ルカによる福音書11章1〜2節a 「祈り」

 新年はじめから祈りに注目する。これは主の導きであると信じます。祈りこそクリスチャンの唯一の武器、この刀一本で勝負するのだ、と昨年言ってきました。しかし、本当にそれが実行できているのか。それを自分自身に問わなければならない。その必要を強く感じております。

 祈りが岩をも砕くほどに、海をも動かすほどに力があると信じているのか。

 主イエスはマタイによる福音書17章20節で次のように言われました。

 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何も無い。

 主イエスの言葉を神の言葉と信じております。主イエスの言葉はその真実性からして、発せられたその時からすべてが約束の言葉になると信じております。信仰があれば山をも動かすことができる。

 しかし、実際祈りの力を信じきれていない自分が昨年の自分であったことを思います。神様の前にも、皆の前にも私は懺悔しなければなりません。この基本中の基本ができていない。それがこれまでの私であったと告白しないではおれません。いや、というよりも、皆がこの基本中の基本の第一歩のところで躓いているのかもしれないとも思えてきました。

 祈りというこの刀一本に頼るため、なぜ祈りに頼るのか、そのことを本日は主イエスが祈りをどのようにお考えになられていたのかということを見ていきたいと思います。そして、今年は本気で一瞬一瞬を祈り一本で生きて生きたいと願います。祈祷会でヨシュア記を読んでいますが、ヨシュアは約束の地を獲得するために戦っています。彼が常に祈りの人であったことは読んでいてすぐ気づきます。主と向き合うことを絶対的に第一にしている。これが彼の勝利の秘訣であることは明らかです。祈りです。祈りのみです。その後に努力。

 イエス様も重要な局面で常に祈っていたということがルカによる福音書の記述から分かります。神であるイエスがどうして祈る必要があるのか。そのことを問いとしてお持ちの方がおられるかもしれません。どうして御自身が神であるのに、天の父、神に向かっていのるのかと。確かにそれは当然の問いかと思います。

 イエス様は人であり神である。とキリスト者は信じてきました。全き人であり、全き神である。しかし、キリストは神の身分であることに固執しようとは思わず僕の身分となった、という聖書箇所があります。この箇所は重要なので読んでおきたいと思います。つい何週間か前にもお読みしました。フィリピの信徒への手紙2章6〜11節です。マリア賛歌(マグニフィカート)を読んだときに一緒に読んだ箇所です。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは覆わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

 イエス様が人間として、人の限界の中にとどまり、神であるということを捨てて、死に至るまで従順になられた。神なのですが、人と同じように祈りによって天とつながるということを大切にされたのです。人であることの中に徹底的にとどまられたのです。それゆえ、人として十字架にかかり、犠牲の死をとげられ人が背負うべきものをすべて背負われたのです。

 また、人として私たちが歩むべき道のりをお見せくださって私たちと同じものとなり、私たちと同じ行為をなさったのです。祈りが人生の基本、霊的生命線であることを教えてくださったのです。

 弟子たちはイエス様の祈りの生活に感銘を受けていました。だから、本日の11章1節においてこういうことが書かれているんです。

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

 と記されています。天とつながり、天の思いを心に宿し、天のものとして行動する。そのためには、祈りが非常に重要な要素であるということを弟子たちは気づいていました。洗礼者ヨハネも天とつながり、天の思いをこの地に実行した人でしたが、あの洗礼者ヨハネも祈りの生活を確立していたのを弟子は知っていました。

 祈りの基本をイエス様はお教えくださいました。この基本は6つの要素に分けることができます。ぜひとも内容を記憶していただきたい。そして、この祈りをそのまま御自分の祈りにしていただければと思います。また、今日は私の祈りとイエス様の祈りとがどこが違うかということを明確にしていただければとも思います。

 先輩牧師に一度、祈りについてアドバイスを頂いたことがあります。その一言というのが私の中に非常に強く今も残っています。

 「神様が困ってしまう祈りをするなよ」

 というアドバイスでした。ハッとしました。長々とくどくどと、どうでもいいことをとにかく心を全部吐露するような祈り。こういう祈りというのは本当に失礼な祈りになってしまう。王の前に迎え入れられて、例えばですよ、その国の元首に招かれて、何か言葉すること、何か願いを聞いてくださるというときに、とにかくこれだけはという言葉に絞って、そして全生命力をかけて一言申し上げ、必要のないことは言わない、というのが普通じゃないかと思います。

 また、ある牧師は、祈りは本当に祈るべきこと、祈るべきでないこと、はっきりさせて、母親が子どもの病からの回復を願ってお百度参りするように、決して願いが適うまでは離さないというぐらいの気迫をもって、必要なことだけを祈るのだと教えてくださった牧師もいます。

 また、私は最近祈る時、密室の祈りと、それから歩きながら瞑想しながら、祈るという機会が多くなって、これが私にとって一番の方法だと思っているのですが、とにかく邪念を去って、主の前に静かに一人向き合うためには歩くことが自分にとっては必要だと思っています。

 そこで、色々調べる内に比叡山の、千日回峰行というのがあることを知りました。これは7年間にわたって歩く修行と礼拝を同時に行うもののようです。1年目から3年目は年に100日、4年目から5年目は年に200日行うものです。古くから神仏と向き合う行として行われてきたようです。真言を唱えながら260箇所で礼拝しながら、約30kmを平均6時間で巡拝する。そしてこの後が怖いというか、私は襟を糺すような思いをしましたが。「途中で行を続けられなくなったときは自害する」とあるのです。そのための短剣、自分自身の埋葬料10万円を常時携行するようです。神仏と向き合い、刺し違える覚悟で、命をかけて、しがみつくようにして祈りをささげるというのです。

 天に届く祈りというのはこういう祈りのことを言うのだなと思わされました。ちょうどイエス様の例えの中にも、本日のルカによる福音書の11章の5節以下にも同じような例えが出てきます。とにかく粘り強く願い続ければ、いやいやでも友達は思いを聞いてくれるだろう。ならば、なおさら神は憐れみ深く愛にとんでおられる方だから、聞いてくださらないはずはなかろう。しかも、最も良いもので満たしてくださるはずだと。イエス様は教えてくださっています。おそらくイエス様が最もおっしゃりたいことはこのことでありましょう。

 ハートで祈れと、力で。内容ももちろん大事なので、そのことを6つの要素を示して教えてくださっていますが、しかし、真剣に命をかけて祈るということ、そのこと以上に大切なことはないと言っておられるように私にはこの箇所は聞こえてくるのです。

 

 さて、祈りの六つの要素を見ていきたいと思います。2節以下を六つに分けることができます。一つ一つみていきましょう。

 祈りの要素としてまずひとつ目。

 それは「父よ」です。

 父よというのはアッパです。お父ちゃんという意味です。非常に近しい言葉です。旧約時代の人々はこうやって呼んでいいのだということを知らなかったし、実際に神が非常に近しいお方であるとは思っていませんでした。むしろ、人間と神との間の断絶というものを強く意識していました。神と人とは違うのだと。だから、イエス様のこの「お父ちゃん」には度肝を抜かれたはず。しかし、この祈りが主イエスのもとただしい祈りなのです。

 おとうちゃんと呼んでいいんです。おとうちゃんって呼べる人がいるってとっても幸せです。おとうちゃんって言う言葉を言うだけで私は脳からアルファ波が出て来る気がします。ほっと安心します。しかも、肉の父よりももっと安心できるお方。そのお方に親しく呼びかけることができるのです。しかも、天の父は喜んでくださる。私たちがお父さんと呼びかけて天に近づくのを喜んでくださっているのです。

 もしかしたら、祈りっていうのはこの呼びかけの言葉だけでもいいかもしれません。「お父ちゃん」と言って、心から信頼して委ねて、主の前に跪いてあとは黙っているだけ。それでもよいのです。

 2つ目の要素、「御名が崇められますように」です。

 御名が崇められるということはどういうことかというと、人々が神を神として崇めるように、神様への思いが人々の中で高く高く、神様を大切にしますように、人々が神を畏れかしこむようになりますようにということです。大切なこのお方が人々の間で正しく評価されますようにということでもあります。

 以前こられた、都島教会の井上隆晶牧師が言っていたのを覚えています。

 「みんながイエス様のことを忘れて、神様のことをバカにするようなことをして、神へのおそれがない。イエス様が軽んじられて、悔しい」と。

 こういった思いがまさに御名が崇められますようにという祈りと繋がっている気がします。神を忘れて神を適当にあしらい、宗教心を失って、礼拝に来ない、祈らない、天を見上げない、天を見上げないから、公のことも考えられない。自分のことばっかりを考えている。神が軽んじられて悲しい、悔しい。御名があがめられますようにと祈らざるを得ない。

 今も昔も、神に向かう思いが軽くなってしまうということは起こっていたのですね。だから、こういう祈りが大事だとイエス様ご本人が教えてくださったのです。人々の間には、マリアのマグニフィカートの逆が起こってしまっている。神を徹底的に小さく小さくという方向に皆が罪の中に落ちていっている。それでは、本当の喜びを味わうことはできない。

 自分の肉親が不当な評価を受けていたら、例えば自分の父母が、夫が、妻が、不当な評価を受けて、蔑まれていたら、怒りを覚えます。そういう普通に抱く怒りは、その存在が近ければ近いほどに、信頼関係ができてればできているほどに大きなものとなるのではないでしょうか。神様のことをあんなふうに言って、あったまくる。と思わなくなってしまうのが問題。神が遠くなってしまっているから。もう一度、父よ、おとうちゃんと呼び始めるところからはじめなければなりません。

 三つ目の要素。それは「御国が来ますように」です。

 キリストという王に仕えるものです。私は。このアイデンティティが大事だと思います。この王がやがて来られるその時まで、この地での使命を託されて、その時を待ちながら過ごしていく。このキリストという王が来られたときに、そこに跪いて、主が触れてくださることを待っている。その主のお顔を拝することができるように、その主に恥じ入ることがないように、毎日を過ごして行きたい。日本国民であると同時に天の国籍を持つもの。天のパスポートを持つものとして、その自覚が必要です。この自覚を多くの場面で忘れがち。

 キリストは明日来られるかもしれない。明日といわずこの後すぐかもしれない。そのときは誰にもわかりません。しかし、来られるということはハッキリと約束されている。使徒言行録1章9節以下です。

 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがた見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 四つめ目の要素。「必要な糧を毎日」です。

 生かされていることの表明です。自分で生きているのではない。あるご婦人はお会いする度に、「すべて主のお恵みでした」とおっしゃられますね。心のそこからそうお考えであられますから、口を開いたら次の言葉が常に感謝。主に信頼した立派な信仰です。私も見習いたい。これを祈りとして常に祈り続けなさいとイエス様は教えてくださいます。

 五つ目の要素。「罪の赦し」です。

 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。

 自らの罪を告白すれば、神はお赦しくださいます。聖書と向き合うと苦しくなる時があります。私などは特にそうだと思います。キリスト者としての生活16年にもうなりますが、どうにもイエス様がおっしゃられる、神のものとしての基準というものに全く合致しない。いつも自分の罪で躓いてしまう。聖書を読めば読むほどに、自分の思い込みや自分の思いのよこしまな様に気付かされて痛い思いを次々としていく。だから、罪の赦しがいつもそこにという前提でないと、キリスト者としての生活なんてできません。聖書を読み、神と向き合う生活は赦しが前提でないと、苦しくて仕方がないんじゃないかと思います。

 自分が徹底的に赦されているということを知れば、人を赦さないなんてありえないとすぐに気づきます。

 六つ目の要素。「誘惑に遭わせないで」です。

 自分自身が弱いということを知っていて、自分自身に頼らず、主に頼るしかないと知っている人の言葉です。誘惑にあってしまったら負けてしまうだから、主よお守りくださいと。誘惑に勝てると思っている人は負けます。

 これらを踏まえて、これは主の祈りです。天の祈りです。天の香りのする祈りです。そして、ここに私たちの心からの思いを投入して、これだけは、これだけは主よお聞きくださいという祈りを、まるでお百度参りをするかのような本当に必要に迫られた、心からの祈りをささげていくのならば、その祈りは蒼穹を震わせる祈りになる。天を震わせる祈りとなり、神に届く。そういう祈りを徹底してささげて行きたいと思います。私は今年一年は祈りの一年とします。天に届く祈りをささげる一年とします。アーメン。