マタイによる福音書6章9節 「天にまします我らの父よ」

 一般の人が、キリストをもとめて聖書を読んで、教会に通う。すると、必ず救われます。悩みが軽減されて心がフッと軽くなります。なぜなら、聖書が教えている内容というのは、対人関係で悩むのではなくて、それを一度わきにおいて、対神関係を考えてみようではないか。ということを提示するからです。人間の悩みというのは、すべて対人関係に由来するものだと考える心理学者(アルフレッド・アドラー)がおります。確かにその通りではないかと私も思っております。この社会の中で自分がどう見られているのか、どういう役割を担っているのか、どう評価されているのか。そういうことが誰でも気になりますし、それを気にすることこそが社会生活なのでありましょう。しかし、それがすべてでありますと、ある時に袋小路に迷い込むことになります。相手がどう思うかなどということは自分でコントロールできませんし、他人に強いることはできません。ですから、他人の評価などといことは自分ではどうにならないことなのです。ですが、それが気になって気になって仕方がないというのがまた人間でありましょう。

 どうにもならないもので苦しむのはもうやめて、対人関係は一度わきに置いてしまって、対神関係を重視する生き方に入っていこう。そうすると、重荷は簡単に下ろすことができますよ。というのが、聖書のメッセージです。

 本日読んでおりますマタイによる福音書6章というのは、山上の垂訓と呼ばれる箇所で、イエス様がなされた説教の中で非常に重要な箇所です。なぜなら、山上の垂訓というのは、モーセが与えた律法をメシアであるキリストが解釈して教えた、そういう内容だからです。モーセの律法の民であるユダヤ人にとって極めて重要な、律法の再解釈であり、また異邦人である私たち日本人にとっては旧約聖書の律法という、あの613もある神の法の精神が一体どういうものであるのかということを簡潔に知ることができる非常に重要な箇所なのです。ですから、この山上の垂訓を読むことによって信仰者がどう生きるべきなのかということの真髄がわかるということでもあるのです。

 マタイによる福音書5章〜7章までが、そのメシア(救い主)による律法の要約、再解釈が語られる箇所です。後ほど全体を御自分で読んでみてください。本日は6章の前半部分に触れます。6章の前半部分というのは何について言及されているのかと言いますと。「正しい行い」すなわち「善行」についてです。

 ユダヤ人が「善行」と言ったときに思い起こすことというは三つなんです。これは覚えてください。施し、祈り、断食、です。

 本日触れなければならない中心は祈りなのですが、その前の施しというところで、イエス様の心がかなり見えてきますので、触れておきたいと思います。6章1節から4節です。読みます。

 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

 この言葉を見ていてわかるのは、神様は外に出た行為よりも、内側にある動機。目的、魂胆に目を向けておられるということなのです。魂(たましい)、腹(はら)にある真実の中の真実。それを見ておられるのです。ヨハネ福音書の中にこのような言葉があります。4章24節。

 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。

 一般的に社会では人は何をしたか、できたかで評価されます。しかし、神は何をしたかではなく、どういう心かを見ておられるということなのです。それは後にふれますが、私たちと神との関係がまさに、父と子との心の交流の関係であるからです。心から神に向かっていなければ何も意味がないのです。人に見てもらおうとしてしたら、それはもうその時点でその行為は終わってしまう。人にみてもらうことが目的なら、見てもらった時点で終わり、そこから何もありません。すごいねと人は言ってくれるでしょう。人からの評価は上がるでしょう。しかし、一ミリも神との関係には役に立たないのです。神は霊であるから、魂胆はすべて見えているから、心から神に向かう行為以外意味がありません。

 2000年前のユダヤでは、施し、祈り、断食に皆熱心でした。だからシステムができあがっていた。貧しい人を集めるために、ラッパをふくという習慣があったようです。ほら、あげるよ〜。みんなミテミテ〜。私イイことしているよ〜。って感じでしょうか。

 このようにして人から良いように見られている人はその時点で報酬はいただいていることになるのです。その時点で終わっているのです。天の香りなど全くない。

 何より、人目を気にする生き方というのは、他者の奴隷になりさがってしまうことでもあります。ビクビクと人の目を恐れて、それに行動が縛られます。我々は主の僕であり、主にのみ畏れをいだき、主にお従いするものです。そこに私たちの幸せがあるのに、その幸せをほっぽりだしてしまう生き方にほかなりません。これは普段の生活で人々が陥る、落とし穴です。

 だから、主は信仰生活で大切な善行のところで、大切なことをお教えくださったのです。施しをする、憐れみをしめす、主から憐れみを受け取ったものにとって当然の行為であります。しかし、これが自分の評価を高めるためということになると、全くその価値を失ってしまう。天の栄光を指し示し、天への感謝であるはずの施しが単なる自分のための行為。非常に低低く、俗悪なものに価値を下げてしまうことになるのです。

 私は牧師として10年の歩みを与えられましたが、ずっとこのことで躓いていたような気がします。こころの何処かに自分の評価を上げるための行為がいつもつきまとっていた。だから、結果を出したい、結果を出したいと思ってきた。

 今年の初めに実家に帰省した時に思いました。自分の郷里に帰るということがこんなに安心で、心に幸せが溢れてくるものであるのだなと。あまりに安心したのか、風邪を引いてしまいましたが。しかし、心に暖かいものが流れ込んでくるのがわかりました。自分が育った小学校にもいきましたし、大学も見てきました。改めて思うのは自分はろくな学生じゃなかったなぁということです。いたずらもいっぱいしました。本当に大変な子どもだったなぁと思います。しかし、それを包み込んで育て上げてくださったのは、主なる神であるということを思い、主の赦しと憐れみが色々な記憶と共につながっていくのを感じました。

 愛する祖国に帰る、郷里に帰る、親のもとに帰るということがこれほどに暖かく大きな喜びであるのかと。

 ふと、自分に与えられている仕事というのはまさに、このことではないかという思いにも至りました。神の子どもたちである皆様を、本国である天にお返しするため。たった一人の人が天に迎え入れられることで、天では大宴会が催される。この喜びに共にあずかるために、牧師という役割があるのだなと。

 一番喜んでくださるのは、天の父です。その喜びのために教会のすべてがあるとも言えます。この教会のすべて、建物から財力から、人的力からすべてを使ってでも一人が祖国である天に帰ることができるなら、全部投入してしまっても良い。本当は1人の人が帰るために、あらゆる犠牲を払ってでも、教会を潰してでも、1人の人を導いたら良い。

 親にとってはたったひとりのかけがえのない子どもだから。

 成果を出せるかどうか、量が増えるかどうか、そういうことよりも主がお喜びくださるかに徹底してしまったらよいのだと思わされました。天で大きな喜びがあるなら、自分がどう評価されるかなどということはちっぽけなことであると。

 祈りは、父と子、天の父と私たちのこの関係がどれだけ大事かということがわかってくると、この言葉を交わすということの重要性が見えてくると思います。言葉を通じて私たちは心の内にある思いを届ける。ときに心の花束とも言われうることだってある言葉です。

 言葉数が多ければ、なんかうまい言葉であれば、通じると思っているのは、基本的に、父と子ということをわかっていない人がすることです。言葉が多ければとか、祈っている時間が多ければとか、うまい祈りをすれば通じるとか、そう思うのは、父を父として信頼していない人がする発想です。だからイエス様はこのように言われました。マタイによる福音書6章7〜8節。

 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。

 わたしはこういう所にイエス様のメシア性を強く感じます。普通宗教者や教える立場にある人は、熱心に祈りなさい、祈り続けなさい。あなたが長時間熱心に祈り続ければ祈り続けるほどいい。という風に教えるのが正解のような気がします。しかし、イエス様は天の父のお気持ちと一致しておられるからこそ、その父のお気持ちを反映させて、教えてくださるのです。父の心を知っておられるかたの発言です。

 確かに、私たちの肉の父でさえも、私たちに何が必要なのかわきまえております。ならば、なおさら、天の父はいわずもがなです。

 本当に大事なことだけ祈るのです。

 本当に大事なことは。イエス様が教えてくださいました。六つに区分できる要素を教えてくださいましたので、これから何週かに渡ってみなさんとご一緒に見ていきたいと思います。前半三つ、後半三つです。三、三、六です。もう覚えましたね。

 前半は神に関すること、後半は私たちに関することです。

 祈りの仕方も、いつもこのような形で祈ったら良いと思います。神様のことを心で満たし、愛を告白する祈りをはじめにいつもするのです。後半は主の憐れみに依り頼んで自分のことを祈って良いのです。

 そして、祈りでもっとも大事な言葉。それは、一番はじめです。

 「天におられるわたしたちの父よ」

 です。アッパ(アラム語)、おとうちゃん、とイエス様はより親しく呼びかけておられました。おとうちゃんと神を呼びかけて良いのだ。このことの中にすべてがあると言ってよい。この祈りをするために、私の命があると言っても良いかもしれません。天のお父様と呼びかけてあとは黙っているという祈りだってよいと思います。

 帰省して思いましたけれども、「とうちゃん」「かあちゃん」と呼ぶために、自分は何時間もかけてお金もかけて、予定もあけて、来たんだなぁということを思いました。

 もう天に肉親を送って、この肉をもってしては呼びかけることができない。また、信頼関係が崩れて、心からの愛をもって呼びかけたくても呼びかけられない人。しかし、心のどこかでは、「おとうちゃん」と叫びたいという思いが眠っている。

 おとうちゃんと神を呼んでいいんだとイエス様は、命をかけて私たちに教えてくださいました。十字架に御自分がかかっても、この関係性の中に人を連れ戻すため。お父ちゃんと呼びかけてそれだけで幸せが心に溢れ、天とつながってしまう、そういう神の子をこの地上に生み出すため、イエス様は十字架への道を歩まれたのです。たった一言でいいんです。どうか、御自分の口で神を「おとうちゃん」と呼ぶ祈りを、主イエスの名によってささげてください。アーメン。