マルコによる福音書 14章22〜26節 「聖餐式」

 灰の水曜日から受難節の日々を歩みはじめました。キリストの十字架への歩みに寄り添う旅路。こちらから寄り添っていけば、主はこちらに向かって働きかけをしてくださいます。灰の水曜日に集っていただいた方には、受難節特に3つ何か目標を定めてくださればと申し上げました。すでに実行をされておられる方もおられると思いますが。主イエスのために何かを捧げれば、その一つの行為を通じて神の働きが起こっていくということを体験するはずです。

 克己節制の実りを何かささげていただければと思います。日を決めて断食するということも良いでしょう。毎日聖書日課で決められているところを読んでください。それに加えて数章、新約、旧約を読んでください。嗜好品を断つことを志してみてください。禁欲を何か主の前に行うのも良いでしょう。

 聖餐式が本日も行われます。これは極めて重要な聖礼典です。聖なる、分かたれた、この世には決して無い、神の食卓がここに準備されます。この食卓に預かるものは、キリストのものとされたことを喜び新しい契約に生きる。

 新しい契約とはエレミヤ書31章33節に記されていることです。

 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 この食卓に預かるものは、新しい契約に預かり、この食卓に座るものは、やがて来るキリストの新しい国に迎え入れられる。エレミヤ書に書かれていように、神がその人の心に言葉を授け、神が伴ってくださる。それは言い換えると、聖霊がその人の内に宿るようになるということです。

 この新しい契約を味わうのが聖餐式です。聖霊は小さくか細い声であることがほとんどですので、私たちが受け入れないと、その働きをなされない。聖餐式もこれを単なるルーティーンとしてしまっていたら、そこには何も働かない。しかし、この式を通じて、その背後の広がる聖書の世界を見て、キリストの思いに思い至るのであれば、その人はこの聖餐式を通じて新しい霊的な世界に足を踏み入れることになります。新しいものの見方が身についてくるでしょう。ここに神の業などないと考えていたところに、神の業を発見するようになるでしょう。

 聖餐式というのはキリストの食卓のことですが。キリストの食卓とは何かというと、最後の晩餐です。最後の晩餐は何かと言えば、ユダヤ教の過越の祭りの食事のことです。

 過越の祭りとは何かと言えば、それは出エジプトを祝う祭りです。

 神様が奇跡的な方法をもって、イスラエルを救い出してくださったということを覚えて祝う祭りです。あの奇跡の業は遠い昔に起こったことではあるけれども、この私たちにも起こりうる話なのであるとユダヤの人々は信じています。なぜなら、彼らの信じる神は唯一なる全能の神、ヤハウェなる神であるから。永遠から永遠まで変わらない。ならば、今も昔も神は奇跡を常に行われると信じるわけです。絶対的不利な状況からの脱出。それさえも神はやってのけられる。

 3400年以上前、奴隷だったイスラエルが、神の奇跡によってエジプトを脱出しました。エジプトの王ファラオの政治的、軍事的力からは逃れることはできません。そこで神は奇跡を用いてイスラエルをエジプトから脱出させます。

 脱出の前の晩。神の御使いがエジプト中の初子を殺しましたが、門に子羊の血を塗ったイスラエルの民の家は神の裁きが過越しました。(出エジプト記11章、12章)この救いの出来事を記念する祭りです。

 ハッガーダーという式文が用いられて、最年少の子どもが「なぜ今日の夜はいつもと違うの?」という質問がなされます。それに応えつつ4杯のワインが飲まれていきます。4杯のワインは、聖めの杯、裁きの杯、贖いの杯、讃美の杯という順番でワインの杯を飲んでいきます。

 一連の流れの中の、モーセが紅海を割ってエジプト軍からイスラエルをすくったというできごとを象徴する食事があります。パセリを塩水に浸して食べるという行為があります。その後に、パンを裂く、このパン裂きが本日読んでいるマルコ福音書14章の22節前後の話になります。

 過越の祭りは出エジプトを覚えますから、あの当時起こったことを食べ物を交えながら振り返っていきます。塩水がおかれます。塩水というのは葦の海の海水を意味します。そこにパセリを浸して食べます。マルコによる福音書14章20節に。

 十二人のうち一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している物がそれだ。

 という言葉がありますが、これが塩水にパセリを浸しているということを表しています。その後、マッツァーという種無しパンを食べますが。クラッカーみたいなものですが、これはエジプトを出る時、時間がなかったのでパンを発酵させることができなかったということをあらわします。

 この種無しパン(マッツァー)を裂くというところが最後の晩餐の最も大事なところです。このユダヤ教の習慣は非常に面白いものでありますので、ご一緒に見ていきたいと思います。

 パン裂きというのはアフィコーメンと言われます。このアフィコーメンという儀式に注目してしっかりと教えておられるのは以前テレビ伝道をされておられた、ハーベストタイムミニストリーズの中川健一先生です。その先生の説明を参考にさせていただいてアフィコーメンという非常に驚くべき儀式について見ていきたいと思います。このアフィコーメンという儀式の中にしっかりとキリストがすでに投影されていたということに気づきます。

 アフィコーメンとは何かというと、マッツァを裂く儀式なのですが、言葉の意味自体はデザートという意味です。食事が終わったあとに食べるものということです。このアフィコーメン(デザート)のために、3つの層に分かれた布袋が準備されます。その各層ごとに一枚ずつマッツァを入れます。3という数字が出てきたらピンとくる方も多いと思いますが。三位一体の神をこれは象徴しています。

 しかし、過越の祭りを行ってきたユダヤ人たちは、これが一体なんのことかほとんど分かっていないと思います。ユダヤの人は三位一体という概念もありませんから。

 そして、3つ袋にいれたマッツァの2つ目のマッツァを半分に割って、亜麻布にくるんで隠します。なんでこんなことをするのかというと、子どもたちにあとで探させてワクワクするような遊びの要素も入れているというふうに考えることもできますが。それにしても、なぜパンを隠すのでしょうか。

 さらに、亜麻布っていう言葉を聞いて「ピキっ」と反応される方もおられるかもしれませんが。

 3つの中の2つ目というとここにも反応される方もおられるのではないでしょうか。三位一体の神の第一の位格は父なる神、第二は子なるキリスト、第三は聖霊なる神です。その第二の子なるキリストを象徴する2枚めのマッツァ。そのマッツァを、二つに割って、片方を亜麻布にくるんで隠しておきます。

 マッツァが使われるということは、種無しパンが使われるということであり、種無しパンというのは、罪がそのパンに混ぜ込まれていないということを象徴します。発酵というのは腐敗の象徴であり、それは罪を表します。

 それから、マッツァには必ず焦げ目がついていなければなりません。茶色い焦げ目というのは傷の跡を象徴しています。メシアが受ける傷について記されているところを読んでおきましょう。

 イザヤ書53章5節。

 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。/彼が受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 それからマッツァは無数に穴があいています。これは焼いた時に穴を開けていないと、ある部分が空気をはらんで大きく膨らんでしまったりするものですから、うまく膨らまずに焼きあがるように穴が開けられるのですが。これも刺し貫かれたことを象徴しています。メシアが刺し貫かれるという預言は、ゼカリヤ書12章10節に記されています。

 わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。

 マッツァの形自体に込められた意味というのは、キリストが鞭打たれ傷だらけにされて、茨の冠、釘、槍によって突き刺される、すなわち十字架、十字架のキリストご自身を指し示すものです。

 そのキリストの体であるマッツァが最後の晩餐において割られた。その時イエス様がおっしゃられたのは、コリントの信徒への手紙第一11章23〜26節に記されていることです。パウロがイエス様の言葉を引用しています。聖餐式で毎回読み上げる箇所です。

 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 アフィコーメンのときに、ユダヤ人はあまり良く意味がわからずに二枚目のマッツァを割り、それを亜麻布にくるんで隠しておくという儀式が続けられてきました。それを子どもたちが後から見つけ、小さく割って皆で食べるというこの儀式は、キリストの体が引き裂かれ、亜麻布にくるまれて葬られ、隠され、しかしそれを神の国に入れられる子どものような信仰者が発見する。それらは、まさにキリストの死と復活を象徴していると受け止めることができます。

 イエス様がお誕生になられる以前から定められていたこの過越の祭りの食事は、イエス様が最後の晩餐をなさるためにこそあったものとも言える。イエス様の到来によってやっとその深い意味が理解できましたし、こうやって聖餐式として受け継がれるようになりました。すべて、時を超えて、天の父が備えてくださったものでありました。

 さらにいうならば、主イエスは過越の食事をするまえから、どのタイミングで最後の晩餐の場所が準備されるのか、ということさえも知っておられました。マルコによる福音書14章12節以下。

 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように行って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。

 この水がめを運んでいる男という非常に特徴的な、何故かと言うと水がめを運ぶのは女性の仕事でありました。この人と特定してイエス様は指定している。ということは、過越の食事がどこでなされるのか予め分かっておられました。さらに誰が裏切るかもわかっておられた。それはイスカリオテのユダなのですが。しかし、イエス様は本日の聖書箇所を見る限り、イスカリオテのユダを引っ立てて、吊し上げようとなど全く思っておられません。そうすればできたはずですし、ユダの裏切りを防げたかもしれない。しかし、イエス様は全く揺らぐことなく、過越の食事の最中にユダに言います。ユダはイエス様の隣に座っていました。マルコによる福音書14章20節。

 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸しているものがそれだ。

 ハッキリと名指しで言おうとしたら言えた、しかし、言わないのです。それとなくユダ本人が気付いて、この場でもう一度方向転換をして戻ってくることができるように、悔い改めの隙というか「タメ」を作っているそういう言葉です。罪を自分の口で主の前に告白することを待っておられるのです。そうすればその人は必ず救われるから。どんなことをしてしまっていても、それでも救われる。それが神の意思です。その証拠にイエス様はユダさえも悔い改めを待ってくださっている。

 神の前に悔い改めをして人生を開いていこうとすれば、その瞬間からそれが可能なのです。一人の人が悔い改めることができるように、キリストは前もって時をあわせてご準備くださっています。聖餐式が整えられているのも、洗礼式が整えられているのも、この悔い改めのチャンスを私たちにくださっているからにほかなりません。

 神を知らない時、すべてが偶然であるかのように生きてしまうものです。しかし、偶然など一つも無いということがマルコ福音書を読んでいて知ります。主イエスは、すべてを知っておられてその上で準備され、その上で静かにされておられ、すべてを知った上でユダの悔い改めさえも待っていてくださるのです。

 聖餐式の意味も、ユダヤ教の習慣も、そこに込められた聖なる意味も。それらもすべては子どもである我々が神の下に帰っていって。聖霊を受けて新しい契約を継ぐ民となるためです。

 心の内から神の霊を締め出して、神に入っていただかない領域たくさん作って、自分のしたいように生きようとおもって、まったくその通りにならない人生を歩み。神の力も体験できずにボロボロになって帰ってきたものをそれでも受け止めようとされる、その御方の思いを早く心に受け入れて、早くその命を、神の霊によって生かしていただいて。主に仕える歩みを始めることができればと思うものです。

 神の霊に満たされていくこの聖書の学びと、祈りの生活。徹底して続けて参りたいと思います。聖餐を守る時、徹底的に準備され導かれている、ここに来ることも導きであった。主の思いの内にないことはない。過越の祭りから聖餐。この流れさえすべて知っておられた主イエス。その御方が私たちがここに集まることを知った上で聖餐に招いておられるのです。主のご臨在を信じて、感じて祈ってください。アーメン。