マルコによる福音書 15章33〜41節 「死して命を与える」

 棕櫚の主日です。当時はナツメヤシの葉を持って、ロバに乗ったイエス様がお通りになるところにひいて、忠誠をあらわしたのです。

 この世のことをわきにどけて、イエス様の前にただただ跪く時間を持てる私たちは何と幸いなのでしょうか。教会に足を運ぶようになってから、主の前に跪くだけで良かったのだと気付くまで私は16年もの時間を要してしまいました。

 主イエスのもとには、愛があります。この世が、この心が求めてやまないもの、愛があります。究極的に必要な唯一のものを受けることができる。そのために、ただただ跪くことです。跪く中で祈り、イエス様のお気持ちを受け入れていくことです。

 身を低くするものに、愛が注がれていきます。既に注がれているのですが、身を低くすることによって、受け入れる心が出来上がっていきます。

 特にこの受難週には十字架上の七つの言葉を復唱しつつ、祈りながら歩んでいただきたいと思います。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」

 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

 「渇く」

 「成し遂げられた」

 「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」

 七つという神様の数字を用いられて、言葉を残されました。ちょうど神の数を残される、主イエスご自身が神であられるということを指し示しています。聖書を読んでいますと、聖書の記述すべてに意味があり、数は髪の毛一本までも数え上げられており、そこには神の力とがあることが分かってきます。それを受け入れることができるようになりますと、自分自身に力が満ちてくるのを感じます。

 福音書、主イエスに関する記述、その全てに意味があります。どうか、それを御自分で味わい、その中に浸って、力としていただきたいと思います。

 受難週、主イエスが傷だらけの体を引きずって十字架への道を歩まれる苦しみの時です。しかし、我々にとっては逆。主の御苦しみを心に見ることによって、霊が復活していきます。主イエスの受けられた傷によって私たちは癒されるのです。神との関係を回復する、それはすなわち霊が回復するということです。

 この主イエスの愛に浸かり切ることによって、霊が生き返り。霊が生き返ると、心に力が流れ込みます。その結果、ダイナマイトのような力が与えられます。ギリシャ語で、力はデュナミスです。ダイナマイトのもとの言葉です。

 イザヤ書53章4〜5節にこのような預言があります。

 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。/彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼が受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 神が主イエスに負わせられた裁き、そのクライマックスと言って良い箇所が本日朗読されているところです。マルコによる福音書15章33節。

 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

 日中の最も明るい時間です。暗闇に世界が落ち込んでいくというのは、神の裁きが起こっているということです。出エジプト記の中にも預言書の中にも神の裁きが起こるとき、全地が暗くなることが記されております。天の父と、主イエスとの関係がここで絶たれてしまった。霊的に常につながっておられました。世界の始まりから一度も切られたことがない、その霊的な関係が切られてしまった。そして、全地が真っ暗になりました。

 その時、イエス様が叫ばれました。

 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

 午後三時です。過越の祭りのさなか、午後三時の神殿でささげられる、献げ物の時間に、主イエスは息を引き取られました。十字架刑でたった六時間で息を引き取るということは通常ありえません。イエス様が十字架にかけられたのは午前九時頃です。先程から申し上げていますように、起こったこと全てに神の意図、主イエスの意図、そして主イエスの支配があります。

 先々週のペトロの裏切りの時刻に関しても、主がご存知で主がご支配なさっていたことがわかりました。鶏が二度鳴く前に、三度知らないと言うであろうとおっしゃり。まさに鶏が二度鳴くと言われる午前三時頃に、ペトロは呪いの言葉を吐いて、主イエスこそ裁かれてしまえば良いのだと言ってしまいました。

 成り行きで起こっているように一見見えることもすべて主のご意思の中にあります。十字架刑でたった六時間で命が絶たれることは通常ありえないにもかかわらず、主が命を落とされたということは、そこに意図があるということです。御自分が息を引き取られるときまで、主イエスの意図がそこにあるのです。

 この午後三時というのは過越の祭りの時に、神殿で午後の捧げ物がささげられる時間でありました。その時間にあわせて御自分を神へのなだめの供え物としてささげてしまわれたということなのです。犠牲の小羊と御自分からなられたということなのです。ヨハネの福音書の中に以下のような言葉があります。洗礼者ヨハネの言葉です。ヨハネ福音書1章29節。

 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 さらにもう一箇所ペトロの手紙第一2章24節。

 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。

 私はこれまで、キリストの人性、キリストが人であったこと、人であり神であること。受け入れて歩んできたつもりでした。しかし、わたしは福音書の読み方というのはどちらかと言うと、キリストの人性に注目してしまう傾向が強かったのは否めません。例えば、この時刻を自分でご支配なさって、思われたとおりに、十字架にかかられたのだ。というよりも、キリストは無理矢理に人々につれられていって、ボロボロにされて、御自分の意思に反して十字架にかけられ、どちらかといえば、タマタマこの時間帯に十字架にかけられてしまったのだ。というふうに。

 しかし、一つ一つ、ユダヤ教の儀式のことや、習慣など、聖書に記されていることをつぶさに調べ、また時間軸についても頭に入れていきますと、どう考えてもこれはキリストの方がこの場を支配しておられて、御自分がなさりたいように、御自分の意思のまま、意図があってその時間を選ばれ、その時間に死を迎えられた。としか思えなくなってきました。

 それは、旧約聖書の神観を強く心に抱き生活をするようになって受け入れられるようになって来たことでもあります。神は時を支配し、時に人の罪さえも用いられて、御自分のご意思を達成される。その時の支配は不思議であるけれども、初めから最後まで、主のご意志が成っている。

 そして、たしかに主イエスの十字架の場面でも、主イエスが御自分から犠牲の小羊として捧げられていかれたのだということ。神の力によってその場を支配しておられるとしか思えないこと。普通だったら十字架刑でここまで早く死ぬという、ありえないことが起こっているということ。それらを通して、十字架は天の父の御心であり、キリストご自身の思いによってもこうなったのだということが見えてくる。

 キリストが神であれることが分かってきます。

 すると、キリストが十字架上で叫ばれた言葉も、以前とは違ったふうに聞こえてくる。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

 私は、この言葉は以前は絶望の言葉であり、それ以上でもそれ以下でもないと思っていました。しかし、聖書の注解書などにあたってみると、これは詩編22編の引用ではないかと言っているものもありました。それにもかかわらず、どうしても私は苦しみの中で叫ばれた叫びがまさか聖書の引用であろうかと、疑いをもっていたのです。それは、私がイエス様が人間であられて、その限界の内にとどまっておられるということにしか頭がいっていなかったからです。

 しかし、状況を支配しておられるキリストを受け入れるうち、これは確かに詩編の引用であるとしか逆に思えなくなってきました。

 そう受け止めて詩編22編を読みますと、これはまさにキリストご自身がお語りになりたいお言葉。神から与えられた預言の中の預言。永遠の昔から不思議にも神様がダビデを通して語らしめることをお決めくださっていた言葉であること。この時、キリストは、私たちに詩編22編の、ずっと通底して流れている神のご意志を私たちに伝えるため、詩編を叫ばれたのだということ。そして、主イエスの愛、そのビジョン、慰めを伝えるためにこそ、十字架上でこの言葉を引用しつつ、叫んでくださったことが分かってきたのです。

 詩編22編1節。

 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。

 6節

 助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。

 旧約聖書をはじめから祈祷会で読み続けて来た私たちには分かります。民が助けを求める度に神がお応えくださっていたことを。しかし、今、キリストを裁かれるために、神が沈黙しておられる。辺りは真っ暗となり、キリストに神との断絶というおそろしい裁きがくだっている。

 7節以下。

 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるであろう。」

 イエス様が十字架上で受けた嘲りそのものです。17節以下。

 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め/わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。

 ローマの鞭で体の骨が露出し、さらしものにされ、ローマ兵は着物をくじによってわけました。

 そして、詩編22編の最後は、全地に主の命が満ちていくことを預言しております。

 28節以下。

 地の果てまで/すべての人が主を認め、御みとに立ち返り/国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住むものはことごとく主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。

 

 ギリシャ語で命というのは、二つの言葉で表すことができます。一つはゾーエーです。もひとつはプシュケーです。プシュケーは西洋哲学でよく出てくる言葉ですので聞き覚えの在る方もおられるのではないでしょうか。魂とか、心とか翻訳されます。しかし、これも命とも訳せます。しかし、プシュケーはどちらかと言うと肉の命のことを表すのです。ゾーエーというのはまさに霊的な命、永遠の命、神のもとでの命のことです。

 キリストの十字架の後、その弟子たちは肉の命を失うことをおそれず、永遠の命を信じて。プシュケーに死んで、ゾーエーに生きる存在へと変えられていったのです。使徒たちを通じて伝えられたゾーエーはそこらじゅうに行き巡り、命が命を呼び、命に預かるものたちが次々と起こされて、その喜びと愛とが伝播していきました。

 この命は溢れて来る命です。生命の泉と表現されることもありましたが。まさに、泉なのです。無尽蔵に溢れだしてくる泉です。

 神の思いは、キリストを十字架にかけてまで、そこまでして私たちに命を与えるという目標に至るというものでした。赦しに赦しを与え、かえりたいと願ったものが絶対に帰ることができるその道をつけるためです。おそろしいほどまでに大きな犠牲が既に払われています。神のご意思の向かうさきは、私たちが命に溢れて、それがあまりにもあふれるものですから、隣人に伝播し、さらに、詩編22編31〜32を読みますとここまで書いてある。

 子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。

 子孫までそのあふれる命の泉が伝えられ、受け継がれて、それを語らざるにはおれない民が溢れていって、命が代々受け継がれていくというのです。

 キリストの私に対する眼差しがここまでのものであったのかと知ると、震えるほどに嬉しく思えてくるのです。代々、私の子孫たちが、イエス様のことを伝えてくれるというのです。この恵みが示されているうちに、この恵みを味わい尽くして、この恵みがこの心のみならず、体からも溢れ出すほどに、恵みに浴して、喜び勇んで進んでまいりたいと願います。 

 私が恵みであふれていれば、子孫は受け継いでくれるはずです。

 ここに集められている一人一人の心の命の内に泉があるかどうかです。

 この受難週、キリストの十字架上の七つの言葉。また、詩編22編。心に刻み。祈りに祈り続けて、聖霊を受けさせていただきたいと思います。アーメン。