出エジプト記20章17節「隣人のものを欲してはならない。」

信徒説教: 吉野 元

出エジプト記20章17節 「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

十戒を一つ一つ礼拝で読んできました。今日はその最後、「隣人のものを一切欲してはならない」という戒めを読んでいます。この戒めは、これまでのような「….してはならない」ではなく、「…を欲してはならない」という形の文章になっています。つまりこの最後の戒めは、私たちの行動のもとになっている、私たちの心のありようにぐっと踏み込んでいるように読めます。

表面的なルールではなく、むしろ私たちの心のありようからして問題なのだ、ということ。このことは、イエス様が時に非常に強い言葉で人々に問われたことでした。石井先生の説教にもありましたが、「兄弟に腹を立てるものは誰でもさばきを受ける」(マタイ 5・22) とまでイエス様はおっしゃいます。

「隣の芝生は青い」、という言い回しがありますように、他の人が持っているものがとかく良く見えてしまうのは私たち人間の性です。私は子供達とよくテレビの動物番組を見るのですが、動物の世界でも、日々縄張り争いがなかなか大変そうです。でも、彼らは限度をわきまえていることがわかります。超えてはならない一線をちゃんと引いて、節度を守っているようです。

一方、わたしたち人間の歴史、そして私たちの日々の生活を振り返ってみますと、わたしたち人間には底知れぬ恐ろしいところがあることに気付かされます。それは私たちは、限度を失ってしまう、見境を失ってしまう危険性をもっているということです。欲しくなると、その持ち主のことなどまったく眼中になくなり、そのモノのことで頭が一杯になり、理性まで失ってしまう。さらにたちの悪いことに、人間の高度な頭脳はそのモノを手にするためにフル回転し、あらゆる手を尽くしてしまいます。人間の欲望、貪りは一度暴走を始めると、その人の自身の尊厳を壊し、家庭を、さらには社会、地球を壊すところまでも突き進んでしまいかねません。

聖書はそのような人間のありようから目をそらすことなく、厳しく直視しています。イスラエルの英雄ダビデは、部下の美しい奥さんに心奪われ、2重、3重の罪を犯してしまいました。このことはサムエル記下 11-12章にしっかりと書き記されています。 預言者ナタンに叱責されてはっと我に帰るまで、ダビデの行動には、心のブレーキをかけた形跡が一切ありません。それさえ手にはいればあとのことはどうなってしまっても良い、それを自分のものにしたい、完全に支配したい、と突っ走っています。 聖書は、このときのダビデのような罪の根本がどこにあるのかを次のように説明します。

コロサイの信徒への手紙 3章5節「…. 貪欲は偶像礼拝に他ならない」

ここまで心奪われてしまうこと、虜になってしまうこと、このときのダビデのような状態、これを聖書は偶像礼拝だと指摘します。彼の心は創造主である神様ではなく、被造物にすぎないものに完全に奪われています。さらに言うと、それをまるで自分の所有物のようにできるかのように振舞っています。神様を無視し、神のように振舞っているとも言えます。しかも本当の愛の神様とは真逆で、きわめて自己中心で残酷です。何か根本的な見当違いが彼の心に起っています。その結果として、彼自分自身も、隣人も不幸にしてしまっています。

出エジプト記20章2-4節「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだした神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」

こうして十戒の最後の戒めは、私たちを十戒の最初の方に再び立ち返らせます。そして、そもそも、人間の根本的な間違い、ボタンの掛け違いがどこから始まるのかを教えてくれます。ダビデのあの頼もしい部下も、その美しい妻も、この世界のすべての良きものを造られたのは主なる神様です。ダビデは神様を心から賛美する人でした。ダビデが作者であるとされるあの素晴らしい詩篇の歌の数々を読んでもそれはわかります。しかし、その彼ですら我を失って罪を犯してしまった。その根本には、十戒の第一の戒めに反し、神様を神としない危うさが抜きがたく私たち人間にはある、ということ、そのことを聖書は私たちに突きつけています。

今年のCSのキャンプで創世記の冒頭部分を子供達と学びました。祝福に満ちた創造の物語が最初の1-2ページ目、エデンの園でアダムとエバの祝福された生活が始まるのが3ページ目。ところが3ページ目の下の、最後の方には蛇の誘惑があります。4ページ目でアダムとエバが「知恵の実」を食べる事件が起こります。アダムはエバに責任をなすりつけます。そして神様に隠し事をするようになりました。信頼関係が崩壊しています。5ページ目でカインがアベルを殺す、最初の殺人事件が起こります。祝福に満ちた創造物語が、なんと4ページ目にして急転直下してゆきます。

神様は人間をご自身とほとんど同じようにつくってくださったと聖書にあります。でもあの実を食べてはいけないと注意されました。それは人間が自分を神と勘違いしないように、というためでした。アダムとエバが食べてしまったその実は、神様と等しくなる錯覚を人間に与えました。人間の歴史の、ほとんど最初からこの勘違い、ボタンの掛け違いが始まった。聖書はこのように、人間のありようを実に厳しく私たちに突きつけます。

人間は社会的な動物です。一人では何もできない赤ん坊として生まれます。人間の子供達は、100%人間社会によって育てられます。だからボタンの掛け違いは、負の遺産として、世代を超えて人間の歴史の中で引き継がれていきます。

神様は、カインによる殺人事件が起こったあたりでこの人類の歴史が終わらせても良かったのかもしれません。でもそうされませんでした。ここから2000ページに近く展開してゆく聖書には、神様と人間が数々の困難を超えながら共に歩んでゆく歴史がつづられてゆきます。それは今も続き、私たちもその一端を担っている歴史です。神様はこれからどこに私たちを導こうとされているのでしょうか?

神様が与えてくださる恵を、すべての被造物と共に平等に分かち合う、幸せな生き方が本来あるはずでした。それがエデンの園の物語の前半に象徴されています。しかし、被造物の支配者となり、神のようにこれらを独り占めし、思いのままに支配できるような錯覚に陥ると、自分も、隣人も、社会も不幸になる。十戒はこう戒めています。でも、私たちにからみつくこの罪の罠から逃れるすべは一体あるのでしょうか?あのダビデさえ逃れることができませんでした。

ローマの信徒への手紙7章18節「わたしは、自分のうちには善が住んでいないことをしっています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。」

聖書の示す答えは、イエスキリスト、そして聖霊の働きです。旧約聖書はイエスキリストによる新しい契約を指し示していると言われます。

エゼキエル書 36章25節「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」

イエス様の教えは、聖霊の働きによって私たちの心に刻みこまれました。そして聖霊はこの今の瞬間も私たちの内側から働きかけ、私たちを罪への隷属から解放しようとして働いてくださっています。聖霊が私たちのうちに働いてくださる時、わたしたちはあらゆる非人間的なもの、暴力的なもの、隷属させる罪の力から解放され、エデンの園にいるのと同じような自由と平和に満たされます。

十戒は、英語では未来形で翻訳されています。例えば、Do not kill. ではなく、You shall not kill. (You will not kill.) となっています。旧約の言葉とは言いますけれど、未来を指し示しています。イスラエルの民は、長い間エジプトでの生活にどっぷりとつかり、隷属状態にありました。神様はその奴隷状態からの解放の道にイスラエルの民を導かれました。そして神様の権威によって守られ、正義と平和が実現した、自由と喜びに溢れる新しい共同体づくりが始まろうとしていました。そこで尊ばれるべき、憲法のようなものとして十戒が与えられました。ところが残念なことに、イスラエルの民は、その神様の御心をよく理解したとはいえませんでした。自由でなくてよい、奴隷でも良い、エジプトに帰りたい、目に見えない神様などわからない、偶像の方がわかりやすくて良い…いつもそうやって奴隷根性を捨てきれず、脇道にそれていこうとしていました。

私たちも振り返ると、同じようなものであることがわかります。私たち自身は相変わらず鈍く、迷ってばかりいるものです。私たちは、生涯を通して一体どのくらい、神様が期待されるものに成長できるのでしょうか?40点がまた30点になってしまったり。そんなことの繰り返しに思えます。でも神様はまだあきらめていらっしゃらないようです。私たちの子供達は30点を35点に、孫たちは35点を40点にしてくれるかもしれません。きわめてゆっくりだけれど、聖霊の助けによって私たちの中に神の国が育ち、この地上に広がってゆくであろうと信じます。

日本の歴史ドラマで人気の時代は、戦国時代と明治維新のころですが、265年間の江戸時代を前と後ろから挟みこむこの2つの時代、戦国と明治、伝道は著しく進み、この国でクリスチャンたちが重要な働きをしています。「自分は何のために生まれたのか」、「人間とは一体何なのか」、「真の権威とは何か」、日本人が真剣に考えた時代でした。今人気のNHK大河ドラマ「真田丸」では今晩、大阪冬の陣の大一番を迎えます。この番組でも良くキリシタンが出てきて、「キリシタン武士は死を恐れないので強い」などというセリフが主人公の口から出てきてドッキリしたりします。大阪は高山右近がいたことから、この北摂地域にはもちろん、大阪城すぐ近くに教会がありましたし、高槻には神学校もありました。今再び、日本人自身が自分たちを問う時代になってきたように感じます。これからの日本の歴史も神様が導いてくださり、私たちもその中にあり、ここにも神の国が必ず完成することを信じます。

アーメン。