ルカによる福音書1章26〜38節 「奴隷であり、自由である。」

 イエス様が心に与えられると、その時から人生が変わってしまいます。これまでの歩みを止めて別の歩みになってしまいます。罪人であるのだけれども、限りなく尊い存在。そのように神が私を扱ってくださっているのを理解するからです。神は常に人間を御自分の創造の集大成として、御自分に似せたものとして扱ってくださっているのが分かります。特別に1人の人に話しかけていくといことをなさるのです。イエス様のお母様のマリアは、神からの囁きを聞いた人の1人であります。天使が彼女の前に現れました。

 天使の名前はガブリエルでした。ガブリエルというのは、神のメッセンジャーです。イエス・キリストの誕生を告げます。またヨハネに対して、パトモス島において神の言葉を告げます。ヨハネ黙示録がその結果できあがりました。最後の審判の時にラッパをならして死者を蘇らせるそのラッパを吹く存在がガブリエルです。つまりガブリエルという天使はメッセージを伝えるものです。

 天使ガブリエルがダビデ家のヨセフのいいなずけマリアのところにメッセージを携えてきました。ダビデ家というところが大きなポイントです。ダビデから新しい王が出るという預言がすでに与えられていました。サムエル記下7章12〜16節。とても重要な預言なのでご一緒に読みましょう。ダビデに対して預言者ナタンを通して与えられた預言です。

 あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。・・・あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。

 さらにもう一箇所、イザヤ書9章6節。

 ダビデの王座とその王国の権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

 ダビデ家からとこしえの王座が据えられるという預言です。この預言が成就するために、ダビデ家の末裔であるヨセフの一家が選ばれて、そこにイエス様が誕生なさるという神の預言が実現するわけです。

 神のメッセージを伝える天使ガブリエルは言いました。ルカによる福音書1章28節。

 「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。」

 おめでとうという言葉は「喜びなさい」とも訳せます。喜びなさい。ということは、喜ぶことができる内容がこれから告げられる。喜ぶことができる人生がこれからはじまるということです。この喜びなさいという言葉は、現代のキリスト者にも届く言葉であると思います。確かに、キリストが誕生してくださることによって、ずっと喜ぶことができる人生に変化してしまっているといえるからです。キリストによって罪赦されて、神に迎え入れていただけるのであれば、これ以上に必要なこと、喜ばしいことは他にありませんから。これが真実であるならば、一生喜んで生きることができる生が始まっているということなのです。喜びが無いのは、喜ぶべき内容を発見できていない、受けているのに気づいていないからということになります。この礼拝堂に座ってキリストを待ち望んでいる人々には「喜びなさい」という言葉が皆に通用する。喜ぶことができる人生がもう準備されていますから。

 マリアはこの喜びが理解できません。当然です。何の情報も無い内に「喜べ」など言われたって何に喜んでいいのかわかりませんから。唐突な天使の言葉ではあります。しかし、福音が人に望むということ、神の業が人に起きるということは唐突でありましょう。それがすぐに理解できるわけじゃなくて、後から知るのです。常にそういうものかもしれません。神の業を受けた人は、戸惑い考え込むことも多いでしょう。

 「喜びなさい」というメッセンジャーガブリエルの言葉は、聖書を中心とした交わりの中ですべての人に伝えられるべき内容だと思います。これを聞いた当初は「はて、なんのことか」と思うかもしれませんが、静かにゆっくりと受け止めていって頂きたいのです。キリストが誕生した皆さんの人生は、どんな不幸が重なろうとも「喜び」を抱くことができる人生であること。キリストと出会ったという一つのポイントだけで、天に導かれているのだということ。キリストというその御方だけが実は人生で大事なお方であり。その御方だけが、皆さんの人生の方向を変えることができるのだということ。

 天使はマリアに告げます。ルカによる福音書1章30節。

 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 イエスというのは、ヘブル語の「イエシュア」であり、主は救いという意味です。この御方の人生すべてが救いへと、この御方そのものが救いであることを指し示すお名前です。イエス様と出会うということは救いと出会うということです。神様はこのイエス様によって永遠の支配をなさる。永遠まで主がご一緒してくださるということが、このイエス様のご存在によって決まる。十字架の贖罪によって決まるのです。

 この御方だけを通して救いがなる。このようなシンプルな教えでなかったならば、私は信仰に至ることはなかったのではないかとよく思います。戒律を実行して、儀式を通して、コミュニティへの帰属を通じて、日本人であることを捨ててしまって、その上で信仰にということであったら私は信仰に至ることは難しかったのではないかと思います。しかし、主は聖書を通して、キリストとの出会いを通して、日本人にもどんな国の人にも、この知らせを届け、受け入れることができるようにしてくださいました。永遠の支配をダビデの王座が、まことにキリストを通してなったのです。これだけ多くの非ユダヤ国家にまで浸透して信仰が起こされているのは、すべてキリストのお力によります。

 マリアは天使に答えます。ルカによる福音書1章34節。

 「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

 今この段階で子供が与えられてしまうのであれば、非合理極まりない。非現実的。また許されざることでもある。結婚前に子どもがということはユダヤ社会では許されることではありません。だから、天使さんおなたのおっしゃることは絶対にありえないことですよ、とマリアが答えたということです。

 しかし、天使は神の前では絶対に有り得ないことなど何一つないのだと伝えるのです。35節。それが聖霊の力です。見えない神の力。いつのまにか見えない形で人間に注がれる力。その力によって不可能が可能になるのだと伝えるのです。

 聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。

 不妊の女と言われていた人も身ごもる、年をとっていてもそれは神の業であるから、問題はない。驚くべき出来事が次々と起こっていく。これを受け入れることはできません。非合理的であるし、未婚で妊娠するというのは、当時では常識にも反するし、徳にも反する反社会的な行為でした。だから、許されざることなのですが、それでもそれが起こるというのです。こんなこと通常は絶対にうけいれたくはありません。もし、これが不倫とでも理解されたら、マリアは石打の刑に処されます。

 しかし、マリアはどう答えたでしょうか。1章38節。

 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。

 おわかりでしょうか。これは命がけの信仰告白です。神を心の底から信頼していなければ、できない信仰告白です。命から、導きから、人生すべてを神に委ねるという心からの告白です。

 旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブ。イスラエルの父祖たち。彼らの人生を見ても、どうしてそんな厳しい試練を、というような歩みを彼らは通ってきています。そもそも神の導きというのは、この世ではときに私たちにとって厳しいものでありましょう。マリアの信仰告白だって究極の選択がここにあるのがおわかりでしょう。生きるか死ぬかをかけながらの信仰告白です。

 これをしたら、神がこう命じておられると私はどうしても思えてくる。しかし、これをしたら今の自分の人生が崩れてしまうのではないか。少なくとも今までと違う人生を歩まなければならないな。そう思えて尻込みしてしまう内容が目の前にあるかもしれません。もう年だし、もう人生も落ち着いたし、もうあたらしくすべきことなんて無いよ。などと言っている、思っているときにこそ、天使ガブリエルはやってくるのかもしれません。皆さんに究極の選択を迫るような。神を取るか自分を取るかを選ばせるような。神に委ねきるのか、それとも、自分が合理的に考える、現実的に考える道を歩むのか。そういう選択が迫られるかもしれません。 

 そのときに「わたしは主のはしためです」と言い切れることそこ、私は自由だと思います。そのときに「わたしは主のはしためです」と言えない人は不自由です。主を信頼していないのですから。人生を委ねきって、主がこれをしろと言われるのでしたら、私はこれをします。私は主のはしためです。といえるこの幸い。主、以外もう二の次、三の次となっている人生。そして、それゆえに、自由に主にお従いできるこの自由。キリストを知ってキリストを信頼できるって、この世にはない幸いです。自分を捨ててもなおキリストは私を捨てないとわかっている人生。だからキリスト以外を捨てられる人生。キリストは必ず私を守ってくださるのだと信じきれる主と出会えた。

 これ以上の人生はありません。アーメン。