レビ記19章9〜10節 「感謝と憐れみ」

 レビ記19章は、前回まで学んだ十戒の言葉を新たに説明している箇所です。レビ記というのはシナイ山でモーセを神が呼ばれて、語られた言葉です。ですから、レビ記は、初めに書かれている「神が呼ばれた」という言葉が書名となっています。もとのヘブライ語の聖書の書名です。ヘブライ語の旧約聖書では初めの言葉が書名になる場合が多いのです。はじめの言葉「ワイクラー」という言葉ですが、これは「神は呼ばれた」という意味です。日本語の書名とは随分違うものです。

 私たちは神の言葉を聞く時、「既に呼ばれていた」ということを意識すべきです。今日は幸いにもレビ記に触れることができますので、このことだけは記憶しておいてもらいたい内容です。聖書に触れる時、「主に呼ばれた」と理解して読むのとそうでないのとでは雲泥の差が出ます。礼拝に来る時に、「主に呼ばれた」と思って来るのと、そうでないのとでは全く違うのです。「主に呼ばれた」のではないのならば、適当に自分なりにこの時間を過ごせばよいでしょう。しかし、「主に呼ばれた」のであれば、主にお従いし、主よお語りくださいと思いながら過ごすことになると思います。

 極論をいいますと、聖書の説き明かしを私はしているわけですから、内容的に目新しい発明をしているわけではありませんので、ずっと言い古されて来たことを再び語っているだけです。ですから、ここに命が宿るのは、私たちが信仰によって受け止めた時です。私こそが神に呼ばれてここにあるということを受け止めた時なのです。

 これだけ印刷技術も発展し、情報技術も発展し、得たい情報を瞬時に得ることができる社会であるのに、神の言葉を聞こうとする人は聞くけれども、聞かない人は全く聞かない。そこには信仰があるかないかが大きな違いとなって出て来るのです。

 呼ばれているものとして、神が語りかけてくださっていることを信じてこの書を読んでいきたいと思います。

 神が語りかけてくださると思って読みながらも、疑問が出てくることがあります。この旧約聖書は旧い約束であって、果たして新約の時代、キリストの時代を生きるわたしたちがこれを守る必要があるのだろうかという問いです。このことに対する答えは新約聖書にあります。

 答えとは、キリスト者は旧約の律法のもとにあるのではなく、「キリストの律法」のもとにあるということです。第一コリント9章21節以下。 

 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。

 それから、もう一箇所ガラテヤの信徒への手紙6章2節。

 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

 イエス様は律法を要約されました。イエス様の要約された律法理解、これこそキリストの律法といえるものです。マタイによる福音書22章37節に記されております。

 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 イエス様がおっしゃられた第一の掟「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」という掟は旧約の掟でもあります。これはユダヤ人たちがメズサという箱にこの言葉を入れて、家から出ていく時も入っていくときもこの箱に触って出ていく習慣から、今も大事にされています。それからテフィリンと言って、頭に箱、手には紐を巻き付けてお祈りをしますが、この頭の箱と、メズサに入っている言葉がイエス様が、第一の戒めであるとおっしゃられた内容です。申命記6章4節以下です。

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口にも門にも書き記しなさい。

 これを実際に守っているのがテフィリンであり、メズサなのです。

 旧約の律法も、イエス様がおっしゃるキリストの律法も内容的には変わらない、では何が違うのか。

 新しい律法であるキリストの律法は、私たちの心に、聖霊の力によって記される。文字として必ずこれをなさねばならないという絶対的なものとして書かれるのではない。書かれたものを守らないひとを排除していくというものではない、私たちの心に記され、自由に喜びをもってキリストの僕として生きる道を生きることができるようにするのです。

 第二コリント3章6節に記されている通りです。

 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

 文字にしてこれに従わなければダメだ。という発想になりますと、これは同調圧力になりますし、鎖となります。自由を阻害するものになります。しかし、霊は人を自由にし、生かすのです。ここに書いてあるからやらねばならん、じゃなくて。私は神から語りかけられたから誰がなんと言おうともこれをなさねば、喜んで主に仕えます、となるわけです。

 喜んで律法を読み、ここから学び、自分が従うべきものを一つ一つ発見していく。その喜びが実は律法を読むということの中にあるのです。だから、新約のキリストの時代を生きる私たちこそが律法を喜びをもって自由に読むことができるということです。この律法に書かれたことをそのまま実行することは、この日本社会においては不可能ですが、神様のお心は読みとることができます。何を大切になされているのか、どこに私たちは視点を置いて何を見たらよいのか。ということです。

 レビ記「神は呼ばれた」この書の内容を見ていきますと、前半1〜16章までは祭儀に関する律法が記されています。17章〜26章までが神聖法集となっていまして、すべての民に向けられた内容になっていまして、生活に非常に深く関わる内容です。さらにこの文言の基調というか基礎が、本日の19章にも出てきますが、以下のような言葉です。レビ記19章2節です。

 イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。

 という言葉、私は聖であるから、あなたがたも聖であれ。これがレビ記の特に神聖法集、神の聖にあずからせるための法に記されているのです。神が聖だから神の民であるものは聖であれ、という事が書かれているから神の聖の法の集まり、神聖法集と記すわけです。

 では、この聖であれということはどういう内容なのでしょうか。聖は、度々触れて来ましたが、「分かたれている」「聖別されている」という意味があります。世から選び分かたれてこの世には属していない、ということです。すなわち、神の領域である天に属しているのだということです。聖であるということは、さらに具体的に言えば、天をこの地上において、心に宿しているということです。そして、本国は天にあり、やがて天に自分は行くのだということを知っているということです。だから、この世においても世とは分かたれて、天を見上げる心が、神を見上げる心があるということです。それが聖ということの具体的な内容です。この者たちは世の人々が見ていないものを見ているわけですから、世の人々とは違う行動を取るのだということ。それをさらに具体的な法としてまとめていったのが本日読んでいる箇所です。

 天を見上げている民は、非常に高い基準をもって、天を宿した行動をとれということです。

 天を宿している人はどういう視点を持つのかというとレビ記19章9〜10節。

 穀物を収獲するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。

 収獲を得るということはすべて天の恵みである。だから、これらは天の父への感謝をもって収獲されるべき。感謝が基本になっていなければなりません。主が恵みを溢れさせてくださったものであると考えると、他者に対して気前よくなれます。貧しい人にも目をうつすことができるのです。

 私は日本においてもやっぱり恵みを意識している人たちは違うなと感じます。漁師町に行きますと、気前の良さを感じます。ときに非常に彼らは裕福になる。すべて天の恵み、自分の力ではどうにもならない世界を知って、しっかり意識できているからこそ、気前の良さを発揮できるわけです。それらが自分が死ぬほど努力して獲得したものだ、私の力によるもだなどと思っていたら、おそらくちまちまと、セコセコとした生き方にならざるを得ないのだと思います。

 本当に小さなことにも、私一人の収入に関することにも、これは主が与えてくださったものなのだと理解する視野の広さが必要なのです。そうでなければ自分で得た収獲を守るので必死になるばかりです。守りに入るともはや怖くて人に施すなどできない。

 落ちた穂も、落ちた実も必死で拾い集めなければと思う。しかし、それらは残しておけば、食べる人がいるのです。貧しい人や寄留者、最も食べものを必要としている人にものを届かせるためには、天の父のこのご命令に立つことが必要です。常に自分が食べつくすのではなくて残しておく必要があるのです。腹八分目の日本の文化。すばらしいと思います。自分の体のためにも、そして、誰かに食料を届けるためにも、そこで止めておく。

 貧しい人のために残しておけなどと言われると、日本人はすぐに贅沢は敵だとばかりに、徹底して清貧を目指す傾向があるとおもいます。しかし、感謝して神を信じ、神から頂いた恵みはすべて、心の底から楽しんで良いのです。一部を残しておいて、あとは神にすべてを感謝していただくということはそういうことです。主が与えたもうと言って踊って喜んで良いのです。そして、その豊かさを主にまたお献げして歩む歩みをするのです。

 最もこの社会の中で悲しんでいる人はだれか、そのことに敏感にアンテナをはっている。それが天を心に宿したものがなすべきことです。当時のこのレビ記が書かれた時代は、貧しさ、住む場所が無いこと、これが最大の悲しみでありました。だから、そういう境遇を抱えているものへの神の憐れみがいたるところに記されています。

 ヘブル語で憐れみというのは「ラハミーム」という言葉であらわされます。これは子宮を意味する言葉「ラハム」の派生語です。子宮が痛む痛みというのは私は男ですので、知りませんが、おそらく想像ですが、頭痛のような、ずっと気分が悪くなるようなものでしょう。そして、子を思う痛みでもあると思います。この痛みには愛と包み込む力とが備わっている。

 律法がもはや文字ではなく、霊によって私たちの心に示されるということは、ラハミームの愛によって、憐れみによって私たちの全生活を包んでくれているということでもあるのです。聖霊の満たしを私たちは受けることができます。主イエスの御名によって願うならば、聖霊がその人の心に注がれます。その満たしというのは子が子宮で母親に守られているような、ラハム(子宮)の中で安心しているような、そして、私たちが痛みを覚えるのならば、その痛みに連動して、痛みを負ってくださる憐れみ。ラハミーム。主の憐れみ。この憐れみがあるからこそ、キリストは御自分が痛みを背負われて十字架の道を歩んで行かれたのです。その姿をしっかりと見て、ついていきたい。今、このキリストの霊に包まれて安心したい。そう思われるかたは、心の中で「主よ、聖霊によって満たしてください。憐れみで満たしてください。私はあなたの子です。」と祈ってみていただきたいと思います。そして、キリストを知る歩みを続けて参りましょう。アーメン。