マタイによる福音書6章9b節 「み名をあがめさせたまえ」

 主の祈りを知り、自分の祈りとして祈り始めることによって、人生に変化がもたらされます。

 救われます。

 というのもこの祈りは神と人を結ぶ祈りだからです。イエス・キリストがお教えくださった、主の祈りは前半三つ、後半三つの六つの要素に分けられます。三位一体の神がお教えくださった祈りだから、三つ、三つに別れるのだと覚えてくだされば一瞬で覚えられるでしょう。

 前半三つは神に関することです。神のご存在を求め、神の御心を求める祈りです。前回一緒に見ましたが、神は父である。アッパ、おとうちゃん。と呼ぶことが許された神である。そのご存在の前でただただ、父よと呼びかけて跪く祈りをしてほしいと言いました。

 お父ちゃんと言って跪くためには、そこに、信頼がなければなりません。例えば、スーパーで迷子になってママー、ママーと泣き叫ぶ子ども、この子どもにはママへの信頼があります。信頼があるからこそ最も困ったときに、ママーと泣き叫ぶのです。そして信頼できるママはそこに必ず現れなければなりません。それが道理です。

 信頼が無いままに、便宜的に父よと呼びかけても意味がありません。まことに祈るためには、そこに信頼と信仰がなければ祈りになりません。

 もう既に内容に入ってしまいましたが、しかし、この前に大前提があるということもとても大事なこととして前回受け止めました。避けるべき祈りがあるということです。それが主の祈りの直前に記されています。マタイによる福音書6章5〜8節。

 この箇所は極めて重要であり、ここで躓くから祈りが祈りにならないという所であろうと思います。何十回、何百回読んでも良い箇所ですから、お読みいたします。マタイによる福音書6章5〜8節。

 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。

 偽善者と出てきます。これはギリシャ語で「ヒュポクリテース」です。「役者」という意味です。役者のようであってはならない。演じてはならない。あたかも素晴らしい信仰があるかのように見せかける祈りをしてはならない。そういう祈りをしているときは、神に向かっているのではない。人に向かっているのだということです。「わたしは演じてなんかいませんよ」というその人本人が一番この箇所を聞くべき人です。まずこの箇所を語る牧師が一番聞かなければならないし、この箇所を自分とは関係ないと聞く人こそ一番聞くべき人でしょう。

 祈りとは人間にだけ許された崇高な行為であるといえます。他に祈る生き物はいません。そして祈りはなぜ崇高なのかと言えば、それは祈っている対象が崇高な神であるからです。人間は崇高ではない。しかし、その崇高ではない人間が向かっている神が極めてすばらしいお方であるから、祈りが素晴らしい。人間に許された最大の行為です。神に向かうことにこそ価値があるのだから。人に向かったら価値を失う。その真髄の真髄を教えるために、イエス様は主の祈りの前にこのような注意を述べられたのでしょう。

 さて、本日注目すべき箇所は「御名が崇められますように」です。神様の偉大さがたたえられますように。神様のことをこの世の人々が崇めるように。神を畏れ敬う思いがこの世界で満ちてきますように。

 天の父を思い描き、父よと呼びかけ、神の御前におる自分を知る。跪いている自分を知る。主を大きく心の中で大きくしていくマリアのマグニフィカートのように。この世界をすべおさめて、全能であり不滅であるお方。自分の存在より確かで、神がなければこの世界は存在しない、自分が生きようが死のうが、このお方だけは常に実在し続けること。その御手の中で守られている自分を実感するのです。

 その中で、崇められるべき神様がどのような方か黙想していくのです。イエス様のことを思い起こせば間違いないわけですが。そのイエス様のご性質を言葉にしてすっきりとまとめあげた箇所がありますので、読みたいと思います。ガラテヤの信徒への手紙5章22節。霊の結ぶ実というところです。この箇所は、神の霊、キリストの霊で心を満たし続けていると人々の中に結ばれる性質というものがある。という説明をしているのですが、キリストの霊で心を満たしていれば、キリストのご性質が実るのですが。非常に受け取りやすいというか、理解しやすい形でまとめられていますので、引用しておきます。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 これは人間の内に形づくられる聖霊の実、性質について述べているのですが。信じるものの中に形づくられる性質は、すべてまず神が私たちにこのようにのぞんでくださるということを基礎としております。神は私たちを愛してくださり、神は私たちを喜んでくださり、神は私たちとの間に平和をつくってくださり、神は寛容に赦しをもってのぞみ、神は親切であり、神は善意しかなく、神は誠実を尽くしてくださって、神は柔和で、神は私たちのために御自分を制限してくださるのです。この良きご性質に満ちた永遠なるお方の世界に自らを投じ、父よと呼びかけ、その中で憩い。そして、この御方を十分に味わって、それを伝えるのです。

 父よと呼んで、そのご性質の中で十分に憩い続けることがまず大事です。自分がしっかりとまず父の愛の中であたたまるのです。その熱を誰かに伝える。伝道とは熱伝導であるとも言えると思います。

 十分に楽しみ、喜んでいるものはすぐに人に伝えることができます。言葉がうまいへたは関係ないでしょう。熱で伝わるのです。本当に良いと思っているものは人に伝えます。

 御名があがめられますように、という言葉は、感謝そのものである言葉でもあります。神に栄光を帰しながら、それまで自分が受けてきたことを思い起こしながら、その受けた御恩を神にお返ししながら、そこまで私を大事にしてくださったそのあなたの御名をたたえますという要素が強くあります。御名があがめられるようにという讃美の祈りというのは実は非常に高度な祈りである、ということにお気づきでしょうか。内容が難しいということではありません。心から感謝していなければ讃えることはできない。

 人間同士の関係だと、人を讃えることは簡単です、見返りを期待してごまをすり、相手を褒めるということはあるでしょう。

 しかし、神様の場合は、こちらのゴマすりによって喜ばれているなどというその姿が見えてきませんから、ごまするような祈りはあまりにもむなしすぎてできない。とにかく、心から感謝を思っていなければ、湧いてこない祈り、それが「御名を崇めさせたまえ」です。

 過去の祝福への感謝が自分に染み込んでいないと、神を高く讃える祈りは祈れません。どうか、主の支配を信じ、御自分の過去を振り返ってみていただきたいのです。それらすべてに神の支配があると認めることができるようになれば、人生の意味が変わります。人生の意味が変われば、それらは感謝になるのです。灰色の人生であった。そういう時期が、実は神との出会いの場となっていた。実際皆が経験していることです。

 御名を讃えるようになると、抱えている問題があまりにも小さい、悩みがあまりにも小さい、小さいことで悩みすぎていたということに気づきます。全能の、宇宙をすべおさめ、極めておられる方が私の味方となってくださる。父となって、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の思いで私にのぞんでくださるのだ。そう思うと、心に平安が流れ込んでくるのです。存在の隅々にまで。

 実は、人生において抱える課題というものは、すべて神に対してどんな態度を自分が取るのか、神をどう思っているのかに関係していることであると、キリスト者として16年生活してきてやっと気づくことができました。今抱えている問題は自分の力ですべてなんとかしなければならない。そう口で告白しなくても、思ってしまっていると、大変な毎日となります。自分でなんとかしなければならないので、焦りもでてきますし。焦りによって人との間に難しい関係をつくってしまうことだってありえます。

 しかし、全能の神が味方してくださるとただただ信じるだけで状況は全く変わります。確実に重荷が軽いものに変化します。全能の神は確かに、私たちに行動は求められますし、努力も求められます、しかし、なにより祈りによって主に全幅の信頼をおいて最後は委ねることを私たちに願っておられるのを強く感じます。

 人間関係における、相手にどう思われるのか、どう見られるのか、それをやっと下ろすことができたのが、キリスト者です。イエス様は人に見られることを意識しないようにとはじめのはじめで教えてくださっているので、これは基礎の基礎として受け止めておられる方も多いでしょう。しかし、そこからさらに進んで全能の神に全幅の信頼をして最後は委ねきってしまうというあり方に至っているかどうかは、甚だ自信がないかもしれない。しかし、主イエスが求めておられる信仰というのは、そのようにすべてを委ねきってしまうという信仰です。月報1月号で引用させていただいた御言葉を読みたいと思います。信仰は、篤いか、深いか、強か、それとも薄いか、浅いか弱いかというよりも、その質が問題であるのです。マタイによる福音書17章20節以下。

 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。

 ここで「信仰が薄い」と出てくるから、なんとか篤く篤くと願って、いまある信仰をブラッシュアップしてなどと考えてしまうのです。しかし、信仰を強めるなどという発想ではなくて、主イエスが言っておられるように信仰というのは「からし種一粒」ほどもあれば十分なのです。信仰が薄いという言葉は「びくびくとした信仰」とも原典に帰ると訳せる言葉が使われています。

 これは、信じているというよりは信じていない。全幅の信頼をおいてはいない。神の全能さをじつは信じていない。だから、その全能の神の守られているから安心しているのではなくて、ビクビクとしている。そういう意味なんです。

 絶対に守られていると思っていれば人は決してビクビクしません。

 私の母の実家が秋田なのですが、秋田に小学生の時に行きました。もう母の父母は亡くなっておりましたので、行く機会というのはほとんどなかったのですが、小学校低学年の時に秋田に行くために飛行機にはじめて乗りました。その時の恐ろしさといったらありません。飛行機を信じていませんから、怖くて仕方がありませんでした。

 しかし、今はどうでしょうか。自分が運転する車より飛行機は安全だと知っています。だから、全く怖くない。イスラエルに行くときも一日中飛行機に乗っていましたが全く怖くない。ある意味もうこれは飛行機に対する信仰といっていいかもしれません。信仰が、からし種一粒あるからです。

 キリストは、信じるものにとっては「インマヌエル」だ「神我らとともにいます」だと宣言しておられるのです。キリストの宣言です。だから、間違いがありません。

 主の祈りを自分の祈りとして祈れば、もうその人は救われている。

 この祈りを祈ることができるように、父よ、おとうちゃんと言ってすぐ天が心に流れ込む、その関係性に導くために十字架にイエス様がおかかりくださったのです。全部、罪から解き放たれて、自分の人生をもういちど見直して、全能の神の御業をそこにみることができるように。御名をあがめる生活をはじめて、神が大きく大きくなり、抱えている問題が小さくなって軽くなる人生を主が与えてくださるため、十字架におかかりになられたことを思います。

 主の前に跪いてしまい、自分が主の僕であり、神こそが王である。その御方にお従いするのだと決めたその時に重荷は全部下ろせるのだと気づきます。

 勇気をもって主の祈りのまま、今日この御言葉から聞いたまま、全幅の信頼で全能の主に委ねてしまう。この単純な道をこそ歩んでまいりましょう。アーメン。