マタイによる福音書6章10節 「み国をきたらせたまえ」

 祈りの生活をはじめれば、復活します。人生がよみがえります。力が湧いてきます。新しいビジョンが見えてきます。愛が溢れてきます。今年に入ってイエス様が教えてくださった「主の祈り」について聞いています。

 私は信仰生活16年目にしてやっと祈りについて真剣に取り組むようになったと思います。私に洗礼を授けてくださった鈴木崇巨牧師の「求道者伝道テキスト」の中で先生が御自分についてこう言っておられるのに驚いていましたが、理解できるようになってきました。

 「私は洗礼を受けて30年ばかりしてから、自分が本当に信仰をもっていることを感じました。」

 牧師であられる先生が30年でやっと信仰と向き合えたと言うのです。しかし、それが実は人間の偽らざる実情なのではないかと思いました。何十年たってもやっぱりスイッチがオンになっていなければ、何年としを重ねても変わらない。神の働きかけを受けていても気づけ無い。

 生まれる前から、母のお腹の中にいるときから教会に行っている。しかし、全くこの信仰の力というものを感じない。熱く燃える魂というものを感じない。そういう人もいるでしょう。聖書と出会ってはじめはすごく燃えていたけれども、やがてその熱はさめ、いつのまにか、普段とかわらない、聖書を読んでも何も思わない。そうなってしまったという方もおられるでしょう。

 かくいう私もそうです。聖書の言葉の研究に明け暮れ、これを研究してうまい言葉で誰かにわかるように説明できるようになどということばかりを考え、聖書の言葉をそのまま、自分への語りかけとして聞くということから堕ちてしまっていました。聖書を自分への語りかけとして聞けと人には語っていた、しかし、それを実際に実行していたかといえば・・・。

 しかし、ただただ、新約聖書の指針をそのまま、私への言葉として聞き、実践することの価値と力とを再発見しております。それが神の力が流れ込む秘訣であると、遅ればせながら16年目にしてやっと気づいたのです。

 ああ、だから天の力は流れ込まないし、だから力なく疲弊してしまうのであるし、だから、喜びも無いのだと気づきました。聖書はそのまま受け入れるべき言葉でありました。

 だから、祈っているようで、ぜんぜん祈りになっていなかった。それがマタイ福音書6章の言葉によって示されたのです。6章5節。

 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。

 偽善者というのはヒュポクリテースです。役者という意味です。演じて祈ってはいけない。牧師という人の前に立つ職務についているものとして、演じるということがどうしても無意識に行われている。演じるべきところは演じる必要は確かにあるのです。普段のまま人前にでてしまったら、失礼を皆様にしてしまう。しかし、心の内側では、心のそこから神に向かっていないといけない。祈りにおいては神だけを心に迎え入れなければ意味がない。しかし、心のそこに、人の顔色、どう評価されるか、どうあの人は思っているか、が常にある。そう思った瞬間演じなければとなってしまうのです。

 しかし、神の前では、心の虚飾、心の鎧、そういったものを全部すてさって、降伏し武装解除していく。そういう姿勢で望めばそこに神の霊が自然と流れ込んでくるのだということが聖書で教えられていることです。6節。

 だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあんたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 この全宇宙と、この世界とを造り、私たちをお造りになられ、私たちの存在よりも確かに存在しておられる。その王の王、主の主が、私を見ていてくださるのです。そのことのまえに跪き、そして、その御方が確かに報いてくださるというのですから、神の働きを信じていくことができるのです。

 にしても、祈る時間がない。祈る心の余裕がない。生活が先だ。そうお考えというか、無意識にそう行動してしまう人もいるかもしれません。しかし、今一度お考えください。祈ることよりも優先すべきことがあろうかと。神が報いてくださるものが祈りなんです。そうイエス様はハッキリとおっしゃられているのです。

 神が報いてくださるのであれば、病めるものが立ち上がり、悪霊にとりつかれていた人が喜びに満たされて踊り、勇気の無いブルブル震えている使徒たちが勇気に満たされて立ち上がり、預言者は言葉を受け権力者を恐れず神を恐れてものを言い、ソロモンのように知恵に満たされ、ダビデのように揺るがぬ王位を築き、ヨシュアのように得るべき土地を得、モーセのように奇跡を行い、主に従い人々を導く。

 祈ることによって天が人に流れ込んでくれば、聖霊で満たされてくれば、そのような偉大なことが起こるのです。全能の主の業なのですから。

 祈りがもたらすもの、神が聖霊として人の心に住みたもうこの偉大さに気づけば祈らないという選択がいかに愚かであったかに気づきます。旧約の時代は選ばれた人にしか、この祈りと聖霊の導きというのは無かったのです。しかし、今キリストを知った時代の人々はこの賜物を大いに用いることができる。しかし、用いてない。

 これが私たちの現状であり。まさに罪、まさにギリシャ語でハマルティア、ヘブル語でハーター、その意味は両者も的外れ。的外れ!といえる現実なのです。

 いやいや、祈りは難しくないですか。どう祈って良いのか分かりません。そういう人に、何を祈るのか、イエス様は明確に教えてくださいました。言葉数を重ねれば良いのではない、お題目になって心が失われては意味がない。心の底から祈ることができる次の内容をいのれば良いのだと教えてくださった。それが「主の祈り」です。

 父よと呼びかけ、御名を人々が崇めるように祈り、神の素晴らしさの中に我が身を投じ、なぜ主がたたえられるべき、崇められるべき方なのかという、この喜びの中で過ごす。すると天の空気で心が満ちてくるのです。それが前回までに見てきたところです。

 そして本日、「御国が来ますように」ですが。これは信仰告白と願いです。自分自身を明け渡して御国の神の国の支配に自分を委ねます。そしてそれがすべての人のところに来るようにと願う祈りです。

 御国というのは何か。キリストが再臨されて千年王国を築くという意味があります。さらに新しい天と地とを築くという未来の意味が強くあります。十字架の贖罪によって人々が招かれ新しいイスラエルか築かれるのであるという意味もあります。それと同時に、今現在ここにある自分が、神の支配の中にあるということをも意味します。

 御国というのは、バシレイアという言葉で王国、統治、支配という意味です。現代の日本人は、民主主義を絶対化しているかのように私には見えますが、私の最終的な理想はキリストが支配してくださる王国です。それまでの暫定的なあり方として民主主義が機能している必要は強くあると思います。しかし、民主主義を絶対化は私にはできません。民主主義がなっていればオールオッケーだ。などと一ミリも思いません。

 それよりも神の支配、一人一人の中にある神の支配が起こることが、最優先である。民主主義が達成されることよりもまず、ミクロな次元での変化、人々の心の変化ということがまず起こっていなければならない。1人の人に神の支配、聖霊の油注ぎ、聖霊の支配が起これば、それがどれだけ大きな働きになるか。神の力がその人から流れ出すのですから。

 エレミヤ書という預言書の中に以下の記述があります。エレミヤ書31章31節以下。

 見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導きしたときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と行って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 かつてのモーセの時代のように、律法の板にこうすべきだというあり方が記されて、それに従わなければならない、というあり方ではなくて、心の中に律法が授けられて、自分で何をすべきかがわかるようになる。

 モーセの律法を授与されたことを祝う日がユダヤでは五旬祭です。ペンテコステです。キリストが十字架にかかり、死んでよみがえり、50日後、すなわち五旬祭の日に、聖霊が下ったというのは、律法が心の板に記されていくというエレミヤの預言が成ったということなのです。しかも、それはただただ信じる者に与えられ、異邦人かユダヤ人かの区別なく、信じるものに与えられる神の賜物であるということを私たちは知ったのです。

 私は今回この主の祈りのために時間をさいて何週間もかけて、説教してきたことを主の導きであると信じます。主の祈りこそが要の要であることに気付かされました。そして、ことごとく主の祈りの精神に反している自分がいることに気づきました。

 主の御名を崇めさせたまえという祈りはまさに崇めるため、主の素晴らしさの中で憩い、喜び、楽しみ、そしてその支配を喜び従うということが大事なことであるという告白です。しかし、私がしていたことというのは、理性によって神の言葉をまな板の上にして、そのまま味わうべきものをより味わいやすいようにという大義のもと、理性や知性というナイフで神の言葉を輪切りにしてめちゃくちゃにしてしまっていたということです。そして、力がない旨味がない、どうしたらいいんだと勝手に悩んでいた。

 御名の栄光の中に、神の栄光の中に自分を投入するではなく、神をこちら側に惹きつけて、人間の理性でわかるようにして、神を小さくしていたのだ。そこに力などない。人間の欲求の中に閉じ込められた神などもはや神ではなかったのです。簡単なのです。主の御名をあがめさせたまえと祈り、心から主をあがめる。そこに聖霊が流れ込み、天の力が流れ込むのです。

 主の祈りは六つの要素の分けられます。前半三つ、後半三つ。前半三つは、神の御心を求める祈りと言い換えて良いと思います。神を神として崇め、神の支配を願う。心からそういう祈りをささげていくところに、祝福があたられる。そのことさえこの祈りは示唆しています。前半三つの祈りのあと、私たちの必要についての祈りが重ねられていきます。これが具体的な私たちへの祝福です。神を崇める祈り、神の支配を心から願い、聖霊がその心にやってきているもの。聖霊で満たされているものには、さらに祝福が加えられる。

 クリスチャンになると、心が満たされていないのに満たされていると嘘をつき続ける癖を身につける場合があります。私のように。。。しかし、もう嘘をつく必要はない、満たされていないのならば満たされれば良い。そのためには、主の祈りという主が教えてくださったその祈りそのものに自分を従わせることです。自分勝手に解釈するのではなくて、主がおっしゃられた意図を汲み取るということです。父よと呼びかけよと言っておられるのに、適当に自分の願いばかりで心を満たすなということです。おとうちゃんという祈りを黙ってしてみてください。

 また、御名を崇めることを第一にしようと願い祈り、その主の素晴らしさの中で主を楽しみ、主を楽しむ宴会を開くような思いで過ごすのです。自分の誕生を祝うような思いで、主の素晴らしさをもっともっと祝い、その中で憩うのです。そして、神の国が来ていることを信じる。主の支配があることを信じる。

 そうではなくて、私たちは自分の問題に忙殺されて、とにかく言葉をかさねて願って願ってという祈りになりがちなのです。

 まず何にも優先して祈る。忙しいから祈れないなどと言わないのです。忙しさに負ける神ってその神本当の神ですか、偶像ではないですか。そう自分自身に問いかけても良いかもしれない。

 主イエスが教えてくださった。主の祈り。この前半部分の三つの要素。おとうちゃんと呼ぶ、主のご栄光の中に憩い、御名をたたえる。神の支配が心になるようにと心を開いて武装解除をして明け渡す。すると主の霊が注がれ、神の思いが心に記される。

 実はこれだけで、信仰生活は十分です。心の底からこれだけに集中すれば、すべての問題は解きほぐされていく。心もほぐされていく。心の癒しを得たいかた、病の癒しを得たいかた、新しいビジョンに生きたい方。愛を求めておられる方。どうかことごとく、この主の祈りの中に生きていただきたい。そうすれば道は開けてきます。心に光明が差し込みます。アーメン。