マルコによる福音書14章66〜72節 「否むペトロ」

 ゲツセマネの園で600人あまりにローマ兵に囲まれて、逮捕され連行された主イエス。弟子は、主イエスを置き去りにしました。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません。」と言ったペトロは剣を抜いて兵に切りかかりましたが、しかし、結局は逃げたのです。真剣に、真剣という言葉があらわすように、ペトロは剣さえぬいて、神にキリストに従おうとしている。しかし、それだからこそ、その心の不徹底さと弱さが暴露されてしまいます。

 真剣に取り組む人は、衝撃を受けるのです。今も昔も変わりません。信仰の歩みは壁だらけです。それが聖書と取り組むということです。自らのあまりの弱さに衝撃を受けるのです。生半可な気持ちで取り組んでいるときは何も変化はない。

 「柔和さ」というのが真のキリスト者の徳の一つです。それは当然といえば当然です。神の前で徹底的にぺしゃんこにさせられるのですから。信じるものは、謙遜さと柔和さが必ず整います。神の前で死ぬとでも言ったら良いでしょうか。

 威勢よく信仰を宣言したけれども、イエス様が必死の祈りをささげておられるその横で寝てしまい、たったひとりのイエス様を置き去りにして逃げてしまう。それが使徒たちの姿であり、私たちの姿でもある。信仰生活を重ねているとつくづくと、そう思います。何度裏切れば気がすむのだろうかと自分を恥じる。

 そもそも、ペトロのような真剣ささえない自分がいる。主イエスは命を張っているのに。ペトロは恥ずかしい姿をさらけだしましたが、少なくとも命を張ると意気込み、少なくとも実際に行動しました。だからこそ、ローマ兵600人に対して単騎、剣を持ち出すことさえしたわけです。

 後のペトロの言葉は柔和さと謙遜さ、しかし神の赦しへの確信で満ちています。ペトロの手紙第一1章3節以下のペトロ直筆の言葉を読みたいと思います

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

 あれだけ大きな裏切りを犯した人ペトロです。私は、この記述を見ているとペトロの目がキラキラしていると思えてきます。希望に満ち、神の業に期待し、守りを確信し、平安の中にあることが見えてきます。

 神の憐れみはギリシャ語だとエレオス(憐れみ)という言葉で、困窮の中にある人をなんとか助けたいという意味です。ヘブライ語だと憐れみはラハミームといって子宮と関連している言葉です。ペトロは生まれるということもしるしているので、神が新しい自分を生み出してくださったという思いが強くあると理解できます。愛して包んでくださって、ダメだった自分を新しく生まれ変わらせてくださった。その憐れみを覚えよとすすめるのです。

 聖書と向き合い、そこで回心が与えられて、その人に変化が訪れる。人が新たに生まれるということが起こる。

 新しい人が生まれるという恐ろしく大きなことが起こるのが、キリストの弟子の共同体です。

 それまで、天のことを全然考えず、この世の財布が満たされることばかりを考えていた人が、この世の財布じゃなくて、天に富を積むことを考えて行動するようになる。この世で人から褒められることばかりを考えていた人が、終わりの時に神の前に立たされて、神からお褒めをいただけることを考えるようになり、人の言葉に左右されなくなっていく。自分の命を守ることだけを考えていた人が、復活の命への確信が強められて、自分の命を誰かのために投げ出すということさえできるようになる。

 人が変わるのです。

 ペトロがどうしてこういう思いになれたのかと言えば、イエス様の前で自分の恥ずかしい部分が全部暴露されてしまったからです。ぺしゃんこになって地にひれ伏すしかなかったからです。イエス様がおっしゃられたことが全部その通りになりました。マルコによる福音書14章30節。

 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 鶏が二度目に鳴くというのは午前三時頃のことです。一度目に鳴くころというのは午前0時頃のことです。ゲッセマネの園で祈っておられたのが午後10時以降のことでしたから、深夜の間に起こった出来事の中で、三度、知らないと言ってしまうとイエス様は預言されたわけです。そして、そのとおりになりました。

 しかも、この三度というのがどれだけ主の前に申し訳ない内容であったか。それを誰よりもよくペトロが知っております。こんなこと何で私が言ってしまったのだろうか、何度後悔したことでありましょう。しかし、この罪による痛みゆえに彼は、決して神の前に傲慢になることはなかったのです。どんな三度だったのか、見ていきたいと思います。

 まずペトロがいる場所ですが。大祭司カイアファの官邸です。イエス様が裁判を受けている場面。ゲツセマネの園で逮捕されて、カイアファの官邸までこっそりとペトロはついて来ていたのです。(ゲツセマネはヘブライ語でガット・シャマニームがなまった言葉で「油絞り」という意味があります。イエス様の命がここで潰されて、その潰された命から油が、すなわち聖霊が私たちに注がれるのだ、という含みがゲツセマネの園でイエス様がお祈りされた意味です。)ヨハネが一緒にいたという記述がヨハネ福音書の方にあります。ヨハネがカイアファと知り合いだったということによって、彼らは官邸の中に入れたようです。

 そしてペトロは遠くからどんな事態になるのか、恐れつつも、待っていたのでありましょう。

 しかし、そこで三度の否認が行われます。

 ペトロにとってこの出来事は試練でした。試練というのはギリシャ語でペイラスモスですが、これは誘惑とテストという意味があります。この時は、まさに信仰のテストであったわけです。

 イエス様に直接言葉を申し上げたのではない。しかし、イエス様を弁護してイエス様を知っていると証言するか、時を選ばず、どんなときでも。そういうテストがなされたわけです。

 これは他人の話ではありません。私たちに日々起こっていることです。どんな時でも、いつでも変わらず、キリストへの信仰を告白するかどうかです。

 この三度、一度目、二度目、三度目と、より主イエスへの背きの度合いが深くなっていってしまっているということに今日は注目していただきたいと思います。

 試練の中で、徹底的に自我の壁にぶつかって、それがあまりにもひどい状況であり、神から離れているということを認識せざるを得ない地点へと追い込まれるのです。そこではじめて人は回心させられるのです。大きな壁にぶつかって、ああもう私はダメだなぁと思っている時こそが実は神のお取り扱いがある時です。逆に、何事も順調で、何も言うことなしというときは、まだまだその時が来ていないのかもしれません。

 自我に死んで、そこからよみがえるという復活を経験しない限り人は生まれ変わりません。いつまでも中途半端なままです。

 まず、一度目のペトロの否認。マルコ福音書14章67節。

 女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。

 即座にペトロは自分がイエスを知らないと女中(女奴隷)に言った。この段階は、ただただ知らないと言っただけです。

 そして、二度目の否認。マルコ福音書では記されていない言葉がマタイ福音書の方には記されていますので、マタイ福音書26章71〜72節を読みます。

 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました。」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。

 ペトロは実は一度否認したあと、入り口まで逃げていました。群衆に紛れて自分が吊るし上げられないようにということでしょう。しかし、そこでもまた女中に見つかってしまいます。そして、ここに注目してほしいのですが「誓って」知らないと打ち消したのです。

 日本人の誓いへの思いってかなり危ういところがあるというか、信頼できないところがあります。私もちいさなときから、「命にかけて」約束するとか、何かと本気なのかふざけているのか、誓ってきた気がします。とても軽いんですね、日本人の誓いは。

 しかし、旧約聖書を読むとどうでしょうか。先週出てきました士師記11章のエフタは、誓ったことによって娘の命を捧げなければならなくなってしまいました。旧約聖書の民にとって神の前に誓うということは命がけなのです。もしこの誓いが嘘なら、神が私を打って殺されてもかまいません。ということなのです。誓いというのは、そういうテンションですから。そうそうしてはならないことです。

 ペトロは命をかけて、イエスを知らないと言ったということです。。。しかも、「そんな人は知らない」という言葉は「そんな男は知らない」もっと汚い言葉にすると「そんなやつは知らん」というぐらいに言ったということでもありましょう。ペトロは主である御方を、「そんな人、そんな男、そんなやつ」とまで、言ってしまったということです。主イエスを王として心から迎え入れている人には口がさけても言えないことでしょう。しかし、自分を守るために、信仰さえも犠牲にしました。肉の命が救われるために、命がけで、必死の嘘と、不信仰をささげてしまったということになってしまいます。

 さらに、三度目の否認。マルコ福音書14章71節。

 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。

 ガリラヤなまりの言葉を使っていることが周りにバレて、指摘されてしまいます。この状況でガリラヤなまりの人間といえば、もう主イエスの弟子だろうというあたりしかつきません。どんなに嘘をついたってバレバレなのです。しかし、それでも嘘をつく。しかもここで一つの言葉が付け加わっています。それは「呪いの言葉」です。

 何を呪うのかというと、イエスを呪うということです。呪うということは、神の裁きを受けよということを相手に告げるということです。すなわち、イエス様に対して、お前など自分が犯した罪の結果を自分で刈り取るが良いというな内容を口にしたということです。神に裁かれてしまえ。と、皆に詰め寄られて苦しめられているイエス様に言ったということです。さらに、それを誓ったのです。おそろしい内容を彼は口にしてしまったのです。

 もう、誰に何を言っても、彼は一生申し開きはできません。彼こそが裁かれるべき人間です。呪われるべき人間です。

 しかし、イエス様はペトロの方を向いて目をあわせてくださいました。ルカによる福音書にそれが書かれています。ルカ福音書23章61節。

 突然、鶏が泣いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。

 この目線はどんな目線だったでしょうか。怒りの眼差しでしょうか。失望の眼差しでしょうか。

 赦しの眼差しですよ。

 だから、ペトロは出て行って激しく泣いたのです。その赦しの深さに。裏切ることを知った上で、ペトロを迎え入れていてくださった。そして、ペトロを見てくださっていたのです。

 神の前で赦されざるほどまでに罪を犯す自分を見せつけられた人は幸いでしょう。己に死ぬしかありません。もうだめだと諦めるしかありません。しかし、その己に死んだ人を主は復活させられます。力に満ちたペトロの手紙の言葉を思い出してください。もう、自分を責めて、オレはだめなんだと言っているようなペトロじゃないです。神の赦しにすべてを託して、神の業にすべての期待をおいて、希望から希望に生きるペトロの姿があります。

 ここまでぺしゃんこにさせられた人が次々と希望の言葉を口にしています。大きな大転換。人間が変わってしまうことが彼に起こったのです。私たちにもそれが起こります。それが起こらないであれば、ここに集まる意味はありません。人は変わります。主の赦しに包まれている自分に気付いてください。アーメン。