マタイによる福音書 6章13節 「試み」

旧約と新約の「誘惑」「試練」

 新約聖書の中では、試練と誘惑という言葉は一緒です。ギリシャ語でペイラスモスという言葉が使われています。これは度々「悪」とセットで語られます。いわゆる悪魔とか、サタンというものと一緒にです。イエス様がマタイ福音書4章で悪魔から誘惑を受けたという記事がそれを示しています。ですから、新約聖書で誘惑といった場合には、悪いものからの誘惑ということにウエイトがおかれます。

 しかし、旧約聖書においては、神様が人を信仰の試練に遭わせるという形で、試練という言葉が使われます。ヘブライ語でニッサヨンという言葉です。新約ではペイラスモスという言葉であり、誘惑も試練も区別が曖昧です。

 というのも、イエス様は人間の心の内に巣食う悪いもの、霊的なもの。そういった敵に対する意識というのが非常に強くお有りであられました。だから、その弟子たちもイエス様の心を受け継いで、心の内側に迫ってきて、信仰を蝕み(むしばみ)、神との間を割く力に対して非常に警戒しているということがわかるのです。

 イエス様がマタイによる福音書4章で対峙している相手というのは、サタンですが、サタンが一体どう誘惑してくるのかがこの箇所を読むと分かってきます。目に見える食べ物とか、力とか、繁栄とかそういったものを見せまして、これらのものをとれ、そして神を捨てろと迫ってくるわけです。目に見えない神ではなくて、目に見えるこの世のものを与えてくるわけです。それが誘惑でありました。それにキッパリとNOと言って勝利するのがイエス様であられます。

 何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えてあたえられる。(マタイによる福音書6章33節)

 をそのまま実行されておられるのがイエス様です。神の支配を信じ、神との関係のみを最重要視しておられたのです。ですから、必要なものはすべて与えられました。しかし、人はイエス様のように雄々しく勝利することができないことが多い。だからこそ、その弱さがわかっているからこそ、試みに遭わせないように、そこから遠ざかることができるようにという本日朗読されました祈りを祈りなさいとおっしゃられるわけです。

悪いものの誘惑とはどんなものか

 地獄の業火のような燃え盛る炎である罪に対して、人が勝利をおさめるということは至難の業です。神の守りの内でなければできないものです。まず、大切なのはその炎に焼かれて罪と一体化してしまうのではなくて遠ざかるというあり方が大事なのです。だから、悪いものが罪へ誘惑するそういう出来事が起こらないようにとまず祈るのです。自らの弱さを自覚するものの祈りです。

 火事の現場にいて、まず大事なのはその火事に自分が巻き込まれないことです。避難が第一。命が第一です。それから本当に力あるものに助けを求める。消防車を呼んでプロに対処してもらわないとどうにもならないものです。罪は火事に似ていると思います。

 火事の中に入って自分も一緒に楽しんでしまいましょう。大丈夫決して命を失うことはないから。サタンというのはそういうことを人に突きつけてくるのです。そして神に反することも当たり前のように行わせ、人を神から離していきます。

 火事のようにわかりやすければ良いのですが、おそろしいことに、人が自分で気づくことができないように知らぬ近づく、それが誘惑です。

 ただ、先程イエス様を誘惑したサタンがどんな手法で誘惑してきたのかということをもって、火事というのがどうやって忍び込んでくるのか、罪がどう忍び込んでくるのかということが分かります。

 先程みたのは、見えるものによって誘惑してくるというものでした。食べ物とか、権力とか、繁栄とか。そういったものです。見える次元で人間に近寄り、いつのまにか見えない次元である信仰の領域に侵食し、そこを犯すのです。

 新約聖書では霊と肉という便利な表現で、見える次元と見えない次元を言い表します。天のことがらと、地上の事柄を言い表します。また、人間の神に向かう性質と、地上のことを求める性質のことを霊と肉とも言い表します。地上のものをもとめ、地上のもので満足し、ひいては神を忘れる、神を拒絶する。これが悪い者の手法であるのだということが、もう既に分かっておるのです。

 これをさらに具体的にわかりやすく解説してくれているのが、ガラテヤの信徒への手紙5章16節以下です。

 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立しあっているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 地上の欲望を満足させるもの、そしてそれを追い求めていると神を忘れるもの。肉の望むもの。そのリストがここにあげられております。確かに、これらは心を縛り付けます。神に対する思いを凍りつかせるというかダメにしてしまうことしばしばです。そもそも王である主の前にいれば、こういうことはできません。

 先日、アウォンというヘブライ語の言葉があって、これは王の前にいるのに、王が考えていることと全く別のことを考えることであるという説明をさせていただきました。神の国と神の義とを求めて、主の前におるのだ。王の前にいるのだ。という強い意識があれば決して犯すことの無いことなのです。ここに書かれている肉の行為のリストは。

 はじめはちょっとだけ、この瞬間だけ、まぁ、神様にはどこかにいってもらって、そしてこの欲望を楽しもうなんて思っているのですが。それらはやがて、心の隅々まで行き渡って、ひいては全知全能の父なる神への信頼、主イエスへの信頼を失い。恐れにとらわれて力を失う結果を招くのです。そして、たしかにこの人のところには神の国などない。神の支配などないなと、また神様との関係、神がそばにいてくださるなどということもないなというような状態に至ってしまうわけです。

 注意していただきたいとのは、肉の欲望は全部ダメ、というわけではないということです。欲を通して神の業が実現することも確かなのです。例えば人間はその日に必要な糧を頂いて、すなわち食欲を満たして、そして働く。また性的なことがらも、男女の交わりを通して神の祝福である子どもが与えられていく。

 肉的な要素を通しても、人の欲を通しても神が働かれるのです。何が行けないのかというと、先程いった王の前に自分がいる。まず神の国と神の義を求めているか。神の支配がここにあり、神との正しい関係がここにあるか。神にこれは許されうることなのだろうか。神が喜んでくださることか。神のお許しを確信しているのならば、堂々と欲を満たして構わない。食べるものを食べて、得るものを得ていったら良いのです。しかし、そこに神がいないとそれらは罪への戸口を開くことになる。やがて神と離れて、それ自体に縛られて、鎖ができあがり、心が縛られ、力を奪われ、神の国の住人として生きられなくなります。

キリストの時代を生きるものの試練の乗り越え方

 私たちキリストの時代を生きるものは、幸い、誘惑におちいり、ふけり、神を忘れ、力を失うというあり方から逃れることができます。その方法は至ってシンプルです。

 霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立しあっているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 というガラテヤ書で読んだ言葉そのものをしっかりと守れば良いのです。霊の導きに従って、聖霊の中に浸って、まず神の国と神の義とをもとめつづける。心も生活も神の支配に委ねる、神との正しい関係をキリストによって結び続ける。キリストの十字架の故にそれが可能です。まず、神の国と神の義をもとめさえすれば良いという世界。自分の努力や自分の功績。そういったものに一切頼る必要のないキリストの時代に生きている。我々に必要なのは積極的に委ねきるということでしょう。積極的な受動。受けるということを求め続けて、実際に受ける。霊の満たしを受けて、こころ満たされて、罪を犯すことをやめる。神との関係に導くもので自分の生活を満たしていくのです。すると、肉の欲望に打ち勝つ生活を自然と送ることができるようになります。

試練、危機を通じて成長させる

 しかし、人間にとって、危機ということが極めて重大な転機となるということは事実ですし、神様はこの危機をお用いになられます。信仰の成長が与えられている人は危機を経験している。乗り越えることをもって成長するのです。

 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるように、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリントの信徒への手紙一10章13節)

 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。(ペトロの手紙第一1章7節)

 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。(ヤコブの手紙1章12節)

 永遠の命の冠。キリストの弟子として、キリストの命を宿すもの。キリストがなされたことと同じことをこの世においてもなすものとされる。使徒たちの姿。使徒たちは徹底的に誘惑に負け、キリストを否むが、しかし、それを通じて彼らは命の冠をいただきました。復活の命に生き、復活の命の証をしていきました。

試練を通じて気づくべきこと

 試練を通じて気付かなければならないのは、自分が肉の影響、悪の影響、サタンの影響。すなわち、神の国と神の義とをまずもとめるではなくて、目に見えるものばかりもとめて力を失っている現状を認める、というところなのです。徹底的に負けてしまっているという現状です。負けているという前提があるからこそ、誘惑にあわせないでくださいという謙虚な祈りが出てくるのです。どうしても勝てていない。目に見えることを最優先して、目に見えない神をどこかにおいてきてしまっている。だから、新約の使徒たちのような力強い歩みができないんだと認識することです。

 信仰のみ、聖書のみ。で歩めていないのです。信じるものは山をも動かすということを信じていないのです。全能の神を信じていないのです。

 主の祈りをどう祈るのかということは、私たちの明暗を分けます。これを心の底から祈り、この通りに生きるのか。神の国と神の義を二の次にして、誘惑にも負けまくって、肉の子として、天を知らずに生きるのか。主の御前に跪くものにはどう生きるべきかわかると思います。分かったならば、分かっているだけじゃなくて、実行してこの世にしっかりとインパクトを与えましょう。アーメン。