マルコによる福音書 14章32〜42節 「ゲツセマネの祈り」

 救い主が、神の裁きを身代わりに私たちのために受けてくださった。この十字架を目指して受難節を歩みます。主の御苦しみに触れることは、同時に私たちの喜びへとつながります。私たちが絶対的に神に受け入れられているのだということを知るからです。新しい契約の中に、主イエスの血によって赦され、入れられます。

 新しい契約とは、旧約聖書の中で既に預言されていたことです。エレミヤ書31章31節以下です。三位一体の神。エレミヤ、サンイツ、サンイツと覚えてください。

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。

 主イエスのものとされた者たちには、聖霊が与えられて、神が何をお考えであるのかということがその心に示されてくるというのです。

 確かに、使徒たちは主の御心をはじめは理解できないものでありましたが、ペンテコステの日に聖霊が注がれると全く変わりました。聖霊が炎のような分かれた舌として、彼らに望むと彼らは聖霊に満たされて、新しい言葉を語りだしました。

 その後の教会の働きたるや目をみはるものがありました。それまでとは全く違った歩みを彼らははじめました。

 臆病者で卑怯者であったものたちが公衆の面前で、主を証しするようになったのです。

 祈祷会で士師記を読んでおりますが、イスラエルの民が度々罪を犯し続け、それが何度もリフレインされるように、罪、裁き、神の介入ということが繰り返されて、400年以上もかけてそれでも民はどうにもならずに、罪を犯し続けてきました。

 それも無理からぬことかもしれません。どうしても、神よりも目に見える次元の事、肉のこと、物質世界、虚栄心、肉欲、偶像。こういったものに縛られてどうにもならなかったのです。しかし、ついに、メシアが現れて、この現状を打破する力を注いでくださった。

 それが新しい契約であり、聖霊が注がれるということでありました。新しい契約が成就し聖霊が注がれる時代に私たちは生きています。

 もう一箇所旧約聖書を引用させていただきます。エゼキエル書36章25〜27節。

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

 生命の清水、神の水、聖霊。その霊が注がれ、満たされると、石の心が取り除けられる。固く硬直化して、どうにも動かない石の心です。それらが柔らかくなり、柔らかくなると動きが出て来て、動きが出てくると力にあふれてくるわけです。

 イエス様は復活された後言われました。使徒言行録1章8節。

 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 本日一緒に読んでおります箇所は、ゲツセマネの祈りと言われる箇所です。ゲツセマネという場所がどういう場所であったか。ゲツセマネというのは油しぼりの園という意味です。オリーブの油を絞る場所。オリーブ油というのは聖霊の象徴です。この場所を普段からイエス様は祈りの場とされていました。しかし、イエス様がなさることにはすべて事細かく意味がありましたので、あえてゲツセマネの園を常に選んで祈っておられたと考えるべきです。

 じゃあ、なぜゲツセマネの園を選んでいたのか。やがて主イエスは十字架にかけられるということをご存知でした。それはすなわち、メシアが潰されて殺されてしまうということを意味します。オリーブが潰されて、そこから流れ出してくる油によって、すなわち聖霊によって人々を潤すということを教えるために、ゲツセマネの園を選ばれたに違いありません。聖書に記されたことで主イエスに関することで何一つ偶然はありません。

 ゲツセマネの園にイエス様と弟子が向かったのは、午後10時〜11時ごろです。十字架を目前にして、命を注ぎだすようにして祈られました。ユダは裏切ろうと動いていましたので、この園に行ったのは11人の弟子たちです。8人は園の入り口で待っていて、残りの3人がイエス様にいっしょについていきました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネです。

 ルカの福音書の方を見ますと、イエス様は弟子たちに声をかけておられます。ルカ22章40節。

 「誘惑に陥らないように祈りなさい。」

 主イエスにとってゲツセマネから十字架へ、大きな試練の道のりであるとの同じように、弟子たちにとってもこのときは試練でありました。その試練の中で、特にイエス様が逮捕されてしまったときに、弟子たちが裏切りの行為に及ばないように祈りなさいとすすめているのです。

 弟子たちは結局裏切ってしまいます。というのは、祈りに献身し、祈りによってその心の内に聖霊の炎をいただくことができなかったからです。彼らは祈らないがゆえに、持つべきものを持っていないのです。試練を乗り越えるために必要なのは祈りであることは、今も昔も変わらない。祈りがいかに重要か。

 敗北に敗北を重ねる生活から逃れて、祈りに献身する必要があります。

 イエス様はひどくゲツセマネの園で苦しまれます。その苦しみについて見ていきたいと思います。マルコ福音書14章33節。

 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、

 「ひどく恐れて」という言葉に注目してください。これは原文に帰ると、恐れたというよりも、「とても驚いた」という言葉なのです。ということは、神が差し出されたものというのは、主イエスでも信じがたいものというか、驚きだったということなのです。さらに「もだえ始め」という言葉にも注目してもらいたいのですが、これは「重荷を感じる」という意味です。主イエスに重しを神が乗せられたということです。

 おもすぎて担えきれないほどの重荷であったので、主イエスはそれを驚かれたということなのです。イエス様が重すぎて驚かれることって一体どんなことでしょうか。イエス様の言葉の中に答えがあります。

 マルコ福音書14章36節。

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適う事が行われますように。」

 主イエスが避けたいこと、押しつぶされるほどの重荷に耐えかねていること、それは「杯」と呼ばれることなのです。では「杯」という重荷はどんな重荷なのでしょうか。

 イエス様を苦しめるもの、それは十字架なのですが、しかし十字架の死を主イエスはすでに受け止めておられました。受け止めておられることをあえてまた驚いて受け入れるなどということはありません。

 ですから、「杯」は、十字架のことではない。十字架はもう決められていました。では、一体なにを「杯」と呼んでおられるのでしょうか。 

 旧約聖書を引用させていただきます。詩編11編6節。

 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。

それから、イザヤ書51章17節。

 目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み/よろめかず大杯を飲み干した都よ。

 それから、エレミヤ書25章15節。

 それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。「わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、わたしが彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる。」

 良いことのときに使う杯は、祝福と喜びの杯です。そうでない場合、怒りと裁きの杯です。この怒りと裁きの杯を受けることを主は驚かれていたわけです。というのも、主イエスは肉においては死を迎えることを分かっておられたけれども、神の怒りを受けて、主なる神と分断されてしまうということは耐えられないものであったのです。

 霊的死というものです。神の前で死んでしまったものとなる。関係が絶たれてしまう。一瞬たりとて主にとってはそれが受け入れられないのです。それほど父と子と聖霊は結びついているからです。

 我々が罪人だなぁ、と深く実感せざるを得ないのは、この主イエスの父に対する思いを知った時でありましょう。私たちは神から離れた生活ばかりをしていて、逆に神がこちらの生活に入ってきたら、窮屈な気持ちにさえなってしまう。霊的に死んでいると言っていいでしょう。死んでいるほどにに、神と疎遠になっている。

 霊的に主と結びついているかどうかが何処かにいってしまって。肉の欲求を満たすことばかりを考えて、霊は別になんでもいい、肉を満たそう肉を満たそうとなっている。物質の奴隷、虚栄心の奴隷、肉欲の奴隷になってしまっている。

 霊から力が流れ込んでこないのに神の力がないのに。それにさえ気付いていません。

 主イエスは神と深く常に結びついておられたので、14章34節の言葉によれば。

 「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」

 とおっしゃられたのです。神との関係が途切れるということは、死ぬほど苦しいことであるのです。

 この私たち人間との差がとても大事です。これに気付くことが、悔い改めの道を開くことにつながります。イエス様がこれまで何度も私たちに教えてくださいました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる。」

 神の支配と、神との関係と説明させていただきました。

 神との霊的なつながり。これらをまず一番に求めれば、すべてが加えて与えられる。だから、あらゆる問題解決の根拠は主なる神と祈りによってつながっているということであったのです。しかし、それが途切れてしまったらもはや何もよるべなくなってしまう。何より、愛でつながっていますので、愛が一瞬でも途切れるということはおそろしいことです。信じられないことです。

 弟子たちは目が開かれていませんので、イエス様の御苦しみの重大さを理解しません。ペトロ、ヤコブ、ヨハネは3度、イエスさまが祈っているところで眠っていたということが記されています。夜の10時ぐらいで疲れ果てていたということもあるでしょう。昔の夜の10時って、今の丑三つ時ぐらいの感覚じゃないでしょうか。深夜でしょう。

 しかし、人は大切なことのためだったら起きているものです。ルカ福音書によると、目の前でイエス様が「血が滴るような汗を流しながら」って記されておりますので、それは苦しみつつ、戦っているということが一目瞭然なのですが。それでも弟子は寝てしまうんですね。

 そんな弟子たちに対してイエス様はお優しい言葉をおかけになられます。37節。

 「心は燃えても、肉体は弱い。」

 ペトロの心の中を主イエスは知っておられるんですね。心は燃えていると、だから叱責されることはありません。この一連の流れの中で叱責のような言葉が記されているように見えますが。ペトロの心を主イエスは受け入れておられるのです。でも、肉が弱いがゆえに夜の10時でしかも目が開かれていないので、主イエスの苦しみの重大さを理解できない。

 そして、41節。

 「もうこれでいい。」

 とおっしゃって、主イエスは立ち上がるのです。これは「ことは決した」とも訳せる言葉が使われています。

 杯を飲むという決意を固め、そして、徹底して主なる神に従順になって、どんな苦しみであったとしても、天の父なる神に従うという心を決められて、従順によって主イエスは救いの道を私たちのために勝ち取ってくださったのです。

 祈り、みこころを聞き、みこころに100%従順になって勝利する。この道を主イエスは私たちにお見せくださった。従順であるということが勝利の秘訣です。従順であるためには、私たちの力だけでは不可能です。聖霊を受けなければなりません。聖霊は祈り求めているもの所に降ります。

 最後にルカ福音書を引用して終わります。ルカ福音書11章9〜10節。

 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたくものには開かれる。・・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

 眠りこけていた使徒たちが、後に聖霊をうけ全世界に出ていくほどに押さえきれない力を得たように、私たちも人の力ではない神の力を得たいと思います。アーメン。