ルカによる福音書 1章39〜56節 「幸いな者とは」

 マリアは受胎告知を受け、走るようにしてエリサベトの家へと向かいます。120キロメートルの道のりです。1日必死で歩いたとしても4日以上かかる道のりです。彼女はもうとどまっていることはできなかったのです。天使との出会い、神との出会いがあったからです。マリアの言葉を見ると長年彼女が聖書の言葉によって生きてきたということが伝わって来ますが、彼女はこれまで祈りつつ過ごして来たに違いありません。その神がついに出会ってくださり、さらにはマリアに特別な使命を授けてくださったのです。彼女はいてもたってもいられなくなったのでしょう。エリサベトに会いにいきます。マリアが住んでいたナザレから、エン・カレムという町へ向かって出発したのです。私も足を運びましたが、訪問教会はルカによる福音書に記されているように山地にありました。

 マリアは、天使から受けた言葉にすぐに応答するためにこのような行動を起こしたのでありましょう。人が本気で神の言葉を聞くということはこういうことです。人と分かち合い、そして自分の体を動かさざるを得なくなる。嬉しいこと、喜び、そういったことを心の内に静かに味わうということも可能でしょうが、多くの場合、誰かに言わないとおさえきれなくなる。マリアもそうだったのでしょう。そして、天使から受けたお告げを理解してくれるであろうエリサベトの家を訪れたのです。エリサベトも不思議な形で子供を授かっておりました。それをマリアは天使のお告げで知ったのでした。

 マリアがエリサベトの出会って挨拶をすると、エリサベトの胎内にいる子供がおどった、と記されています。まさか、胎内にいる子供が反応するはずが。。。などと思うものですが。反応するのです。それはヨハネが神から遣わされて、キリストの道備えをする存在だからです。もう神の使命を生まれる前から身に帯びている。

 人が命を受けて生まれでるというこの奇跡は、まさに奇跡です。神の業であると思います。誰も自分の命をコントロールできる人はいません。もう生まれてしまっているのであり、生まれたくて生まれてきたわけではない。だから、これは神の業。そうならば、神によってその使命が与えられているのであれば、その使命のために人は用いられるということは常々起こっているということであると思います。小さな赤ん坊がまさか。と思う箇所です。しかし、生まれる瞬間から、いや生まれる前から神の意図がそこにあるのですから、神の業に呼応しても何ら不思議ではありません。

 41節以下に注目してください。

 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。

 声高らかにというのは「大声で」ということです。大声で叫ぶようにしてエリサベトは語りだしたというのです。聖霊に満たされて。見えない神の支配を受けて、彼女は神の言葉を語りだしたということです。エリサベトの言葉というのは既に預言的な言葉となっています。その言葉というのは、42節以下。

 「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけなのでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 神の言葉は必ず実現し、神の大きな業の中で自分自身をとらえることができるということの幸いをエリサベトは聖霊に満たされた預言的な言葉でマリアに伝えたのでした。マリアはもはやマリア自身の人生の満足というようなところから抜け出して、神の業がこのお腹に宿っているし、神の言葉の実現である人生へと自分が乗り出していることを実感したに違いないのです。

 自分の人生の満足というものを求めているうちは、幸せを得ることはできません。人間の幸せというのは自己満足ではないからです。自分の人生の満足だけを求めていたのでは、神の言葉の実現というものも目の当たりにできない可能性があります。

 例えば、このエリサベトの言葉を聞くことができたのは、マリアが自分の思いを脱して、神の業を確信し、確認するためにエリサベトの家を訪れなかったら聞くことはできませでした。自分を守らねば、自分はなんという人生に導かれてしまったのだろう。私のこれからの旦那であるヨセフとの人生が壊されるかもしれない。なんという不幸、なんという悲劇。そんなふうに自分中心で物事を見ていたら、神の業など見れなかったのです。

 どのように見るかという、視点は神から与えられる賜物です。しかし、これは自分で見る所を変える自由が私たちには与えられているのです。どう見るかということは私たちの意思です。小さな自分レベルの、自分の目によってしか見えないことばかりを見ていくのか。それとも大きな神の視点、神の業、神から与えられる使命、神の喜び、神の悲しみ。そういったことに心を開いていって、神の業に自分を投げ出して行くのか。

 それは、すなわち神の言葉を信じ、神の約束は必ずなると信じ、神の約束によって人生を立て上げるかどうか。

 自分が不幸であると思いこんでいる人というのは、視線を固定化しすぎていると思います。自分しか見えていないか、自分に物事を全部引き寄せる傾向がある。だから固定化した見方しかできないんです。

 例えば、今日のエリサベトの言葉ひとつとっても、私たちがどう受け止めるかで、その意味は変化します。神の約束を信じているものは、神の約束の実現を見ることができると、エリサベトは神の霊に満たされて、預言的に私に語りかけているのかもしれない。と思って、大きく目を開いていったら。そして、聖書全体の記述を見ていったら、まことに同じことが自分にも起こるのだということがおぼろげながらに見えてくるのが分かります。

 ですが、見方ひとつ変えると全く別の見方だってできます。いやなんてひどい話なんだ。未婚のものに、しかも許嫁がいるにもかかわらず、13歳なのに、どうしてこんな1人孤独に課題をかかえこまなければならないんだ。どうしてこれほど不幸を背負わなければならないのか。どうして、どうして。とはてながそこらじゅうを飛び交うでしょう。

 マリアは目が開かれています。そして主の言葉に従う気持ちがもうすでに心にあります。そのマリアが見る世界というのはまことに祝福に満ちたものとなります。信仰者のお手本、生きる道。マリアが指ししめてくれています。ルカによる福音書1章46節。

 わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。

 救い主の御業の前に、喜びたたえます。まだ、子供は生まれていませんし、マリアはそれを目にしていません。望み見ているのですが、それでも彼女は信じて喜びます。信じるというのはこういうことです。実際に見ているかどうかではない、神の言葉、約束を信じ、全能の神を信じるということです。主が私に目を留めてくださった。

 全能の神の約束をとことん信じ、この小さなはしためにも、奴隷にも目を留めてくださる。

 神の言葉を聞いても、これをどう信じるかによって態度は全く変わります。恐れかしこみ主の御前にひざまづく人、そうではなくて、ますます傲慢になる人。聖書の読み方や態度、これは恐ろしい程人によって違います。ときに真逆の反応さえする。聖書という書物は恐ろしい書物だな、と良く思います。その人が聖書に取る態度でその人自身が裁かれているというのがよく分かる。

 邪魔くさい言葉だなぁと思っている人は読まないでしょう。それがその人の視点、信仰、またそれ自体が裁きとなっていると思います。しかし、そうではない人がいる。聖書の前に謙遜にとにかく聞くべき事を聞かなければと必死になって吸収しようとする人がいます。その人に神は必ず答えてくださる。そういう光景を何度も見てきた気がします。

 神の約束の言葉に対する態度です。神の約束をとにかく信じてきたマリア。それゆえ、マリアは神の業の成就を目の当たりにします。エリサベトはそのことをちゃんと言葉にして聖霊に満たされてマリアに告げました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたは何と幸いでしょうと。そして、もうマリアは自分自身が自分の人生の王様になっているようなセルフィッシュな生き方ではなくて、主が真の王になってくださる主の業の一員となっています。

 マリアが発見したことは、主にひざまづく歩みに召しいだされることによって経験する逆転の世界です。51節以下。これは私たちが心に刻み人生の指針とすべき内容です。少なくとも私はこれから何があってもこの言葉を心に刻んで生きていこうと思います。世界中の人がマグニフィカートと言ってマリア賛歌を大事にするのは、この主の憐れみ深さによります。

 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

 聖書には、神の御心はすでに実現している、という未来のことが既にという発想が常にあります。神の視点を見ようとしたときに、そういう言葉の使い方になるわけです。マリアもその言葉を使っています。時制が日本人には理解しづらいのですが。北斗の拳というマンガで「お前はすでに死んでいる」と言っていたのを思い出しますが。既に何々。神が既に実現してくださっている。そんな未来完了形が用いられます。

 心の高ぶっているもの、権力をふりかざすもの、富みをふりかざすもの、そのものたちは辱めを受けて低くされるのです。低い者、飢えた者、は祝福を受ける。マリアはそれをイエス・キリストがお腹に宿るということをもって、すでに経験している。それがこれからもイスラエルの民の中で、信仰共同体の中でおこりつづけるというのです。

 私はこのマリアの姿を見ていますと、現代における祈りにおいて、体をもって頭を地に擦り付けて祈る祈りがなぜずっと守られてきたのかということが理解できます。主の前に履物を脱いで権威を認めて、そこにひざまづいて主こそが王であることを認めるものを主が用いてくださるからです。それはどんな時も変わらない。主の約束の言葉。それがマグニフィカート、マリア賛歌。

 マリアは最後に言いました。アブラハムに対して約束してくださったことが、守られたことなのだと。アブラハムに対して約束してくださったこととは何か。創世記12章1節以下。

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 神にひざまづくものの名を神ゆえに高める。最も低きものを、神の力ゆえに高める。まずしきものであったとしても、その信仰の故に高める。神の前にひざまずくものは皆そうなるであろう。祝福の源となるために、選び出されて、全世界に神の業を広げて行く役割を担う。信じるものを大いなる国民にし、信じるものを祝福し、信じるものの名を高める。どんなに貧しくても、どんなに今悲しい思いをしていても神が、信じるものを守られる。それは間違いない。アブラハムというのは信仰の父と言われています。彼の信仰が義と認められた。信仰のみによって神に迎え入れられたということ。その真理は変わらない。神は信仰によって神を叫び求めるものを高くあげられます。誉れをくださいます。

 だから、主の前に徹底的にひざまづきたい。マリアの賛歌を自分の歌として歩みはじめたい。マグニフィカート。主を大きくして、自分を小さくして。そして、主はその私を高めてくださることを信じて。勇気を貰いたい。アーメン。