出エジプト記20章16節 「偽証してはならない」

 永眠者記念礼拝です。天に上げられた聖徒たちと共に礼拝をおささげいたしましょう。聖徒という言葉は特別な言葉です。一般的に耳にしません。学校の生徒と考えてしまう人もいるでしょう。聖徒とはなんなのか。ポイントは聖です。聖とは何か、聖別されたものと言う意味です。分けられたものという意味です。神によって御自分のものとされたという意味です。聖徒となって天にあげられた人というのは、分けられて神のもとにあげられた人という意味です。

 「なに、なに、神は分け隔てなさらないお方ではないのか」と言いたくなります。確かに神は全く分け隔てなさらないお方です。しかし、同時に神は正義と公正に満ちておられるお方ですから、私たちに尊い自由意志を授けて、私たちに自由を与えてくださいました。その結果、人間は神に従うみち、そうでないみち、を自分で選ぶことができるようになったのです。神に従うみちを選び取った人は誰一人例外なく、天にあげられる。何ができたかできないか、失敗したか、成功したか、は全く関係なく。ただただキリストに帰依するものは、その信仰の故に、天にあげられるのです。しかし、そうではないもの、特に神のみちを選び取らず、拒絶するもの。そういう人に対して、神様はその意思を徹底的に尊重されますから、その自由を束縛はなさらないのです。

 そこまでして私たちを尊重し大切にしてくださり、人間の思いを大事にしてくださるお方なので、このお方にこそ希望がある、癒しがある、慰めがあると言うことができるのです。この御方の下に行けば、全き自由が与えられると信じることができる。そして、その父は私たちが望むならば、確実に天に私たちを迎え入れてくださる。キリストはその道を開くために、十字架にかかられて、犠牲の子羊としてささげられ、血を流されて、人間の罪をすべて精算されたのでした。

 キリストの功績の下にいる。だから私たちは確信できます。神の下に私たちの兄弟姉妹はいらっしゃいます。ヘブライ人への手紙11章13節以下を朗読します。

 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

 旧約の時代のことを言っています。イエス・キリストが来られる前の時代です。人は死んだらどうなってしまうのか、そのことがはっきりと示されていない時代です。しかし、その時代でさえも、信仰に生きて神のもとに行くということを熱望していた民は神に導かれて、どこに行くのかわからずに旅立った、それが信仰の祖アブラハムであった。そのアブラハムの信仰を神は義(ただしい)とされて、アブラハムを受け入れてくださっているということなのです。故郷を熱望し、神のもとにまいりたいと思うものは、神のもとに導かれるのです。彼らのためには都が準備されている。神への思いを抱いて死ぬということがいかに偉大なことであるか、これこそが神の業であるといえる。そう言うものです。

 ですから、私たちは先に召された一人一人を覚えつつ、この方とお会いする日を夢見ながら歩むことができる。神を目指した歩みは、実際に神とお会いする歩みになるからです。明確な目当てを目指して、はっきりと方向を見定めて。私のなすことは、天に向かう。私のなすことは天の父への応答である。私のなすことによって天がお喜びいただけるような。私は天がお喜びいただけるのであれば、どんな小さなことでもしよう。どうか、主よ御心をお示しくださいと。

 本日、与えられている聖書の箇所は出エジプト記の20章16節です。

 隣人に関して偽証してはならない。

 いつものように、聖書からその考え方を徹底的に抽出してまとめ上げた珠玉の文言。プロテスタントの源流とも言えるハイデルベルク信仰問答から学びたいと思います。

 問 112 第九戒では何が求められていますか。

 今読んでいます出エジプト記はモーセの十戒と呼ばれる箇所です。モーセの十戒は旧約聖書を代表する文章と言ってよろしいでしょう。旧約にはユダヤ教の律法が記されておりますが、律法そのものが十戒。十戒が基本になっています。十戒の内容は大きくわけて三つ、知らなければならないと思います。まず、前文。救いが前提であるという事実。そして、前半一戒から四戒は神と人間との関係に関わること。それから、第五戒から、第一〇戒は、人間と人間との関係に関わること。だから、この関係ということが人間にとって人生のすべてであると言っても良いぐらい重要なことというのが聖書のメッセージです。関係性の中に喜びも悲しみもすべてが詰め込まれている。人生の醍醐味を味わうのは、この関係性の中においてである。神と人との関係性をないがしろにするものはいつまでたっても不幸なままである。この関係性をただしていくことこそが、最重要課題である。

 だからまず、神との関係について語り、この関係が回復されていくことがすべての始まりであるわけです。教会はこのポイントに常に注目する場所であると言ってもいいんじゃないでしょうか。間違いなく神と私との関係をつなぐ場所。より良いものにしていく場所。それが教会です。

 この十戒の最後の方です。今日注目しています九戒というのは。もうここまで来ると、かなり今まで見てきたすべての要素が総合されているような話になってくるのです。神との関係が正しくなければ実現できないし、また人を大切にしていなければ実現し得ないこと。それが「隣人に関して偽証してはならない」ということです。ハイデルベルク信仰問答がどう、解説しているか見てみたいと思います。

 答 わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず陰口や中傷をするものにならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。

 答えにはまだもう二つ文があるのですが。今はここで止めます。偽証という言葉は、裁判の言葉です。すなわち公の場で問題になることです。公の場と私的な場というのはやっぱり違う。だから、この答えに私自身すこし違和感を覚えるのです。まずはじめ「偽りの証言をせず」というところは分かります。そのままです。しかし、次からがやたらと私的な内容になっていく気がするのです。「誰の言葉をも曲げず陰口や中傷をするものにならず」誰の言葉をも曲げずというのは、普段の生活について言っているのです。裁判の場ではありません。イエス様御自身も、ものごとをは根本まで帰っていく必要があると私達に教えてくださいました。以前の戒めにも、殺してはならないという御言葉をイエス様が引用されて、「兄弟にバカと言う」ことだけでも、すでに心の中で兄弟を殺していることになると教えてくださいました。心の中で兄弟を亡きものにしたり、その存在を否定したり、神の似姿であることを否定した場合、もうその時点で殺人を犯していることになるというのです。「バカ」と言うか言わないかというのは具体的な例であり、そう言わなくてももしも心の中で誰かをなきものにしようとしてたらその時点で律法を犯していることになるとイエス様は教えてくださったということです。ということは、心の根本の根本にかえって行かない限り、神の言葉を守ることにはならないということなのです。

 だから、偽証するなという場合も。なぜ偽証してはならないのか。偽証はなぜするのか、そういうところに帰っていく必要があるということです。ここには「誰の言葉をも曲げず」とあります。言葉を曲げるというのは、自分の良いように、人の言葉を利用するということです。自分の方に引き寄せるということです。神さまは、御自分をご利益だけを提供するような神に捻じ曲げられるのがお嫌いですし、さらに、全部自分中心に物事を考えてその考えを実現するために神を呼ぶような祈り方を止めてほしいと願っておられると今まで十戒で学んでまいりました。ねじまげて引き寄せるのをお嫌いになられるのです。

 この世は本当に恐ろしいなと思うことが度々ありますが、人を善人、悪人と両者にわけて考える恐ろしい人がおられるということです。どっちかにしようとするのです。どっちでもないのに。強いていうのならば、神の前での罪人、というカテゴリーにはすぐに分けることができる。というか全員そうなのですが。それは可能かもしれません。しかし、善人か悪人かということは全く分かりません。しかし、人間の社会でそこらじゅうで家で、会社で、そういうふうに人を振り分けるということが起こっていることではないですか。これは相手の言葉のみならず、存在を捻じ曲げているわけです。

 というよりも、人間は「悪人」だと見ようとすれば、悪人である事実はすぐにでっち上げることができるでしょう。そんな評価自分でつくり出すものですから、いくらでも捏造できます。

 そうやって何かしら悪人である証拠を捏造できれば、悪口なんて次から次へと出てきます。中傷ほどたやすく、しかし、何の意味もないものはありません。やがて神の逆鱗に触れるであろうと思います。

 誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことをしない。ということも非常に大事です。陰口や中傷をする時、本人はその場にいないでしょう。そのところで話をするなんてアンフェア極まり無いです。リンチに近い。

 我々は見えない神を意識し、見えないところにおられる主を信じております。その御方にとってはすべてが見えています。先週読んだ御言葉をもう一度心に刻みたいと思います。マタイによる福音書6章6節。

 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 ハイデルベルク信仰問答の解説の後半部分を見たいと思います。

 かえって、あらゆる嘘やごまかしを、悪魔の業そのものとして神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、正直に語りまた告白すること。

 さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り促進する、ということです。

 なぜ嘘やごまかしが神の激しい怒りのもとにあるのか。それはレビ記に記されています。レビ記19章11節。

 あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

 神にはすべてが見えているのに、見えていないかのような不信仰な思いで生きる。故に、盗んだり嘘をついたり、バレてるのにバレないかのように振る舞うこと自体が、神の名を汚す行為。恥ずかしい行為なのです。神様御自身が見ていられないんでしょう。だから、それらは禁じ怒りを燃やされるということなのです。

 信じるものの特徴は、謙遜さです。そして、その逆が尊大さ。なぜ尊大になるのかというと、神がいらっしゃるのに、いないかのように生きているからです。全部、神のご存在をしっかりと認めているかということにつながっていくわけです。正義の物差しをもっておられるかたの前で物事を曲げたり、人の言っていることを自分のために利用しようとして捻じ曲げたり、そいういうことも神が前にいないかのように行動することであり、盗みと通じるところがあるということなのです。

 詩編15編に、本日の箇所と関連する。義なる人の歩む道が示されているのでご一緒に読みたいと思います。

 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるでしょうか。それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり/舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

 この一つ一つを守ろう守ろうと思っても守りきれないと思います。しかし、主の前にいつも自分の人生があり、ひざまづきつつ生涯を送ろうと考えて、それを実行し、主の前の毎日を歩んでいたら、いつの間にか実行してしまっていることだと思います。問題は主の前の自分と、そうでない自分とを使い分けていることなのです。

 そして、最後に、ハイデルベルク信仰問答が積極的に行動をなしていくとしたら、どういう行動になるのだろうか。といことをしるしてくれています。

 さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とを/わたしの力の限り守り促進する、ということです。

 ペトロの手紙第一3章8〜9節を引用して終わりたいと思います。

 終わりに、皆心を一つにし、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

 永遠に主と共に憩うという天の祝福を頂いているものとして、キリストの贖罪の下にいるものとして、祝福をただただ手渡し、謙虚になり、主の前にひざまずく存在として召されたのです。本当に主の前にひざまづいているでしょうか。キリストを前に生きているでしょうか。赦しが目の前にあります。だから、謙虚にひざまずく生活を続けて参りたいと思います。聖徒たちを覚え、天を覚え、その天が私を見ていることを覚え歩んで参りましょう。アーメン。