ヨハネの黙示録4章11節 「アーメン」

 レント(受難節)が近づいてきました。今週の水曜を灰の水曜日と言いまして、この日から主イエスの生涯を振り返りつつ、イースターに向かって歩んで参ります。この期間をレント(受難節)と呼ぶのは、キリストの十字架と死を覚えて、その御苦しみにあずかるために、断食をしたことに由来しております。

 主イエスの公の生涯のはじまりは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられて、聖霊が鳩のように下り、聖霊に導かれて、荒れ野に行かれ40日の断食をなさったところからです。特に、この荒れ野で悪魔から誘惑を受けたという記事が特徴的です。この公の生涯にならって、私たちも同じように欲望を制限して、何かをささげて、節制をしてこの期間を過ごします。そのためのレント、受難節です。

 特に嗜好品を制限したり、実際に断食をする人もいるでしょう。とにかく主の苦しみを覚えるために、何かを自分に課すと良いと思います。

 ひとに気付かれないように節制をして、主を覚えてください。

 なぜなら、こういう御言葉があるからです。マタイによる福音書6章16節以下。

 断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔をあらいなさい。それは、断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていてくだくためである。そうすれば、隠れたことをみておられるあなたの父が報いてくださる。

 この水曜日、午後7時、共につどい、このときから節制、禁欲をしつつイースターを共に目指したいと思います。

 さて、本日ご一緒に聖書から読むべき内容は。主の祈りの最後の部分です。

 国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 これは礼拝で祈っている主の祈りですが。今まで読んできました、マタイ福音書の6章の主イエスのお言葉の中にはありません。これは教会が後に付け加えて、主の祈りとして共に祈るようにしたものです。そして、それは主の祈りとしてまことにふさわしいものであると、皆が受け入れながら長い間祈られてきました。なぜ、この「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン」が付け加えられるにふさわしいのかといえば、その理由としてあげられるのが。ヨハネ黙示録4章です。ここに描かれている天上の礼拝の様子。これがもとになっています。4章11節。

 主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。

 頌栄とか、ドクソロジーとか言われます。平たく言いますと「栄光の歌」という意味です。ドクサ「栄光」というギリシャ語と、ロゴス「言葉」というギリシャ語が一つになった言葉です。オーソドックスという言葉は馴染みがあると思いますが、あの言葉はオルソー「正しい」ドクサ「栄光」を神にお返しする。神様を正しくあがめる。そういった意味がオーソドックスのもとの意味です。

 主の祈りというのは、本物の信仰というものはこういうものだとイエス様がわかりやすく教えてくださったものであります。だから、教会が目指すべきその道程そのものが示されているといえます。これだけを目指し、ここから外れているのならば、自分自身を正しい方向にむけなければというそういう内容です。

 そして、最後の最後で、教会が信じるものかくあるべしと代々の教会が受け入れ目指してきたことが、「国と力と栄とは汝のものなればなり。アーメン。」であるわけです。結論です。行き着くべき場所です。行くべき場所はドクソロジー。頌栄。栄光の歌。神に栄光を帰すということが結論なのです。

 ヨハネ黙示録が描く天上の礼拝というのはどういうものでしょうか。パトモス島に幽閉されていたヨハネが、神の霊に導かれて幻を見ます。ヨハネが霊的に天に昇る経験を神の力によってさせていただいたのです。天上の礼拝を目の当たりにします。ヨハネ黙示録4章2節。

 すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。

 碧玉や赤めのうってなんだろうと思う時、聖書を調べてみますと、今はスマホのアプリでも検索できますので、調べてみますと、旧約聖書の中に、大祭司が胸につける12の石というものがあります。その最初の石が赤めのうであり、最後が碧玉であると書かれています。

 ですから、旧約の大祭司が得ていた権威というのは神の権威であって、神様そのものは、ヨハネに言わせると碧玉や赤めのうのようなお方であったのだというのです。しかし、これはヨハネがこの世のもので例えてなんとか読む人が理解できるようにと思って書いたものでありますので、神さまがどういうお方なのか、これを聞いても実は、はっきりしてきませんし、はっきりさせる必要もありません。神は私たちの心の許容量、理解力を超えておられます。玉座はエメラルドの虹で囲まれていたと記されています。そして、その周りに、24の座があって、24人の長老が座っていたと記されています。

 この24という数字はダビデが祭司であるレビ人を24の組に分けたという記事(歴代誌上24章3〜5節)がもとになっていることと思われます。祭司を象徴する言葉でありましょう。契約の民を祭司の王国、宝の民とするというのがシナイ山の契約でありました。これは出エジプト記19章に記されていることです。

 また、私たちプロテスタント教会のリーダーともいうべきマルティン・ルターが万人祭司ということをはっきりと打ち出し、信じるものこそが祭司であることを明確にしました。それは確かに聖書的なことでありまして。信じるものは神と人とを結びつける祭司です。実際に今もそのような役割を私たちは担っているのを強く感じます。

 ですからこの24という数字は祭司の国のことを表していて。これはまさに、キリストによって贖われた万人祭司たる教会のことをさしていると言えるのです。だから、これは24人の長老というのは、まことの教会の長老たちのことを指すと理解できます。この長老は頭に金の冠をかぶっていたと記されています。

 この冠というのはステファノスという言葉が使われていまして(あの有名なステファノという名前も冠がもとでありましょう)、これは勝利を得たものがかぶることができる冠です。この言葉から、神の裁きを受けて、神からお褒めにあずかり、報いを受け取った長老たちと考えられます。

 コリントの信徒への手紙第二 5章10節にこのような言葉があります。

 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 と記されています。信じる信じない、義とされるされない。という次元の話ではなく、すでにキリストの血によって義とされた人々の中で、特に勝利の冠を受けた長老、神の裁きによって神にお褒めを受け取ることが許された長老がそこに座っていたということでしょう。長老というのは教会のリーダーのことを長老と新約聖書では呼びます。

 神様の周りに長老がいて、金の冠を神様からいただいていた。その人たちが、4章10節。

 二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。

 とつづいて頌栄、ドクソロジー、栄光の歌が歌われていくわけです。

 神から頂いた長老にとっては最も大切なもの、金の冠を神の前に投げ出してしまう。神への最大限の敬意と敬服、服従を表しての行為です。神を讃えることの前にすべてを投げ出してしまって、神の前に跪いて、神を讃える歌を一新に歌い続けるのです。しかもそれは、昼も夜も絶え間なくささげ続けられていきました。

 頌栄の祈りを日々の祈りの中心にしている人というのはどれくらいいるのでしょうか。キリスト者として歩んできても、自分の願いばかりが祈りであるという人も多いのではないでしょうか。しかし、そういう祈りは、第一の祈りではないと先週まで何回も学んできました。第一は、「なによりもまず神の国と神の義とを求めなさい」でありました。神の国の「国」とはバシレイアです。支配という意味です。神があなたを支配してくださっている。心の中に神を迎え入れる。神の支配を求めて祈る。これが大事。さらに神の義(ディカイオスネー)というのは、神と人との正しい関係。また言い換えると、神がこう願っておられるということに従うということでもあります。

 頌栄の祈りを具体的に日々の祈りの中で祈っていく方法は、自分の言葉をまず捨てるということだと私は思います。24の長老たちが大事なものを神の前に投げ出してしまうように。自分の言葉をすてて、本日読みました4章11節の言葉だけをひたすら思い続け、あとは黙ってしまっても良いと思います。また、神の名を心に思い続けてただただそこに留まるということも良いでしょう。

 そして、密室において実際に跪いて頭を地に押し付けて祈っていただいても良いと思います。とにかく栄光を神に帰していくのです。こういう祈りをしている人のところには必ず神の業、神の奇跡、神の憐れみ、神の愛、神の祝福が流れこむに違いありません。

 そして、最後に「アーメン」についてですが。これはハイデルベルク信仰問答の中の解説が最も適切でありますので、読みたいと思います。

 「アーメンというのは、これは、真実であり、確かであるにちがいない、ということであります。なぜなら、わたしの祈りは、自分の心の中に、自分が、このようなことを、神に求めている、と感ずるよりも、はるかに確かに神によって、聞かれているからであります。」

 祈りの価値を生み出すのは、神に向かっているということです。確実に神が聞いてくださっているという確信です。自分の祈りがどんなに稚拙なものであったとしても、すべてが知られている。知られていることを信じ、全能の御手に自分自身をも委ねてしまって、神こそが真実で確かであるに違いないと信じて。アーメンと祈るのです。

 神の名は「わたしはある」というお方。ヘブライ語でヤハウェです。私の存在よりも確かにおられる方が、たしかにすべてをそのお力によって叶えてくださることを信じ切ってしまって、アーメンと言うのです。

 アーメンとはもともとは念を押して「これは確かだから」と自分自身を保証すると言いましょうか。イエス様が「はっきり言っておく」と新約聖書で言われる時に、アーメン、アーメン、まことにあなたがたに言いますという直訳ができるのですが。日本語の聖書は「はっきり言っておく」になっています。

 自分が見ている小さなことから解き放たれて、神の確かさに心を向けて行く。上へ上へ視点を変えて行く。モーセが手をあげて祈っている姿が信仰なのだと、申し上げましたが。それで信仰が少し分かったと言ってくださった方がおられました。手を上げているというところに、エムナーというヘブライ語が使われていて旧約では信仰という意味もあり、また「手を上げている」という意味もあるとお伝えしました。信仰とは上へ上へです。

 一昨日の坂井姉妹の前夜式の中で121編が朗読されました。

 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

 わたしの助けはどこから来るのか。

 わたしの助けは来る

 天地を造られた主のもとから。

 小さな目の前のことばかりを見ていた自分を解き放って、主の御前に自分の一番大切なものさえ投げ出してしまって、主を讃えることに専心したい。その喜びの驚くべき世界に入っていきたい。主を讃美するという甘美な喜びの中に、自分を投入して、神の業を期待する日々を歩んでまいりたいと思います。アーメン。