マルコによる福音書 16章1〜8節 「震え上がる出来事」

 イエス・キリストは十字架にかけられ、金曜日の午後三時頃息を引き取られました。金曜日の日没の前(大体午後6時前後でしょうか)に、イエス様は埋葬されました。埋葬された墓は、アリマタヤのヨセフの墓です。彼はサンヘドリン最高法院の議員で財力がありました。当時のお金持ちの人が入るお墓というのは、岩山を真横にくり抜いて作る墓であるのが定番でした。庭のある豪華な墓です。

 アリマタヤのヨセフはイエス様のご遺体を引き取りに来たというところだけで出てきます。ということは、公に自分はイエスを信じると言っていなかったのです。というのも、もしも、最高法院議員でありながら、イエスをメシアと信じるということを公にしてしまったら自分の立場が危ないということはよく分かっていたから、秘密にしていたのです。

 しかし、この時、彼は黙っていることができずに、その内側からあふれる主イエスのへの愛をついに、行動にしてあらわしました。真の愛というのは、こういう内側から溢れてきて、その圧倒的な力にどうにもできないほどのものであります。アリマタヤのヨセフに神がこの時この愛の力を付与してくださったのです。

 アリマタヤのヨセフの墓で起こったことが、代々のキリスト者にとって、絶大なる力となりました。これがなければ私たちの力の源泉は無いと言えます。偉大な出来事。

 横穴の墓のイメージをしっかりと頭にイメージしていただきたいと思います。

 この墓をまずローマ帝国が封印します。これは土曜日に行われました。安息日です。マタイによる福音書27章65節以下。

 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。

 墓は横穴式の墓です。入り口には円形の石版がおかれ、塞がれます。中に入るときは、この石版を転がして入ります。しかし、この石版に、ロープをかけて、おそらくたすきがけにして封をし。ローマの印が押されます。印はロウによって、シーリングされます。ローマの権威によって守られて、絶対に誰も中に入れないように封印がなされました。もしこれを破って中に入ろうものならば、その人はローマの権威によって死刑です。封印を破った人だけではありません。墓を守れなかった兵隊も死刑に処されてしまいます。

 ということは、ローマの兵隊は命がけでこの墓を守っていたということです。  

 そして、次の日、墓に封印がされた土曜日、の次の日、日曜日の朝。起こったことが先程朗読された箇所です。マルコによる福音書16章1節。

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くため香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話しあっていた。

 墓を塞いでいた石版は、女性3人の力ではどかすことができないぐらいの大きな石だった。ローマのシーリングがされているはずですから、女性3人であろうが、男であろうが開けることは決してできないはずだったのです。マルコによる福音書16章4節。

 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。

 墓は何もしないうちに、既に空いてしまっていました。一体なにが起こったのでしょうか。その事の顛末が記されているのが、本日読んでいるマルコ福音書には記されておらず、マタイによる福音書に記されていますので、見てみましょう。マタイによる福音書28章2節からです。

 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 地震が起こりました。地震は重要な神の出来事が起こるとき、起こってきました。イエス様の死の瞬間にも地震がありました。そして、イエス様の復活の時にも地震が起こったのです。そして、天使が天から降って来ました。石をわきへ軽々と転がしました。そして、ローマの権威、ローマの力の象徴であるローマの封印を一瞬で軽く取り除けました。  

 神の力と、人間の力、神の権威と人間の権威との違いというのを、まざまざと天使は見せつけています。神の思いがそこに発動するのならば、神の権威があるのならば、人間などささっとわきにどけられてしまうのです。兵隊も何もするすべもなく。マタイによる福音書28章4節。

 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 腰を抜かして動けなくなりました。その後、本日のマルコによる福音書のところでは番兵はもういませんので、逃げ出したということです。

 これは、絶対に何をしても太刀打ちできないと悟って、とにかく兵隊は逃げたのです。

 そこに、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメが現れた。すでに石が天使によって、わきにどけられていました。マルコによる福音書16章5節。

 墓の中に入ると、白い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。

 イエス様のご遺体はこの墓にはすでにありませんでした。  

 イエス様は既に復活されています。イエス様は墓の入り口の石がもしもどかされていなかったとしても、外に出ることができました。というのも、復活されたイエス様の記事を見てみますと、それがわかります。ヨハネによる福音書20章19節以下。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこで、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたたちに平和があるように」と言われた。

 どこから入ってきたのか分かりませんが、イエス様は突然現れます。もう物質世界を飛び越えて、霊的な世界、神の次元における肉体を得ておられる。霊的な体と言ったりしますが、とにかくもう物質の世界には拘束されないような体になっていて、突然パッと現れたりされる復活の体を手にいれておられるのです。

 ということは、本日の物語の中に出てくるように、墓の入り口の石などどけておく必要はないわけです。イエス様が墓からでていくために、墓の石がどけられていたというわけではないということです。

 なぜ墓は開いていたのか。それは、この墓に来るものを墓の中に招き入れるためです。たしかにイエスが復活されている証拠を人々に見せ、復活を信じさせるためです。信じて、その結果、この弟子たちにも、復活の命そのものにあずからせるためです。

 イエス様のご遺体が無いということを通じて、神の業、霊的な世界を見て信じることができるようにと人々を導くためです。弟子たちを導くためにお膳立てがなされていたということなのです。

 天使が地震とともに分け入り、ローマ帝国の権威を粉砕しました。神の権威はそれほどのものです。弟子たちが信仰に至るために、道が整えられ、神の力、復活の事実に出会うことができるように、準備がされていたということです。

 復活のキリストと出会うように、皆様にも、神はお膳立てをしてくださっています。神様っていう方はにくいお方。気付かない内からそっと準備をされている。私など、20年以上生まれてから神様の業に気付きませんでした。

 天使たちを送って、なんとか私たちがこの福音と出会うことができるように。しかし、それに気付くまでには非常に時間がかかる場合もあります。結局気付かないということもありうる。その人の心次第です。

 しかし、神の準備は既になされているのです!皆様の上にも探そうとすれば、現在もある。あらゆる力や権威を打ち破って、神は皆様に近づいておられる。もしも、その神の接近に気付いて、福音の内容を受け入れて、それを受け止めるのならば、腰を抜かすほどに大きな恵み、震え上がるほどの喜びが準備されている。

 もはや肉の命が奪われることさえも怖くないほどに、神の力に信頼して、前へ前への人生を歩み出すようになる。それが使徒たちの姿であり。私たちの姿であるべきです。

 墓には女性だけではなく、後に弟子たちもやってきます。はじめに来たのは、ヨハネとペトロでありました。この二人の姿もぜひ心に刻んでいただきたい。特にヨハネを通して学んでいただきたいのです。

 ペトロは、イエス様が葬られる時に、そのご遺体を包んでいた亜麻布が置いてあるのを見ました。その記述はヨハネによる福音書20章6節に記されています。

 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

 と、ただ見たとだけ記されています。そして、ヨハネ。ヨハネはどうだったか。20章8節。

 それから、先に墓に着いていたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。

 ペトロの方は、ただ視覚的に見たという言葉がギリシャ語で記されています。信じたとも書かれていません。しかし、ヨハネの方は違います。悟ったという内容さえ入るような、心の中で見えないものさえ視覚するような、霊的な視野と言いましょうか。見て、イエス様において起こった出来事、神の力、それらを悟ったという言葉が使われています。

 悟ると、稲妻が走ります。震え上がるような出来事となります。人生がそこから変わります。力が与えられます。信仰が与えられて、力が与えられた人はどうなるか。マルコ福音書に記されています。マルコによる福音書16章15節。

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じるものには次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 イエス様がなされたことです。同じ業を行う力が弟子には与えられます。信じる力というのはそれほどの力です。アーメン。