マルコによる福音書 14章43〜50節 「裏切られる痛み」

 目の前の状況が理解できないから、目の前に神を見ていないから罪を犯すのです。

 イエス様を捕まえようとしていた人たちは、イエス様が誰だか分かっていないから、目の前におられる方が誰なのか意識できていないから、神の子イエスを捕まえてもかまわない、違法な裁判にかけても構わない、処刑し殺しても構わないと思ったのです。旧約聖書に示された神、唯一絶対なる全知全能の父なる神と一体であるお方であるのだと、もし理解していたならば、逮捕などしなかったでしょう。

 しかし、目の前に神の独り子がいらっしゃる、などと理解できませんから、徹頭徹尾、罪を犯し続けるのです。

 ユダ、祭司長、律法学者、群衆。剣や棒をもって一緒にイエス様を捕まえるために来ました。剣や棒も持ってくる必要はありません。イエス様は一切抵抗なさらないのですから。ご自身で言っておられます。マルコ福音書14章48節以下。

 まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。

 愛そのものであるお方を前にして、武器などいりません。ただただ、民を愛し、教え導いておられたのです。ヨハネ福音書の並行記事を見ますと、ヨハネ福音書18章3節には。

 そこでユダは、一隊の兵士と、

 と書かれています。ギリシャ語まで読んで見ますと、兵士というのはスペイラと記されているのが分かります。これはローマの歩兵です。ローマ兵の一隊というのは、600人ぐらいではなかったかと言われています。

 600人の兵隊と、11人の弟子と、イエス・キリスト。全く話にならない力の差。こんなもの剣も鎧も一切の武器も必要ではありません。本当は兵隊さえもいらない。なぜなら、イエス様は捕まる気でここにおられたからです。ヨハネ福音書18章4節。

 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。

 ユダが率いてきた一群にむかって、わたしはここにいるぞと言わんばかりの言葉でのぞまれたわけです。状況を支配しておられるのは、実はユダ、律法学者、祭司長、長老、兵隊ではなくて、イエス・キリストの側なのです。そのことに皆気付いていません。だから、罪を犯すのです。イエスに支配されているのにもかかわらず、私が支配し、私が思い通りにできると思っている。

 ユダはイエス様に接吻をします。マタイ福音書14章44節。

 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。

 本来は接吻、口づけは、ユダヤ社会では、律法の先生に対して生徒が尊敬と信頼の情を込めてする行為なのです。まことに麗しい行為ですね。日本だとこういうことはしないと思います。しかし、ユダヤ社会では間違いなく美しい行為なのです。

 その美しい行為を裏切りのために用いてしまっている。

 全く逆。すべてが逆。神の支配が見えていない、物事の見えない部分を見えていない人がする行為です。それが罪を犯してしまうということです。目の前におられるのが神の子だとは思っていない。だから、1から10までとことん罪を犯していくのです。

 さらに言うと、裏切り者としてここに上げられているユダ、それからユダと一緒に来た祭司長、律法学者、長老。ユダヤ社会の権威です。彼らは確かに罪を犯しました。しかし、彼らだけが罪を犯したというのではなく、弟子たちも実は主イエスを理解せず罪を犯しているのです。

 ペトロが剣を持ち出してきて、ローマ兵の1人に切りかかって耳を切り落とします。これも全く状況も何も見えていない人がする行為です。先程から言っているように、状況を支配しておられるのは主イエスです。イエス様は無抵抗で捕まろうと決めておられるのです。それが神の御心です。しかし、それに真っ向から反対を申すようにして、ローマ兵に切りかかります。抵抗しても11人の弟子と、600人の兵隊です。

 抵抗は、全く意味が無い。抵抗するということは逆にイエス様の行動さえも邪魔するものです。だから、このペトロの行為は明らかに主の心を理解しない罪です。

 弟子も、敵も皆罪の中にありました。

 イエス様はこのゲツセマネでの逮捕の場面で、決定的なことをおっしゃられています。そのことをぜひとも皆様にはご理解いただきたいと思います。マルコ福音書にはその決定的な言葉というのは記されてはいませんが、ヨハネ福音書には記されています。ヨハネ福音書18章5節以下。

 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。・・・イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。

 わたしである、というイエス様の言葉。これは旧約聖書をよく読んでいる人にとっては、「あの言葉に似ているな」とあたりのつく特別な言葉です。「わたしである」。これを聞いた人はどんな行動をとりましたか。後ずさりして、地に倒れたのです。イエス様の言葉に腰を抜かすほどに驚いて倒れたというニュアンスがあります。

 どうして腰を抜かすほど驚いたのかというと、イエス様は、「わたしである」と言われたからです。

 「わたしである」は「わたしはある」という言葉と同じです。わたしはある。という言葉は、神様が御自分のことを表現された時におっしゃられた特別な言葉でした。出エジプト記3章14節。

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、

 とあります。「私はある」という言葉の変化が、ユダヤ、キリスト、イスラムの人々が信じている唯一なる神、ヤハウェというお名前です。何よりも確かに第一に存在しておられる、すべての根源であられるお方です。「わたしはある」です。イエス様は人としてお生まれになられながらも、その万物の根源である、唯一全能なる神。その神が私である。「わたしはある」とおっしゃられたから、度肝を抜かれて、皆が後ろにのけぞって倒れたわけです。

 この言葉を聞いて、なるほどと思って納得した人は、おそらくこの場ゲツセマネの園にはいません。自分のことを神と言っているバカな人間がいる。というような理解しかできなかったでしょう。

 聖書の言葉っていうのは、とても不思議です。明らかに、響かない時と響く時というのがあります。響かない時というのは、取り組む側の心が、神を見ようとしていない時です。

 聖書が神の言葉であり、この神の言葉に向き合う、聖なる言葉の前にひれ伏す。そういう態度ができていないと、何を聞いても響いてくることはない。聖書を読んでいても読んでいない状態です。

 ユダと、祭司長、律法学者、長老たちは目の前に神の言葉そのものであるイエス様を見ていても、神の言葉そのものを神の言葉として受け入れていません。結果、イエスさまを捨てました。現代人の私たちは、目の前にイエス様という真の真が現れればもっと自分はよく神様のことを理解できるのではないか。もっと本物が目の前にあったらよく理解できるのではないかと思ってしまいます。しかし、実際はどうですか。目の前にイエス様がいても、イエス様を神の子として、見る気のないものには見えない。聞く気の無いものには聞こえない。ということが現実であることがわかると思います。

 彼らの心にはイエス様の言葉は響いていません。彼らが聞く耳を持たないからです。神を信じていたはずなのですが、目の前におられる神の言葉を捨てるということさえできてしまいます。

 我々のこととして言い換えるならば、、、日曜日だけ礼拝に出席してあとは、ぜんぜん聖書とは関係ない生活をしている。それは聖書を捨てているという状態です。ユダ、祭司長、律法学者、長老と同じ状態です。彼らと変わらないことを行っているのです。

 しかし、必死の形相でこの書に取り組むとどうでしょうか。

 その人は神と出会います。ヤハウェと一体である、神の子イエスと出会うのです。そして、神の子イエスと出会って失望したという人を私は聞いたことがありません。

 ここに神の言葉があると信じて、聖なる書であると思い、取り組み、時に必死の祈りを捧げながら、断食祈祷をしながら、この書に取り組んでいった人で、期待していたものを得られなかったということを聞いた事がありません。

 いやいや、むしろ、そういう人は、期待していた以上のおそろしいほどの神の恵みを発見し、自分の体を神のためにつかってほしい、献身したい。神のための人生であって、それが自分の喜びである。喜びで満たされ、力で満たされ、聖霊で満たされていく。

 「わたしはある。」

 存在の根源である方が、主イエスであり、その御方がインマヌエル。神我らとともにありというお方です。

 ユダは、イエス様の中に神を発見できなかったのです。発見できていたのならば、裏切ることはできなかった。なぜ彼はイエス様を裏切ったのでしょうか。その理由がこうなんだと強調されて書かれているわけではないので、見過ごしてしまっている方も多いかもしれません。しかし、なぜ裏切ったのかということは言葉にされています。マルコによる福音書14章10、11節。

 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

 裏切りの引き金はお金であるということがわかる。このすぐ前の記事でも、ベタニアで300万もするナルドの壺をイエス様に割ってつかってしまった女性を、イエス様が咎めなかったという記事があります。なんていう無駄な金の使い方をするんだ。という会計係であったユダの思いがあったのではないかと私は想像します。このナルドの香油の出来事につずいて、金でイエス売り渡したという記事が、裏切りの引き金であったということが記されています。

 テモテへの手紙第一6章9節以下にこのようなパウロの言葉があります。

 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまな欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

 ユダは決して悪人の中の悪人という人ではありません。というよりもむしろ、使徒たちの会計を任されていたようなので。非常に信頼のできる人でした。しかし、彼は悪人の中の悪人ではないが、金への思いがイエス様より優勢であった時があったということなのです。金勘定がイエス様の思いよりも先に立ってしまったのです。

 ユダはお金でした。しかし、こういう神以上のものをつくってしまうという誘惑は、お金のみに限定できない話です。他のもの、親兄弟、子供、仕事、環境、家庭、恋人、仕事etc、どんなものでも、神への思いを上回った時点で、それが人の目を曇らせるということが起こります。普通の人がちょっとしたことで落ちていく、それが不信心という闇です。

 まっさかさまに闇の中に落ち込む、ユダのように、、、その前に、立ちかえるべきです。イエスの中に神を見る信仰に。唯一なる全知全能のお方の前に跪き、すべてをささげていくその地点に。聖霊を与えられ、満たされて力を得ていく歩みを。

 聖書を読む場が与えられている人は幸いです。立ち返りの道を神によって準備されている人です。

 裏切って裏切って、裏切りの自分に気付いた人は幸いです。神の心を傷つけてしまっているのですが、しかし、それでも裏切りの地点を示されたひとは神に帰っていけます。使徒がゲツセマネを赤裸々に描いているのは。それをまことに悔い改めの機会としたからです。こんなカッコ悪い記事、削除したいものです。しかし、彼らは削除しなかった。この裏切りこそが、自分が主イエスの愛に触れた瞬間だったらからです。

 ユダだって裏切った時点で心をあらためていたならばと思います。よく聖書を読んでいくと、ゲツセマネの園で、イエス様は弟子たちが逃げることをお許しになったことが分かります。ヨハネ福音書などはそうはっきりと書かれています。イエス様の意思で、弟子たちの命は助けられたのだと。そして、ローマ兵に切りかかったペトロが与えた傷も、イエス様は癒されました。ペトロがそれを原因に捕まってしまわないように。ペトロの罪を帳消しにするために、イエス様はローマ兵を癒やされたのです。

 裏切って、逃げていく。

 死んでもイエス様についていくと行っていた使徒は、ついていけない。その地点で、神様は悲しまれたことでしょう。しかし、もしも神を悲しませたという自覚が心に芽生えているのならば、その人は救われていきます。霊が生き返ります。

 神の思いにおもんばかる、目を移すことができていきます。

 その人は、もう一歩足を踏み出して、自分が全く生まれ変わるという、聖霊降臨の経験まで歩みをすすめるべきです。そこまで行かなければ弟子は何も変わらなかったのですから。使徒言行録1章4節以下。

 エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。

 もう一箇所。使徒言行録1章8節以下。

 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 回心(コンバージョン)が起こって、それまでの人とは全く変わってしまう。そういう大転換を経験できるのが、聖書を土台にした人の歩みです。

 逃げた弟子たちは、キリストが復活されてもやはり信じることはできませんでしたが。キリストご自身が、目の前に現れました。

 何度失敗してもキリストが目の前に現れる。そんな感覚を持っておられる方。明らかに主によって選ばれたお方です。すぐに立ち返り、聖霊を求めていただきたいと思います。アーメン。