マタイによる福音書 6章10b節 「みこころを地に」

 祈りというのは初代のキリスト者にとってどういうものだったのでしょうか。フィリピの信徒への手紙4章6節。

 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

 力ある栄光の主が、私の前におられる。イエス様がアッバ、父よ、お父さんと呼べと教えてくださった、近しいその御方が聞いてくださる。ならば、思い煩うのはやめよう。王が目の前におられて、王の目をみるのではなく、自分の思い煩いにとらわれているということはどういうことでしょうか。どうか具体的に思ってみてください。お殿様に仕える家臣がお殿様の前で、自分の悩みに落ち込んでお殿様の顔を見ない。そんな事ありうるのでしょうか。全能の神を前にしているのですから、思い煩うのは止めましょう。そして、感謝を申し上げること、また、願いを聞いてくださることを信じて、素直に心のたけをのべてまいりましょう。これが、初代のクリスチャンがしていた祈りであり、この祈りに神はお応えくださったからこそ、この言葉が残されて、現在の日本にまで届いているわけです。

 確実に言えること、祈りは思い煩いからの解放をもたらすということ。思い煩いっていうのは悩みのすべてです。悩みに支配されることから解放されるということです。それがどれだけありがたいことか、現代の人々が心の底から求めていることでしょう。祈りで解消されます。思い煩いが人生のすべてのように感じている人は特に、祈りで人生すべてが変わる。

 主の前に祈ることに人生すべてがかかっている。ということなのです。それを分かっていたフィリピの信徒への手紙を書いたパウロは、まことに祈りによって苦難を乗り越えていきました。

 パウロが乗り越えた苦難について聖書に見てみましょう。コリントの信徒への手紙二11章24節。

 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

 なかなか味わえないぐらいのおそろしいほどの苦しみです。これも彼は祈り一本で、祈りにすべてをかけつつ、なすべきことはなし乗り越えたのです。祈りにすべてをかけるなら、自分の行動を通じて神が働かれると信じることができるので、より一生懸命ことにあたることができるでしょう。発端は祈り。祈りは神に向かうこと、神と向かう祈りだから尊い。その尊い祈りにすべてをかけたのです。

 切れ味するどい刀一本。祈りで勝負。神がお働きくださることに心底信頼をおいて。

 祈りの尊さ、力を生み出すものは何でしょう。神に向かっているということただ一つです。だから、役者のような、聞いている聴衆に向かうような祈りは避けなさいと教えてくださいました。神に向き合うのだから、言葉をずらずらととにかく並べ立てるような祈りをするのではなくて、心からこれだけはと思う祈りをささげよと教えてくださいました。6章8節。

 あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。

 これだけは私の命を投入してでも申し上げなければならない。という内容に絞ったらよいのです。全存在をかけて神に申し上げなければならない内容というのは。前回見ました。主の祈りの最初の3つの要素であると。

 一つ目、「父よ」と呼びかけるということ。アッバ、お父さんと。

 二つ目、「御名が崇められますように」「御名が聖とされますように」神が神であることを皆が受け入れますように。と願いつつ、主の栄光、主の偉大さ、主の力、主の愛、主の憐れみで心を満たしていくということです。

 三つ目は、「御国がきますように」。主の支配、主の王国、主の統治がなりますように。この世においても、この国においても、この心の中においても。

 この3つの要素を祈れば十分。この祈りの中に我が心を憩わせることによって問題は解決する。神のご存在の中で憩うことを怠る。自分の力でなんとかしようとする。すると、力が湧いてこない、心が定まらない、何の変化も起こらないのです。

 イエス様は非常にシンプルな祈りの方向性、何を祈るのか。教えてくださいました。

 本日聖書朗読で読まれました箇所は、前半の3つの神の御心に関する祈りと、後半の人間の必要に関する事柄をつなげる役割がある言葉です。

 御心が行われますように、天におけるように地の上にも、

 天で神の御心が成っているように、地でも成してください。実際に神の御名があがめられるようになるために、人々にお働きかけください。神の支配がなるように、どうかお働きかけください。あなたが父であり、おとうさんであることをお示しください。

 イエス様がこうまたおっしゃられました。6章33節。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 徹底的に主の祈りの前半分の3つを祈り、これがクリスチャンの行動のすべてにまで行き渡って、彼の行動を通して神が崇められ、神の支配があるようになる。すなわち、彼が神の国と神の義を求めていると、不思議なことに必要はすべて整えられる。これが神の約束の言葉です。

 日本での一般的なあり方は、衣食住をまずもとめて、それから余暇で神を求め、宗教を求める。というあり方ではないでしょうか。それはクリスチャンの中にも押し寄せてくる波として皆様の中にありませんか。主の前に跪き、祈ることよりも、まずこの世のこと。忙しい忙しいと言っていませんか。キリスト者こそがまず、この問題と真正面から向き合わなければなりません。そうでないと、命をこの地上に流すことはできません。神と人とのパイプライン役。聖なる民、祭司とはなりません。

 私たちが神の民として導かれたのには目的があります。それは信じる者が、祭司の王国、聖なる国民となる。ということです。出エジプト記19章にその言葉が記されております。十戒の直前の章なのですが、これは極めて重要な言葉です。19章を開くことを忘れないでください。19章3節。

 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。/今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。/世界はすべてわたしのものである。/あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

 神によって宝とされ、祭司の王国、聖なる国民。祭司というのは誰かと神様とを結びつける役割、聖なる国民というのは、聖なるというのは分かたれたという意味。神を知り、世俗の民とは違う、神を知って、神の力をこの世界に伝え、神の力を体験する。そういう特別な民であるというのです。神を体験し神と人とを結びつけるがゆえに特別なのです。

 そして、今は主イエスと信仰によって結びつくことによって、人々は神の民となる、そういう時代となりました。明確に時代が変化した。あの十字架により。あの時から異邦人も神の所に帰ることができる時代となりました。世界はすべてわたしのものである。と宣言される方のところに帰れば、問題の解決はそこにあることを知ります。

 皆さんを通じて神の力が、神の救いが、この世界に伝わっていく。

 御心が地にも、という祈りを本日は読んでいます。神のこころがこの地上に満ちるように。神のこころである、ご計画が成るようにという祈りです。神がお考えになられていることのすべてがこの地でなっていくように。神がご計画されていること、それぞれ個人の人生の中にあるはずです。それを祈りつつ求めていくことは極めて重要です。

 個人的な次元と同時に大事なのは、大きな次元の話です。神様は世界に対してどのようなご計画をお持ちであるのか、それを知りたいと思います。その計画が記されているのがローマの信徒への手紙11章25節以下です。これも極めて重大なことなので記憶する必要があります。ローマ11章25節以下。

 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。

 秘められた計画というのは奥義と言われて、これは信じるものにしか理解できないし、それゆえ知らされないものなのです。この箇所も本気で信じている人でないと読み飛ばしてしまう箇所かと思います。

 すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。

 異邦人が救いに達し、その後、全イスラエルが救われる。不思議なことに、異邦人が救われることとイスラエルの民が救われることは相関関係にあるというのです。確かに、イエス様の十字架による贖いは、ユダヤ人たちの心が頑なにならなかったら、起こらなかったことでありましょう。また、パウロという主の器も自らの罪を知るに至り、その後命すべてを投げ出すようにして伝道していきますが、彼の働きがなければ今ここに聖書の前に私たちは座ることもなかったでしょう。ユダヤ人が頑なになったことによってキリストの救いが達成されて行った。そして異邦人に向かって伝道がなされた。

 現代のユダヤ人も頑ななようです。イスラエルが建国される1948年まで、ヨーロッパ各地のキリスト教国で迫害され、いじめられてきました。それゆえに、キリスト教になど決して目を向けない状況にあるようです。

 しかし、ユダヤ人でありながらメシア・キリストを信じる人が徐々に起こされつつあるというのも事実です。神の業が完全に成就したとき、全イスラエルが再びキリストの前に跪く、その兆しが見え始めています。イスラエルという失われた国が回復するというこの奇跡は20世紀最大の奇跡です。ここから兆しが見え始めている。

 でありますから、なおさら、異邦人の救いが満ち満ちて達成されるその日が迫っているのであれば、私たちの愛する同胞に、このキリストを力を知っていただいて、信仰に歩む人を集めなければと思います。

 祝福を受けることができるということ、神に愛されていること、これはアブラハムの時から変わりません。アブラハムに約束された言葉というのは創世記12章3節です。

 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。

 ユダヤの人々がアブラハムの言葉を受け継ぐ主体であります。しかし、私たち異邦人クリスチャンもこの祝福にともにあずかるのです。使徒パウロが、接ぎ木という表現で、異邦人クリスチャンが祝福にあずかるのだという説明を先程のローマの信徒への手紙11章でしております。アブラハムの祝福に異邦人であったとしても信仰によって接ぎ木されます。

 祈りという刀一本で勝負できる。と心の底から思えて、祈りにかけて日々の生活を雄々しく歩んでいくことができる。心の中には、常に主の祈りがあり、父である御方に「お父さん」と言って魂の癒やしを即座にうけることができる。

 主の栄光、光を心に宿し、その御業に心から敬服し、讃美をあらわしていく。

 昨日、夜空を見上げてこのすべてを主がと思いながら、跪く思いで寒空を見上げ心満たされました。すぐそこに心が求めているものがあるのです。それはそこに主を認めるということから起こってきます。これをお造りになられた御方が私を守ってくださるのだと。だから、何も心配する必要がない。神の支配が、神の国が。神の御心がこの地で。

 神の不思議なご計画、異邦人を救うためにユダヤ人が頑なにされ、その頑なさの中で、十字架刑による救いが達成され。異邦人に福音が広がり、しかし、イスラエルが1948年に再建されてユダヤ人が決して受け入れなかったイエスをメシアとして受け入れはじめている。この時代の中で、私たちの愛する同胞に向かって主の祝福を手渡す歩みをなす。

 アブラハムという小さな1人の男に手渡されたこの信仰、祝福がもうこれほどまで多くのイスラエル人をユダヤ人を生み出し、さらにはそれがクリスチャンとなって異邦人の中にもアブラハムの信仰が。祝福が。驚くべき業が私たちを通してなされる。アーメン。