マタイによる福音書6章12節 「罪の赦し」

祈りの恩恵

 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイによる福音書6章6節)

 祈りの時間、祈りの部屋を持ちますと、その歩みに神の力が流れ込んでまいります。あなたの父が報いてくださると言われているように。報いがあります。確実に神からの返答をいただけます。しかし、祈りを疎外するものがある。それは他者への視線。祈ることによって敬虔を人にアピールしているときは全く祈りは聞かれない。全能者に全き信頼をよせる祈りをしないといけない。だから、奥まった自分の部屋に入れとイエス様はおすすめをなされているわけです。隠れた所、真実に人が素になって1人になれる所、そこで本音を神にぶつけていくのだと。必ずしも部屋である必要はありません。どんな場所でも人目を気にせずに祈りに集中できるのであれば、そこは主と向き合った密室になります。

必死さと、エムナー、信頼

 祈りにおいて大事なのは必死さと信頼、信仰です。

 祈りのモデルとして1人の人をご紹介したいと思います。その人は、モーセです。モーセは出エジプトのリーダーでした。ユダヤ人にとっては解放者といえばこの人。ユダヤアイデンティティそのものという人です。このモーセが祈った姿をご紹介させていただきたい。旧約聖書の出エジプト記17章8節以下の記事です。アマレクという民族との戦いについての記述があるのですが。ここにモーセの祈りのモデルがあります。

 モーセはヨシュアに言いました。

「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」

 モーセ自身は指揮もしないで(ヨシュアという指揮官はもちろんいました)、戦わないで祈り続けるというのです。これは、現代人の感覚から言うと「大丈夫なのか?」と言いたくなるような戦術ではないでしょうか。

 モーセは祈りにすべてをかけ、命をかけて戦う。ヨシュアたち軍隊は、戦いに命をかけて戦う。未来が、命がかかっているそういう祈りをモーセは日々重ねてきたのです。エジプトの荒れ野というのは一歩先に死が待ち受けているカラカラの乾いた大地です。マナによって、朝露と一緒にうすーいウエハースのようなものが地表を多い、それを集めて食べ物にしていました。奇跡によって神に支えられなければ生きてはいけない場所です。

 そこで日々祈りを重ねていましたので、戦いにおける祈りにももちろん実際的な力がそこにあり、神の力が働かれて勝利するという確信のもと祈りをささげ続けたのです。出エジプト記17章11節を見ますと。

 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。

 と記されています。手を上げているというのは祈りのスタイルです。両手を上げて祈る。手が下がるというのは、祈り続けていることが難しくなったという意味です。従者が石をもってきてモーセがその上に座って祈りやすいようにして、両側は人の手で支えて手がおちないようにしたと言います。そして、今日はこの次の言葉に注目をしていただきたいのですが。17章12節。

 アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上がられていた。

 しっかりと上げられていた。という日本語への翻訳、これはヘブライ語原典に帰りますと、「エムナー」という言葉が使われています。このエムナーという言葉は「信仰」とも訳せます。また、「真実」とかも訳せます。それからここにあるように「上げる」とも訳せるのです。

 信仰ということの深い含蓄がここにあると思います。信仰とはただ単に神の存在を認めているとかいうことではなくて、実際に神に全託して、全信頼をおいて、命さえそこにかけてしまうことであるということがわかると思います。ここで出エジプトの民は負けてしまえば殲滅されてしまうかもしれないんです。死ぬか生きるかの究極の戦いです。そこで、神に全託してしまう。心折れて、手が下がりそうになっても従わせていく。

 実際、祈りによって戦いの勝敗がついたという戦況でした。手が下がると負けそうになり、手があがると勝つのです。祈りが要。祈りという刀一本で勝負。それがモーセです。

順番が逆になっている

 祈りには戦いを勝たしめる力さえあります。これ以上に力あることはあるでしょうか。これが聖書の教えなのです。信仰者にとって順番というのは極めて重要なことだと何度も申し上げてきました。上から下へ、天から地へ、神の国の祝福が地上の民へ。祈りが大事であってそれ以外は次のことです。

 しかし、普段この順番が逆になってしまっている。これが私たちへの勝利を疎外する原因です。順番なんて大したことないとおっしゃられるかもしれませんが。しかし、この順番がわからなくなると、人生すべてに影響が出てきます。 

 主イエスはおっしゃられました。

 まず何よりも神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えてあたえられる。(マタイによる福音書6章33節)

 しかし、まず何よりも、必要なものを獲得できるように働こう、私たちが動いて努力するのが先であって、神の国と神の義はその後である。そんな考えになっていくと、地上から天へという流れを自分の人生の中に作り出そうとしていることになりますので。無理がありますし、こういう努力は実らないばかりか、神を信じる思いさえ削ぎかねない。

 信じる思いが削がれ始めると、さらに減少、減少、の道を辿ります。イエス様がおっしゃられたとおりになります。

言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。(ルカによる福音書19章26節)

 

根強くこびりついている罪

 地上から天へという順番の逆転、人間が努力してことを成すのだという順番の逆転は、もう人生の中にこびりついてしまっていて、何度取り去っても何度も出て来てしまうということが起こります。信仰が与えられて年月が経つといつの間にか、地上から天へという発想になり、そうなると何もうまくいきませんので、不平不満がつのるという悪循環を生み出していく。地上のものに手足が縛られて、上に向かっていく思いがいつしか消えてしまい、地上の鎖にがんじがらめになっている自分を発見することがあります。天を思う感謝と讃美がどこかに消えてしまい、その人から晴れ晴れとして青空のような心が失われてしまう。

罪とは

 天と私たちとのつながりを疎外してしまうもの。それは罪です。この罪というのは一体なんなのか、はっきりとさせておきたいと思います。

 ギリシャ語ですとハマルティアという言葉ですが。旧約のヘブライ語にかえって行きますと、大きく3つの言葉が使われていることを知ることができます。ハッタート、アウォン、ペシャという言葉です。

 ハッタートというのは「的外れ」という意味があります。また、これは神と人との間でかわされた約束が反故にされた状態だとか、神から示されたことに反したという事実をあらわす言葉です。

 アウォンというのは、例えば、王の前に家臣がいて、その王に対する反逆を企んでいるような状態で王の前には立てない。神の言葉が与えられているのに、その神の言葉を無視してしまっている。そういう罪。神の意向を意識してか意識せざるかとにかく無視している状態で神の前に立てないということを指します。

 ペシャというのは、背き、冒涜、意図的に神を踏みにじることを指します。

 神の前で何千年も生きてきた民の言葉、ヘブライ語の中には、神の前における人間態度、その言葉の使い分けというのがたくさんあります。そして、人間の状態というものをハッキリと言い表し、私たちに自分自身の姿を真正面からみることを得させてくれます。

 アウォンという言葉、王がいらっしゃるのに、その方の顔を拝することもせずに、自分であくせくして、何も相談もしないで、祈りもしないで、それで神の民と言い張っている自分自身の姿。王の前に本当はいてはいけない。

 これが、我々の本当の姿ではないでしょうか。

 神の国と神の義をまず、と言われていても、もうほぼオートマチックに、この世のものを求めて、それを得るためのこの世の自分なりの戦いをはじめているのです。信じているようでいて、本当は信じてはいない。命をかけて祈らない。自分の命運がこの祈りにかかっているとは思わない。祈りの手が下がってきてもなんにも思わない。信頼が全託ではなく、ほんの一部分のより頼みでしかなく、エムナーという、人生をかけてしまうような信仰になっていない。そういう罪人である自分の姿が浮き彫りになってくれば。

 他者を赦さないという選択肢は全く無いということに気づきます。

自然と赦す 

 本日朗読された。6章12節の言葉は、神の国と神の力を体験する祈りの世界に自分を投じた人にとっては、必ず到達する地点と言ってよろしいでしょう。他者を赦すという意思に最終的に到達せざるを得ないのです。神が徹底的に赦すために御子の血を流された。犠牲の子羊が私のために屠られたと知るのならば。

 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。(マタイによる福音書6章15節)

否定媒介的救い

 主イエスの言葉、聖書の言葉というのはつぶさに見ていくと、なんと私はこの神の言葉の基準に合わないものかと思わざるを得ません。自分を裁く書籍だなとさえ思えてきます。主イエスの言葉も非常に鋭く、読めば読むほどに徹底的にこれに反してきた自分を見るのです。アウォンという言葉を学びました。王の前にいるのに、王の言葉をぜんぜん聞いていないし、守ろうともしていない。そういう自分を気付いてしまうと、主を愛したいと願っていたほど大きなショックを受けるのです。しかし、ショックが大きければ大きいほどにその人の心には変革がもたらされ、聖霊が注がれます。

 否定媒介的救いという言葉があります。裁きを通して救うという特に旧約聖書に多く記されている内容です。とはいえ、新約聖書も、わたしは特に裁きとしか思えないことが多々あります。本日の主の祈りだってそうなのです。私はこの祈りをもう16年も祈ってきているのです。しかし、実際に行っていたことはどうでしょうか。無い頭を絞ってなんとか自分の人生を取り繕うとか、なんとか、地上のことで物事はどうにかならないかとか。そんなことばかりだった気がしてなりません。

 しかし、そういう自分自身に気づいたその地点こそが、救いへの扉が開かれるゲートであります。

 使徒たちは自分自身の至らなさと徹底的に向き合う中で、天に向かい心の扉が次々と開かれていったことを経験しています。使徒言行録の使徒たちの姿は、まさに全託(すべてをゆだねる)の姿です。

 しかし、福音書ではどうでしょうか。言葉では信じると言っていながら、実際には信頼していない姿がそこかしこに。これは私たちの姿ではないかとさえ思えてくる。しかし、彼らがその自分の至らなさと向き合って、キリストの死に直面して、涙して跪いていったとき。彼らの人生は聖霊の力に満ち満ちたもの、神の力に満ち満ちたものに変えられたのです。

 主の祈りと真剣に向き合いましょう。まず神の国と神の義とを求めているか。そうではない自分ではなかったか。そこにしっかりと向き合うと、心に神からの裁きがくだされ、非常に辛い思いに至るかもしれませんが、その時こそチャンス。まさに、主の祈りを地で行く、信仰の猛者となるのです。あのモーセのように。この通り生きれないということと向き合うと大きなステップを前に踏むことができます。祈りの実際の力を経験したら、主への讃美で人生が溢れます。感謝で溢れます。聖霊の力を共に経験する一週間といたしましょう。アーメン。