ルカによる福音書2章1〜7節 「なぜ飼い葉桶」

 蝋燭の火が灯されました。キリストの光を指し示す火です。この蝋燭はキリストのために捧げられて燃焼しております。私はこの蝋燭のようになりたいと思いました。この人生、おそらく後から振り返ってみれば、一瞬で終わるものであろうと思います。

 一瞬の灯火にすぎません。この灯火にもし価値があるのだとすれば、これが何のために燃やし尽くされたかということであろうと思っています。この命を自分のために燃やすということもできますが、それではあまりにももったいないと思います。

 やはり、燃やすのであれば、偉大なことのため、偉大なあのお方のため、主イエスのために燃やしたいと思うものです。

 主イエスは、世界を変えるためにお越しになられました。イエス様のお姿をじっと見つめてくだされば、御自分の世界が変わっていくのを経験することができます。どんな人でも主イエスを見ていれば人生が変わりますし、1人の人生のみならず、社会も変わるし、ひいては世界も変わる、そういう知らせを私は神から賜っています。この御方にこそ、自分の人生を投じる意味、自分の命を燃やす意味、捧げる意味があります。

 ではどんなふうに自分が変わるのか。主イエスのお誕生をつぶさに見ていくことをもって確認していきたいと思います。

 前回までのストーリーを確認しておきたいと思います。マリアの賛歌に先週は注目しました。マグニフィカートと呼ばれている祈りであり、預言である言葉です。この言葉をもう一度読んでおきたいと思います。ルカによる福音書1章45節以下。

 わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムの子孫に対してとこしえに。

 低く謙遜になるものを高くあげ、高慢なものを引きずり下ろす。これが神の業であり、これが神の御心であるというのです。この御心が主イエス御自身に徹底的にあらわされていきます。主イエスはきらびやかな美しく高く、力をしめしてあらわれたのではなく、全く逆の方法で、貧しく、弱々しく、低く、誕生のその時から御自身の歩みを指してお生まれになられました。

 主イエスは、人々の喧騒の中にお生まれになられました。ルカ福音書2章1節。

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。

 ローマの属領にあるユダヤ世界にとって、皇帝の命令は絶対でありました。全領土の住民は必ず住民登録をしなければならない。これに背けば命の保証が無い。そんな一般庶民の思い通りにならない状況で、どんな状態を抱えていようとも動かなければなりませんでした。

 王の王、主の主がお生まれになるのであれば、もっと落ち着いた、安全で守られて、絶対に命の危険などないような場所を確保し、お迎えするというのが筋でしょう。しかし、そういう配慮は全くできない、この世の王の権力によって、主イエスの自由など無い。そんな場所にあえてお生まれになられたのがイエス様なのです。本当に私たちと視線を同じくして、私たちが背負わなければならない課題というか、苦しみというか、人生の不条理というか。小さな民が背負うものを背負っておいでくださった。それは、神御自身の一貫した姿勢を通されるためでありましょう。姿勢といいますか、ご存在そのものがそういうお方。人類に、愛する人間に寄り添われて、その苦しみを御自身が背負われるかたであるということなのです。まさに親以上の親。愛そのものであるお方です。それが神であり、御子イエスです。

 宇宙を造られた恐ろしいほどに大きな偉大なる神が。私たちのこの世のかかえている問題のただ中に入って来られる。だから安心できる。極大に大きなお方が、極小な私に集中してくださるということ。これが神の愛であることがお誕生のはじめから示されています。

 こういうことを考えていきますと、イエスさまが後にこうおっしゃったのも良くわかります。マタイによる福音書6章25節以下。

 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

 小さなことで悩み過ぎだと。天の父を見上げてみなさい。イエス様を見てみなさい、命をかけてあなたの所に来られるお方ではないか。あなたのことは誰よりも主イエスが心配してくださっているではないか。何を心配しているのか。自分の悩みに捕らわれる生活ではなく、天の父を見上げる生活をせよ。

 悩みというのは大事です。しかし大事な悩みとそうではない悩みがあります。大事な悩みというのは、公のため、他者のための悩みです。それは愛に関連する非常に大事な問題です。しかし、自分に関する悩みというのは、それは本当に大事なのかどうか、自問自答してみる価値はありです。それから誰かに対する文句とかですね。自分がどう見られているかとかですね。そういうのってちっぽけな悩みです。気にしなくていい。

 しかし、それを心の中で極大化して心をこじらせているのが人間なのです。極大化すべきは、主への感謝と服従です。それ以外は心の中で極小化していいのです。マリアさんがそのことをマグニフィカートで教えてくれました。私は主のはしためです。私は主の奴隷です。私は主に従うだけですと言って、自分の問題はタナにあげて、とにかく主の前に跪いたのです。そこに主の業が起こるのです。その人は逆にもう自分の問題で悩む必要が無いほどに神によって高みにあげられるのです。

 で、こういう自分の小さなことで悩む必要はもうないということの根拠は、イエス様が私たちの歴史の中に、この世の喧騒の中にあえてお越しくださる方、あえて私たちのただ中に入って着てくださる方。御自分の身を投じてくださる方なのだというところに根拠があります。私のところにもと思えるのです。そう思うと悩みは小さくなっていきます。

 ベツレヘムというダビデの町でイエス様はお生まれになられました。

 ミカ書にこの預言がありますが、預言どおり、主のお言葉どおりお生まれになられたということです。ミカ書5章1節。

 エフラタのベツレヘムよ 

 お前はユダの氏族の中で小さき者。

 お前の中から、わたしのために

 イスラエルを治める者が出る。

 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

 これは旧約聖書の預言です。紀元前8世紀ごろに記されました。この書物の中にすでにメシア待望の預言が記されています。そして新約聖書のヨハネ福音書は冒頭から、この預言の成就がイエスにおいて起こったことであると言うのです。永遠の昔からおられた方が、ベツレヘムでお生まれになったと。しかもこの箇所からメシアは単なる人間ではないようなニュアンスが既に伝えられていることがよくわかります。ヨハネによる福音書1章1節において、この事が示されています。

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 言というのはイエス・キリストのことです。イエスは初めからおられた神であること。それは預言書ですでに預言され、その到来をイエスによって体験したのだと。この方が私たちのところにお越しくださればもう大丈夫、救い主はあなたのところにお越しになったのだと。

 さて、本日とくに注目したいのが、「なぜ飼い葉桶」ということです。説教題にもさせていただきました。イエス様のお生まれの状況、場面。それらには徹底的にすべて意味があるとお考えいただいて受け止めていただきたいと思います。神様のなさることには無意味なことなど一つもありません。神のなさることはときにかなって美しいという聖書の言葉がありますが、まさにその通り、すべてに意味がしっかりとあります。

 イエス様はなぜ飼い葉桶に寝かされなければならなかったのでしょうか。

 この箇所を聖書はどう描いているのか確認しましょう。ルカによる福音書2章7節。

 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 布にくるんでとさらっと記されていますが、現在の私たちが考えるような暖かい場所で、しっかり整えられた産婦人科でということではもちろんありません。厳しい環境です。飼葉桶と記されていますので、家畜小屋です。なぜ家畜小屋なのかといえば、宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからであると記されているからです。宿屋とここには書かれていますが、ベツレヘムに当時ホテルのような場所があったというのは考えられません。各家庭に客間があって旅人をとめることができる環境がありましたので、宿屋というのはその場所のことをさしているのです。ならばなおさら、人の家なのですから、身重のマリアを抱えた二人を受け入れるべき場所というのは準備されるべきであろうと思ってしまいます。旅をして寄る辺なき姿で、やってきた旅人をもてなすというのがユダヤ人の伝統であるからです。しかし、人々はそういう余裕さえ失っていたのです。自分のことを考えて自分を守ることで精一杯。だから、マリアの体の具合を思いやることはどの家にできなかった。そして、空いている場所は、唯一家畜小屋でしかなかった。

 自分が抱えている生活の苦労で手一杯で、他の人のことなど考えている余裕はない。2000年前のこととは思えないほどに同じ課題の前で右往左往しているのが私たちのような気がいたします。

 家畜小屋は洞穴です。粗末な場所です。そして、イエス様が受け止められた場所というのは、洞穴にあった飼葉桶。しかもイエス様がまとわれた布というのは、おそらく死者を葬るための亜麻布です。

 町のはずれに行きますと、死者の葬りのための布が備蓄されている場所があります。死者はすぐに葬らなければ、腐敗が進んでしまいますので、葬りの道具が常に準備されていました。いち早く死を向こうの世界にという発想です。死は汚れているので、死体に触れると汚れると考えていたからです。没薬という葬りのために必要な消臭剤もですから死から人を遠ざけるための道具だったのです。

 家畜小屋というのは町外れの洞窟です。ですから、死者の葬りのための布がそこにあったはず。その亜麻布でイエス様は抱きかかえられたのです。

 住民登録をせよという世の政治的な喧騒の中、人々は身重の女性を気遣う余裕さえなくて、皆自分のことを考えている。洞窟につくられた粗末な家畜小屋の中で、飼い葉桶に寝かされて。

 飼い葉桶であったというのも後に羊飼いとの出会いの中で、羊飼いが大いに親近感を感じた、いつも慣れ親しんでいる私の世界にむしろ神の子が突入するようにして入ってきてくださったことを実感したに違いない。羊飼いも忘れ去られた辺境に住まう寂しい人々だったでしょう。しかし、羊と対話し、自分に与えられた恵みと必死に対話を続けて信頼関係を大事にしていた人々です。その人たちのところにお越しくださった。

 イエス様のお姿をフィリピの信徒への手紙が的確に表現しておりますので、ご一緒に読み、この主イエスのお心を受け入れたいと思います。フィリピの信徒への手紙2章6〜8節。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 マリア賛歌、マグニフィカート。低き者が高くされ、傲慢なものは低くされる。これが神の御心。

 主の御前に跪いて、主のために、主の光のために燃やし尽くされる命。この一瞬の命をどう使うのか。主のための備えをいたしましょう。アーメン。