定められたのでした。この男女の関係は神から頂いた尊い関係であり、互いの違いの中で互いに助け合うことを神様に定められた存在であるということが書かれているのです。

 基本の基本の関係、男女の関係、これが助け合うことによって成り立つのだということは極めて重大なことです。助け合うという関係こそが大事で、それ以外の関係の結び方はするべきでなはない。それをすることによって関係は破綻するであろうということが予測できるのです。

 例えば、相手が相手のことを一方的に支配する。主と従、優、劣を造る。対等で助け合う関係から外れますから、神様はおよろこびになりませんし、良い関係性を築くことはできないのです。

 また、相手に一方的に求め続ける、要求をぶつけつづける。もしその要求が達せられなかったその人を非難する。これも、対等な助ける関係では決してありません。一方が一方に対して何かを要求しつづけるような関係性は結ぶべきではありません。

 しかし、そういった絵空事を求めて、達成されずに苦しんでいるのが人間なのです。

 何度も言います。助ける関係性でなければならないのです。男女の関係性も、これは男女のみならず人間同士でも言えます。助ける関係性でなければ主が願われた幸いは得られないでしょう。

 姦淫とはそもそも、結婚関係という約束関係が性的な乱れによって壊されていくときに使われる言葉です。性を原因として関係性を壊すことです。不倫とか浮気とかいうことです。これも、夫や妻が約束関係にあるにもかかわらず、その約束関係に対して水を注ぎ、第三者を巻き込んで、関係をごちゃごちゃにして壊す行為です。そんなことをできるということ自体が相手を尊重し、相手と対等な関係を結び、助けることをしているわけでは全くなくなってしまう行為なのです。

 最後にイエス様の言葉をともに聞いていきたいと思います。マタイによる福音書5章27節。

 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 みだらな思いというのは、姦淫を犯すことを自分にゆるしてしまう思いです。つまり妻との関係性が破壊されてしまって、約束関係が反故にされて神の秩序が犯されてしまっても、それでも自分の欲望を達成させたいという情欲です。そういう恐ろしい破壊行為を心に本気で抱いてしまった時点で、もうあなたは恐ろしい罪を犯しているということなのです。

 十字架にかかってまで、自分の命をささげてまで、関係性が大事だと、神との関係性が回復されるなら私が命を捨てようとお考えになられた、あの主キリストの思いを受け止めつつ、関係性について黙想したいと思います。

 助けることだけを志しているか、本当に相手を対等だと思っているのか。いや、他のしなくてもいいことばかりしているのではないか。私たちキリスト者こそ反省すべきです。アーメン。