出エジプト記20章15節 「盗んではならない」

 盗んではならないと戒められたところで、私は盗みを働いているわけではないから、私にはこの戒めから聞くべきことは何もないな。と声に出しては言わないものの、心で思っているから、この御言葉は簡単に読み飛ばしてしまう。この十戒の箇所は、そんな箇所なのかもしれません。しかし、十戒で言われている戒めというのは、奥行きと深さがありますので、その深みに入って行きたいと思います。

 盗みというとまず思い浮かぶのが、人のものを盗むということです。これはしてはならないことの基本中の基本として書かれております。出エジプト記21章37節。

 人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わなければならない。

 牛一頭に対して、牛五頭という五倍の償いをしなければないということは、盗みがいかに重い罪であり、ここに至るまえに踏みとどまらせようという神様のご意志があることが分かります。

 盗みをしていると、天とのつながりが阻害されてしまうということがまた新約聖書で証しされていることです。コリントの信徒への手紙第一6章9〜11節。

 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。

 キリストを信じて、十字架の犠牲を知り、自分の罪がこの十字架の犠牲によって贖われたことを知っています。先程の盗みの例えで言えば、牛五頭が、必要な償いの供え物が、もうすでに支払われた。そういう状態に、正しい神様との関係の中に、神の前にいる。それがキリストの十字架にあずかるということです。

 ならば、その救いを受け取ったものは、神の前に跪いて、神の霊が心に注がれてくるのを待ち、その神の思いに自分自身を委ねていく。そういう生活を始めるはずなのです。そのものには心の平安が与えられ、主の守りを信じることができ。人から何かを奪ったりして、自分自身を自分で守る必要がなくなった。主が守ってくださるから、その恵みの中で、人からものを奪うという発想自体を失った。そういう者が神の国を心に宿しているものです。しかし、神の国が心にない状態になってしまいますと、いま読みましたコリントの信徒への手紙に記されているような問題がつぎつぎと起こってくるのです。性的にみだらになって、愛だ恋だと言いながら、誰かと誰かとの間にはいって関係性をぶち壊してしまうもの。それは、神を見ていないからそういうことができてしまうわけです。神の国が心にないからです。偶像礼拝をして、ものを神格化してしまう人。それは真の神を見ていないから、自分の思い通りにご利益を生み出す神を造り出したくなってしまうわけです。神の国を受け入れていない。自分の心から排除した結果です。

 盗みというのは目に見えない神の国の支配を心から追い出した結果でしか行うことができない行為であるということです。神がまことに我が内に、我は主の内に。そのように思っている人は盗みは決してできません。

 盗みをしないという行動のことを考えるということは大事なのですが、それよりもまず。イエス様がおっしゃられたのは。マタイによる福音書6章33節。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 これらのものというのは、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか。という欲求ですが。神の国がここにあり、神に守られている。すなわち、すべてがすでに満たされているという前提にたてば、人のものを奪うという発想はなくなります。だから、神の国と神の義をもとめて、それゆえにすべてが満たされていることを実感することが大事なのです。神の国と神の義を求めるということは、具体的にいえば、イエス様のもとに跪き、心に主イエスの思いが流れ込んでくることを受け入れて、イエスのものとして生きていくことですが。これをしていくことが基本であり、このことをしていれば、何をなすべきかは見えてくるのです。

 世は私について色々な裁きの基準で秤で秤り裁いてくる。だから、いつも私たちは世に対してなにかびくびくして、世の逆鱗にふれないようにということを願って行動を自分で制限し、自粛していく。これをすれば嫌われない。これをすれば好かれるというようなものがいつのまにかできていきます。

 世の中で「自粛ムード」などという言葉が流れてくると、他者の目をおもんばかって自分を制限していくのが、この日本の処世術なんだなと思います。しかし、キリスト者はどうかと言えば、人の目を気にして自粛するのではなく、主の前にひざまずくのです。イエス様の十字架の功績によって、どんな時でも主の前に立てるのです。主の前にいるとこれはすべき、あれはすべき、ということが見えてくる。主に委ねながら、自分がすべきことをコツコツとするのです。

 盗みをするなと命じられるときに、聖書の中で何を神様がお嫌いになられているのかということを知ることができるので有益だと思います。聖書では、秤や重り、升をごまかすなと教えられている箇所がとても多いです。何度も記されるということは、神様はよほどこの「ごまかし」ということがお嫌いで、これは主の道から外れることなのです。商売で、相手が分からないということを坂手にとって、適当に升を変えて、量をごまかすということがダメだと何度も書かれています。ついに祈祷会で読み終わりましたが、申命記の25章13節にも記されております。

 あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。

 箴言11章1節には。

 偽りの天秤を主はいとい 十全なおもり石を喜ばれる。

 商売やものを計るときに、重りの基準を二つもっていて、自分に儲けがあったり、利益があったりすると、それを都合の良い方に切り替える。こういう行為を主は厭われるのです。神様のお姿を見ていきますと、私たちにできないことが出て来ます。それは人が見ていない所でごまかすということと、自分の利益のために物事をねじまげるということです。表の顔と内の顔。人前でいるときと、家にいる時の自分。当然かなり使い分けて顔を変えているわけです。しかし、主の前に生きているということを受け入れると、表と裏があまりにも違うということに、自分自身で違和感を覚えるようになります。

 本当に主の前に、外にいるときも、家にいるときも生きているだろうか。また、私たちは自分の利益になることだと一生懸命に行い、そうでない場合はおざなりにする。という傾向が非常に強い。利得のためだけに動いているところがある。他者に接するときに、自分の利益になるときは、うまいこと表情をつくり、自分の利益にならないとなると、苦々しい顔をする。そうやって利益によって顔を作りかえるということは、基準を二重に持つということであり、重りを二つもつということであるということも読み取っていかなければなりません。

 ちょうど先週のキリスト教基礎講座で学んだ近江聖人といわれる中江藤樹さんが、顔色を使い分けないということの大切さを教えてくれました。彼は子どもに教えるということに何よりの価値を置いていたので、お殿様が訪ねてきてもお殿様を待たせて、子供に教えることに専念していたそうです。すなわち、人によって秤を変えないんです。本当に大事だと思うことは、子供に対してであれ、お殿様に対してであれ、態度を変えず、大事なことを行う。

 イエス様はどんな人に対しても態度を変えない。同じ秤で接するお方でした。言うべきことは言い、なすべきことをなし。徹底的に愛するということのみに徹したお方でありました。ルカ福音書6章35節以下にこのような言葉があります。

 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

 ここでのポイントは敵に対して主イエスが憐れみ深くとおっしゃられていることです。態度を人によって変えるなということです。愛すべき人を愛するのではなくて、どんな人にも同じ態度で接する。敵に対して特に同じ態度で接するのだと。

 人によってはかる秤を変える。態度を変える。これはものすごく根が深い問題であり、だれでも心当たりがある問題ではないでしょうか。しかし、これをまことに実践できるようになることこそ、自由です。天の国がそこにあり、主イエスがそこにありという地点ではないかと思うのです。人によって顔色を変えなくてすむ。主の前にあり、隠れたこともすべてお見通しで在る方が私の主であると。

 さて、盗みにまたかえりたいと思うのですが。盗みに至る動機というのは、どういうものでありましょうか。それは基本的には妬みが背後にあります。私はこれを持っていない。だから、これがほしい。私がもっていないこれをあの人はもっている。ならば奪ってしまえ。この盗みの動機の根底には妬みがあります。そして、さらにいえば妬みの原因は満足しない心です。すなわち貪欲。洗礼者ヨハネが、兵士が教えを乞いに来たときにはっきりといいました。ルカによる福音書3章14節。

 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

 自分に与えられた給料で、すなわち今あるもので満足できないその心こそが問題の根本にあります。今あるもので満足できないのは、それが神様から頂いた恵みであるという捉え方ができていないからです。神から頂いたものであるならば、満足できるはずです。

 さらに言えば、この持っている富というのはいつどうなるか自分では実はコントロールできないものでもあります。持っていたいと思っていても、持っていることもできることもあればできないこともあるのです。これは富ならず、人が人の事を羨むそのものすべてに言えることです。名声、人望、仕事、家族。

 ヤコブの手紙5章1〜3節を読みます。

 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を日のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

 この箇所の前後を見ますと、自分の利得のために富を蓄えた人にその虚しさを教える内容になっております。お金や財は家族や隣人のために使うためにあるのであって、自分の腹を太らせるためにあるのではないということです。得ている良きもの。これらは自分の腹を太らせるためにあるのではない。主から頂いたものでもちろん楽しみ使って良いのだけれども。しかし、これは究極的には他者のため、この世界のため、この共同体のために使うものです。もし貯めて、貯めて自分のために使うのならば、それらが一瞬でなくなるその日がくると教えてくれています。人の思い通りにはならない。だからこそ、与えられている今あるもので慎ましやかな生活をし、その中で喜びを見つけることこそが大事なのです。

 ルカによる福音書12章15節のイエス様の言葉を心に刻みたいと思います。

 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

 最後に、プロテスタント教会が大切に学んできたハイデルベルク信仰問答の中に、本日の十戒の「盗んではならない」の解説があります。この解説はどうやって盗んではならないを実践するのかということが記されておるのですが。これはまさにイエス様のその行動とそのおすがたをモデルとした言葉となっております。お読み致します。

 問111 それでは、この戒めで、神は何を命じておられるのですか。

 答 わたしが、自分にでき、またはしても良い範囲内で、

   わたしの隣人の利益を促進し、

   わたしが人にしたもらいたいと思うことを

   その人に対しても行い、

   わたしが誠実に働いて、

   困窮の中にいる貧しい人々を助けることです。

 これらは実は神様が私たちに対して望まれるその態度であるとさえ言えると思います。天の父は私たちの利益を常に促進することを願っておられます。それゆえに祈りにすべて耳を傾けてくださる。誠実に常に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けてくださる。これはただ単に経済的な貧しさということのみならず、心の貧しさ、渇きを感じている人に対して、常に助けを送ってくださるということでもありましょう。

 十戒や律法をこれを心から守るということはどういうことなのだろうか。と探っていきますと行き着くその先は、常にイエス・キリストであり、神であるということがわかってきます。実際の理想的な守り方はどんなものだろうかと、具体的に考えれば考えるほどに、イエス様ご本人の行動に行き着きます。このように、戒めはすべてイエス・キリストとの出会いに向かって整えられているのだということを受け止め、盗むなを実行するその先に歩んでくださるキリストについてまいりたいと思います。アーメン。