マルコによる福音書15章6〜15節 「メシアへの死刑判決」

 筆頭の弟子ペトロが三度知らないと裏切ったとき、主イエスは赦しの眼差しをペトロに向けられました。ペトロは主のお姿を見て、大祭司カイアファの官邸から出て行って、泣き崩れました。赦しが自分に向けられていることを知り、胸を打って悔い、泣きに泣きました。この涙は悔い改めの涙でありました。

 後にペトロはキリストのために立ち上がり、偉大な働きをするようになります。主の前に、悔い改めて、再び立ち上がることができた人というのは何と幸いなのでしょうか。

 神の前に罪無しと言える人間などいません。ローマの信徒への手紙にこのような記述があります。ローマの信徒への手紙3章10節以下。

 正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。

 キリストの前に自分の姿があらわにされます。福音書に記されている罪人。その罪人と同じように自分も罪を犯してきたことに気付きます。ペトロはまさに自分自身の罪をうつす鏡なのです。

 ペトロはイエス様の眼差し一つで泣き崩れました。

 愛そのものである方の愛というのは、おろそしいほどに力強いもの。大勢の人に囲まれても、愛するものを愛するということに向かってその意識を徹底集中することができる。それが愛。周りのだれが自分を責めようとも殺そうとしようとも、救うべき人の方を向いて決して揺らがないのです。この愛が自分に向かっているのだということを、ここに集まっている私たちは味わうべきです。

 受難節の歩みの中、ゲツセマネの園での祈り、カイアファの官邸での裁判、ペトロの否認と順番に見てきました。この流れの中、イエス様を取り囲む群衆の心の中には、悪意や妬みが渦巻いておりました。おそろしい空気感、雰囲気の中、しかし、主イエスお一人が、御自分に与えられた使命にまっすぐに生きておられました。

 ユダヤ人の指導者たちの心の中には、妬みと、自己正当化の思いが常にありました。主イエスのなさっためざましい業、しかし、主イエスはユダヤ教の指導者を批判しました。民は主イエスへ心を向けていっていた。これらのことに全く我慢がならなかった。それは自分たちが築き上げてきたものが否定されてしまっているかのように感じたからでしょう。確かに、イエス様はユダヤ教の指導者のことを白く塗った墓と表現されました。マタイによる福音書23章27節。

 律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このように、あなたたちも、外側は正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

 愛ではなくて、自己正当化を動機としていますと、それは腐ってきて、やがて悪意へと変化する。そのエスカレーションがこの宗教指導者たちとイエス様のやり取りの中に見えてきます。イエス様はもちろん言うべきことは言われますが、しかし、あとは沈黙されておられます。

 頭数をあわせて、無理矢理に相手を悪人に仕立て上げる。などということは決して!なさいません。

 そもそも、善であり、愛であり、独り子であるお方が自己弁護をする必要をさえ、感じておられないこと。その姿を見て取れると思います。善なものは善なのです。それは何を言われようとも変わらない。だから、あえて申し開きもする必要さえ無い。本物というのはこういう者でありましょう。

 ゲツセマネの園で逮捕された時刻が夜中の12時頃でありました。ペトロが三度知らないといった時が午前三時頃、そのころカイアファの官邸で裁判が行われていました。そして朝になって、ユダヤ人の指導者たちは、主イエスに対して正式な裁判をしようとしています。合法的な体裁を整えるために、もう一度裁判をしています。その姿がルカによる福音書の22章66〜71節に記されております。

 「お前がメシアならそうだと言うが良い。」

 「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」

 「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ。」

これで、自分をメシアであると自称したとして冒涜罪が成立したと判決を下します。実際に刑を執行してもらうために、ローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに連れていきます。

 どうして、ローマ総督の下に連れていったのか。それはどうしても死刑にしたいからです。ユダヤ人には死刑を執行する権限がありませんでした。ローマによって剥奪されていました。ちょうどイエス様の時代の直前にその権限が無くなりました。このローマの決断がなければ、主イエスの十字架というものも無かった。ユダヤ人の処刑方法というのは石打の刑でしたので。

 神の驚くべきご計画のもと、キリストが十字架にかけられるということが起こった。

 木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。

 という申命記21章23節の言葉によって、呪いをその身に背負ってくださらなかったら、私たちの呪いが贖われることは無かったのです。呪いというのは神の厳しい裁きを受けなければならないということです。呪われよとは、神に裁かれよということです。

 ユダヤ総督ポンテオ・ピラトのもとに縛られて連れてこられます。その前に主イエスはすでに暴行を受けています。ルカによる福音書22章63節にその記述があります。

 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。

 ピラトはユダヤ総督です。彼はローマの法に忠実でありました。残忍な支配者として知られてはいましたが、不法なことを行う人ではありませんでした。過越の祭りの期間にはエルサレムに上って来ていました。というのも、祭りや人が集まるような時に、暴動が起きかねないからです。それを監視する役割がありました。

 ピラトは、主イエスが無罪であることを知っていました。彼の妻が夢を見ました。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分くるしめられました。」(マタイによる福音書27章19節)ユダヤ人が妬みから主イエスを殺そうとしているということも勘付いていました。だから、不法な裁判はしたくないので、ユダヤ人が要求する死刑は回避しようと思っていました。

 それで、なんとか責任を回避しようと、ヘロデ・アンティパスのもとに主イエスを送りました。しかしヘロデはただ主イエスを面白がって何の判断も下さずにピラトのもとへと送り返して来ました。

 そして、その後が本日朗読されましたマルコ福音書の箇所です。バラバという人が出てきます。ユダヤ人への懐柔政策として、過越の祭りの期間に囚人を一人解放する習慣がありました。このバラバと、イエス様とが二人ならべられて、どちらを解放するのかと民に問うたのです。もちろん、何も罪を犯していないイエスを解放すべきです。しかし、民はバラバを解放せよと叫びます。

 バラバという人は、強盗と殺人のかどで投獄されました。バラバというのは名前ではなくてニックネームのようなものです。バラバの意味は「父の息子」という意味です。彼の本名は、ヨシュアでありました。イエス様と同じです。イエス様もヘブライ語名ではヨシュアであります。イエス様は父なる神の御子です。バラバは父の子。そして名前は同じ。なんとも皮肉なことでありますが、このヨシュアの身代わりになってイエス様は十字架にかけられるのです。イエスの身代わりの死により、バラバは救われました。

 群衆はバラバを解放し、イエスを十字架にかけろと叫びます。ポンテオ・ピラトはこの時、その立場を追われそうになっていました。総督の職から降ろされそうになっていました。ですから、民が暴動を起こしたなどということになれば、自分の立場が危ないので、とにかく、法においてはイエス様は無罪と分かっていながらも、民の声をおそれて、死刑判決を出してしまったわけです。

 マタイ福音書27章24節には。

 水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしは責任がない。お前たちの問題だ」

 と記されています。自分には責任が無いと言っていますが、そんなことはない。彼が決断しなければ物事は動かない。ポンテオ・ピラトは後に流刑となって自殺したという記録が残っています。

 そして、この場にいたユダヤ人たちもこう言いました。マタイ福音書27章25節。

 民はこぞって答えた。「その血の責任は我々と子孫にある。」

 この箇所はもっと厳密に訳さなければなりません。その血の責任は我々と子たちにある。が正しい訳です。この箇所をもってきて、ユダヤ人は呪われた民であると主張するものがあらわれてきました。

 実際に歴史的な悲劇がそこらじゅうで起こりました。キリスト教徒がユダヤ教徒を迫害するというおそろしい時代です。

 しかし、神の裁きは神が裁かれ、神が決せられるので、人間が手を出してはなりません。この人は呪われている、我々が正しいものであって、我々が制裁を加えるなどということは決してしてはならない。

 紀元70年、実際神の裁きがくだり、ユダヤは国を失います。ユダヤ人は永遠に呪われた民となったわけではなく、罪に対する裁きをその時受けたのです。ピラトにも裁きが降り、このユダヤの指導者にも裁きはくださったのです。

 マルコ福音書15章15節。

 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 イエスを鞭打ったという一言がありますが、これがどれだけおそろしい鞭かということを知っておいてください。ユダヤの鞭とローマの鞭との違いを知ってください。ユダヤの鞭は多くの人が想像する鞭で革の鞭です。そして40回以上打ってはならないという決まりがあったので、人はこれによって死ぬことはありませんでした。もちろん非常に大きな痛みが伴うものです。

 それに対してローマの鞭というのはどういうものであったのかというと、鞭の先が一本ではなくて、何本にも分かれていて、その先に金属のギザギザのものや、骨や、貝殻のようなものが付けてあり、これで鞭を打ち込むと、簡単に人間の皮膚がさけて、筋肉が露出してしまうというおそろしい鞭でありました。これで殴られてしまったら、もうもとの状態がどんなであったか分からないほどに皮膚が破壊されていきます。

 イザヤ書52章14節にこのような預言の言葉があります。

 彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。

 イエス様のお顔もお体も、見る影もなく、ずたずたに破壊されてしまいました。こんなお姿でありますから、十字架を担ぐ時もよろよろと普通に立っていることはできなかったのです。

 どうしてここまでボロボロの姿にならなければならなかったのか、それは私たちの身代わりとなってくださるため。

 バラバの身代わりとなったのは、このバラバのように私たちが不思議にも釈放され、心が解き放たれていくように、どんな罪を犯していたとしてもそれでも解放されていくように、主が道を指し示してくださったのです。

 どういう理由でバラバが選ばれたのか、それは誰にもわからない。しかし、主は解き放とうと思う者を確実に解き放つ。キリストの十字架の歩みについて知ることを許されている皆様はその選ばれた人です。

 我々がとらわれから解き放たれて、神の子として、聖霊を受けて力にあふれて神の偉大な業を証しするために、キリストが鞭を受けられてこの痛みを一身に追われているのです。このキリストの思いを、受け止めるならば、その人は変わる。

 神を求めて生きるという霊の次元を回復して、その霊の次元で生き始めた人は、大きく人生が変わります。心も変わり、体も変わっていきます。目一杯主の愛を受け止めていく世界に生き始めると何もかもが変わります。

 実際の話ですが、ある人は主の祈りを祈り続ける生活を続けて、霊に神様のご愛が注がれて、それでさらに気力も増し、体も力を得て、寝たきりだったところが歩けるようになった。最近起こったことですが、起こるのです。

 身を裂くほどの思いを我々に向けておられる、その御方の方を向いて、その愛を受けることに集中していくのならば、そこに暖かな力が、光が与えられることは間違いない。

 聖霊を受けよ。キリストの身が裂かれ、潰され、その命から油(聖霊)が注ぎ出され、聖霊によって我らは変化する。

 キリストが裁かれ潰されていくところに、あなた自身の復活をみるべきだ。アーメン。