ルカによる福音書1章5〜25節 「恐れるな」

 キリストとの出会いを常に期待できる現在。キリストが復活し、神の右に座しておられ、皆様の心に聖霊が注がれて、キリストを体験することができる。神の業は常に起こり、一人一人に新しいことが起こる。そんな期待感に満ちた毎日を送ることができる。それはすべてキリストがこの世にお越しくださったからにほかなりません。クリスマスまでの期間、私たちは自分の心を整えて、神に向かう姿勢をもう一度、一から見直して、主をまっさらな心で迎え入れたいと思います。

 私たちと神との交わりを阻害する力というのは、もうわかっています。イエス様が何度もご指摘くださったように、不信仰がその原因です。信じない心です。この世で経験する素晴らしいこと、それらはすべて信じる心からスタートすると言っても過言ではないと思っています。人を信じなければ、自分を信じなければ、未来を信じなければ、神を信じなければ、いつまで経っても人生に良いことは起こることはない。神のプレゼントを受け止めることができないのではないか、恵みを受け取ることができないのではないか。感謝することができないのではないでしょうか。

 聖書には「信じた人たち」の言葉が記されています。それが神の言葉となるという世界が聖書の世界です。信じた人たちの言葉、それを記述する人たち。その人達によって神の言葉が伝えられて行く。ですから、ここには信仰が溢れています。一つ一つ言葉を見ていきますと、私たちがどう信じたらよいのかということが見えてきます。ルカ福音書はとりわけ、私にとっては輝いて見える書物です。ここには信仰しかないと言って良いぐらいです。では、その言葉をご一緒に見てまいりましょう。

 ルカによる福音書1章1節。

 わたしたちの間で実現した事柄について、

 私たちが行って私たちが実現した事柄、ではない。この文の主語は明確にされていませんが、省略されているだけです。これは、神が私たちの間で実現された出来事についてと記されているということです。この言葉ひとつで、そこに信仰が溢れているのが読み取れます。神が実際に行動を起こしてくださったのである。自分で意識できていてもいなくても。

 とういよりも、福音書は驚きながらその起こった出来事をまとめているわけですから、はじめは神様の出来事であると理解はできていなかったでしょう。後から気づいたのでありましょう。それでも、起こったこと全部を振り返っていきますと、神が働かれて実現されたことであったのだと気付くのです。

 信仰の達人、信仰生活50年そういう人であれば、もう条件反射的に、物事が起こった瞬間にこれは神の業だと理解できることがあるかもしれません。しかし、多くの場合そういう状態ではない。なかなか気付かない。それが罪の現実というものです。普段の生活で神を意識していない人は気づけません。しかし、それでも後から気付くといことがおびただしいほどにある。あとで気づくことになってもそれで良いのです。とにかく、あとでも先でも主の業に1人の人が気づくということほど尊いことはありません。

 主が働いてくださったこと。これが現実のことだと気付くと、事細かく調べたくなります。ルカによる福音書を書いた人もそうだったのです。神の業が現実だと気づいて、事細かに起こったことすべてを記さなればと思ったのです。ルカ1章3節です。

 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。

 誰かに献呈する形をとるというのが、当時の文章作成の流儀であったようです。だから、このテオフィロさまというのは実際にいたかどうかというのは疑わしいです。ただルカの言いたいことは分かります。テオフィロというのは「神を愛するもの」というギリシャ語の意味がありますので、信仰を与えられて神に対して目が開かれていくもの、そのものたちすべてにこの文書を贈りますということです。

 すなわち、現在の私たちに向かっても書かれているといえるものです。神の業を、自分に起こったとこ、この共同体に起こったこと、それを全世界に伝える。それを神が望んでいるはずだと確信する。

 神の業を証しし、賛美する。自分ではなくて神。こういう動機で記される文章というのは、時を超えて、まさに神の業となり、この言葉によってまた神の業が新しく起こっていく。神の業の種子のようになるのだということが分かります。

 これは神の介入としか考えられない。ということが、起こっていきます。ザカリヤという祭司職にある家に起こったことも不思議な業でありました。信仰のある所、主の業が起こります。ザカリヤという人は、洗礼者ヨハネのお父さんです。洗礼者ヨハネはイエス様に洗礼を授けた人です。イエス様に洗礼を授けると鳩のように聖霊がくだりました。洗礼者ヨハネの役割は人々に悔い改めの洗礼を授けるということでした。悔い改めをもってイエス様に人々は導かれるというその道を指し示す人です。極めて重要な人です。彼の誕生のストーリーです。1章5〜6節を読みます。

 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司のザカリヤという人がいた。その妻はアロン家の娘の1人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは赴任の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。

 神の前に正しい人というのは、信仰に基づいて、主の律法、旧約聖書の戒めを神の言葉として受け止めて、忠実にそれを守っていたということです。この世の思い煩いやうまくいかないこと、はたまたうまくいったこの世の出来事。そういう世的なもので、神の存在がどこかにいってしまうということが起こりがちです。しかし、ザカリヤとエリサベトにはそういうことはなかった。落ち着いて常に主に仕え、聖書を大切にしていたのです。信仰者にはこの落ち着きというものが与えられます。外は右にゆれ左にゆれ、常に動揺せざるを得ない現実がある。しかし、その荒波の中で落ち着いていることができる。それが信仰者であり、信仰の力です。人によって、環境によって左右されるのは、全能の神に対する信頼とは言い難い。ザカリヤとエリサベトは主に信頼していました。

 しかし!主に信頼していると言えども、起こってはならないことというか、起こり得ないことが起こるのだと言われて、それを信じることができるかと言えば、不可能だったのです。自分たちにはもう子供は与えられない。もう年だから。そう思っていた夫婦だったのです。しかし、天使はザカリアに現れて言います。1章13節。

 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。

 ザカリアは祭司でありましたので、神殿の聖所にはいって祭司としての務めを果たそうとしているところでありました。香を焚いていると、その香壇の右に天使が現れたといいます。腰を抜かすほどにびっくりしたはずです。恐怖の念に襲われたと書いてあります。

 現れた天使はザカリアの祈りを知っていました。積年の祈りです。子供がほしい、与えてくださいという。しかし、どうにもならない体の状態を夫妻は抱えていたのです。高齢で長年不妊で悩んできた。この月日がザカリアをあきらめへと自然に追いやったのです。最終手段として、神への祈り、祈りを積み重ねていった。その祈りに神様はお応えくださったということです。御心にかなった祈りはすべて聞き入れられ、すべて叶えられる。この確信を持つことができる。祈りの結果、自分の願いも聞き入れられるし、神の尊い業が行われていくのです。

 しかし、ザカリアが願ったそのまま、そのとおりではなく、神の御心が実現されます。彼はもっと若いときに、この喜びを妻と分かち合い、人生をこの子供と共に建てあげていきたかったに違いありません。しかし、そうはならなかった、思い通りにはならないのです。しかし、願いはかなえられる。願ったとおりではなく、願ってはいなかったかたちで叶えられました。

 自分のことを「老人」とさえ言えてしまう年齢でしたザカリアは。しかし、その時から物事は大きく動き始めました。

 さらには、ザカリアが願っていた以上のことがこの子供を通して起ころうとしているのでした。1章15節。

 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。

 あなたの子供がこの社会を、この世界の改革の担い手となるのだと言われるのです。未来のことでありますが、そういうことが果たして起こりうるのだろうか、いやその前にこの私たち高齢の夫婦に子供など。。。などと尻込みしたくなるような内容がザカリアに告げられるのです。これを信じるか信じないか。このことがポイントでありました。

 やはり人に常に求められていることは「信じるか、信じないか」です。自分が神に選ばれていることを信じるか。これはずっと変わらないのです。ザカリアは天使が現れて言葉を告げられたこの時は、信じることができませんでした。18節。

 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」

 言葉は謙遜でありますが、天使に向かって「あなたの言うことは信じることができない」と言っているに等しいです。すると天使は。1章19節。

 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

 神様には心の奥底まですべてお見通しです。信じる気がないことは筒抜け。神を信じるということは神の全能さを信じるということです。ユダヤ人は「エル・シャダイ」という言葉を大事にしています。先日も言いましたがその頭文字であるヘブル語のシンを家の鴨居に付けてそこにキスをする毎日を送っている。神は全能です。ならば、こんなことはできないでしょう。おこらないでしょう。などと言えないのです。

 ザカリアは、後に主のおっしゃられたことを心から信じ、その通り行動をはじめます。すると彼の口がきけるようになりました。そして、その後は主を賛美する言葉が彼の口も心も支配するようになりました。

 全能の神は、神の全能さを信じることを求めておられます。ですから、イスラエルの民がかつて約束の地に入って行くときにも、増水しているヨルダン川がせき止められて、わたることができなかったはずの川をわたることができたという出来事を約束の地に入る直前におみせくださいました。またエリコという約束の地の入り口の町、この町を落とすときにも、城壁の周り神の箱を担ぎ角笛を鳴らしなら回るということだけで、その町を攻め落とすということを行っています。人間の力では全くありませんでした。そういう奇跡をおみせくださるのが全能の神なのです。祈祷会で読んでいました申命記にも記されています。旧約聖書の代表とも言うべきモーセ。モーセについて記されている申命記のまとめの言葉が次のような言葉です。神の業、すなわち奇跡を、人間の力ではなく神の力を見せるためにこそ、モーセが召されたというのです。

 申命記34章10〜12節。

 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。

 全能の神。奇跡を行われる方。この御方の前にひざまづく、ただそれだけ。そのシンプルなところに立つのです。そのときに私たちがなさなければならないのは、これまで神の前にひざまづかなかった自分を恥じるということ。罪の悔い改めです。洗礼者ヨハネが指ししめている道です。方向を変えるのです。今までみていなかったとしても今から変える。神の方に向き直るのです。そして、すべての祈りを聞いていただきましょう。何が起こるかは未知数です。全能の神に祈っているのですから。

 日本の教会が高齢化し(このことはネガティブなことではなく、プラスなことです)、しかし自分のできることの内にだけ閉じこもる、そういう傾向に向かっているのであれば、それは主が悲しまれることでありましょう。ザカリアが経験したことをちゃんと見ましょう。年だ、無理だと彼は言ったけれども、そんなこと全く関係なかったのです。私たちは、全能の神を信じているのです。全能の神を信じる集団が自分たちに何ができるかできないかで、未来を思い描いてはならない。主の業をなすのです。そのためにならば、奇跡さえ起こすと主はお教えくださっているのです。主を信じたいと思います。アーメン。