創世記1章1〜10節 「天地創造」

 創世記は私たちに光をもたらしてくれます。光というのは神の秩序の事です。さらに言い換えると、神が世界を創造されたという世界観。この視野、見方がまさに光と呼べるものであります。この世界観によって生き始めるとその人の生き方というのは明確に変化します。神の守り、神の導き、神の力、神の栄光。「神が」という主語がそこら中に溢れてきて、神と共なる生を発見するのです。この事を実感し、生きていく時に、すなわち祈りをする時、祈りの場が、神が住まわれる宮、神殿となる。私たちは瞬時に神が住まう宮になり、祈りの賜物を行使することができるのです。

 1章1節が世界を創造した神の言葉です。

 初めに、神は天地を創造された。

 初めにというのは、物事すべての初めの初めです。宇宙のはじめのはじめと言ったら良いのでしょうか。なんと言葉に表していいのか困ってしまいます。しかし、文字通り、初めです。

 スタートが私ではなくて、神である。私はこの神がスタートされた世界に生かされている。私のみならず、世界全体、いや宇宙までもが、神が起点となられた、その世界に存在している。だからこそ、神の思いが行き渡っている。

 ならば、その神がスタートされた世界の中で神を知り、神に従い、神にひれ伏して歩む。これが私の歩むべき道である。

 自分がスタートではないと知って、頑固に自分にしがみつくことから離れて歩むことができたら。人生の視野が全く変わってきます。悩みのほとんどすべてが解消します。なんでこんなに私は深刻に悩みすぎていたのだろうとさえ思えてきます。

 宇宙全体を知らしめておられる神と、この私。私は、ゴミのように吹いて飛ぶぐらいの小さな存在だ、と知る。それだけで、人生の中の問題というのは、どれほどのことであろうかと思えてきます。

 初めに、神は天地を創造された。

 の「神」に注目したいと思います。この神というのはヘブライ語で「エロヒーム」という言葉です。エロヒームというのは「エル」という「神」という言葉の複数形です。えっ?複数?と思われる方もおられるともいます。唯一絶対の全能なる神を信じるのがユダヤ、キリスト、イスラムじゃなかったっけ?と。

 ヘブライ語の伝統で、尊厳の複数形という使い方があります。複数形にあえてすることによって、無限の力を持つ唯一の神という意味を強調するのだという理解です。ですから、複数形というのは唯一なる神であっても使われるわけです。それから、天上の天界の天使的な存在までも含めた、たったお一方だけではなくて、色々神が造られた霊的な存在がおりますので、その意味で複数形で天全体を表すようです。

 しかし、新約聖書を知っているものにとっては、キリストを知っているものにとってはもうひとつ別の理解ができます。それはヨハネ福音書1章1節から記されている内容です。

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 言というのはイエス・キリストのことであるとヨハネ福音書を読んでいくとわかります。イエスは天地創造のはじめから神と共におられたのだと理解できます。ということは、三位一体なる神をもうすでに意識していたからこそ、神を指す言葉がすでにエロヒームという複数形なのであると考えることもできます。

 とにかく、この神が複数形であるという言葉から見えてくる内容は、天的な神の世界があり。いわゆる天界という別次元の世界があり、そこには父、子、聖霊、そして天使たちがいるということが示されているということです。そして、その神の世界が起点なのだということです。

 視力をもっては知覚できない、見えない世界とのかかわりの中に、見える世界はあるということです。これは新約聖書ヘブライ人への手紙11章3節に記されている内容です。

 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 初めに、神は天地を創造された。

 天地という言葉は、天と地とを創造された。というふうに原文ではなっています。これはどういうことを表すのかと言えば。天、当時の人達のイメージは上へということです。地というのは下へというイメージです。一番トップから、一番ボトム。これはすなわち、全てということを表す言葉であるということです。あらゆるすべてが神の創造であったのだということです。創造というのは、バラという言葉が使われていまして、これは神だけに対して使われる動詞です。

 この世の一切のものは神とかかわりなく造られたものは無いのである。そういうメッセージが聞こえてきます。神の創造と無関係なものは一切無いのです。有る、在ると感じ、受け止めることができるものすべて、それは神の創造である。ローマの信徒への手紙にこのような言葉があります。ローマの信徒への手紙4章17節。

 死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。

 死者にさえ命を与えうる。無から有を造り出す。その御方を信じる信仰によって、信仰の父アブラハムを自らの父とする。すなわち神の民となるということです。

 神がスタートであり、神が主語であり、神の創造の力を信じる。これが私たちの信仰です。私たちが陥りがちな間違いは何かというと、この私がスタートであり、私にできることを私がするのであり、私の人生になど新しいことなど生まれるはずがないという間違いです。こう口にしなくても、こういう行動を取る人がものすごい多い。というよりも、よっぽど注意しないかぎり、このような発想になります。これは筋が通って理にかなっているように思えてくるのです。しかし、それでは、信仰を働かせているとは言えませんし、いわんや、神の力を体験することはないのです。

 神の力を体験する道は、神がスタートであり、神の創造の力を信じるという世界です。何もなくても、神が主語ならば、無から有を生み出せるのです。

 「先立つものを先に準備してから」ではありません。

 神が上から賜ってくださる志しさえあれば、信仰さえあれば、全能の神を信じることさえ貫ければ、神の創造の力が豊かに注がれると信じることができる。これが私たちのやり方であるべきです。

 しかし、そうなっていない。我々は誰よりも悔い改めなければならないのです。信仰が死んでいるのです。特に、牧師や役員会の面々は創世記1章1節を千回ぐらい復唱してから役員会に望んだ方が良いかもしれません。

 会計規模がこれぐらい、それに見合う働きを、その中でしましょう。などと言っている教会は信仰が死んでいる教会です。

 神がこういうコマンドを下さった。こんな使命を下さった。だからそのために私たちはこれをささげて行きましょう。そういう風が吹いてこないと、生きているとは言えません。

 これは人生全般に言えることではないですか。神がこれをせよと言ってくださっている。ならば、後先考えずに、信じて、信じぬいて、全く神の力によってだれもが諦めていたことを実現していく。そういう道を歩むのが信仰者です。

 信仰の父アブラハムについてヘブライ人の手紙はこのように記しています。ヘブライ人への手紙11章8節。

 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出ていくように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

 このアブラハムを人はバカだと言うかもしれません。しかし、このアブラハムの旅立ちによってイスラエルの民が生まれ、ユダヤ人が生まれ、キリスト者が存在しているというのは確かな事実です。クリスチャンだけでも22億5400万人です。神様はアブラハムに言われました。創世記13章16節。

 あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。

 神様がおっしゃったとおりになりました。神の約束だけを信じて、自分を捨ててしまう。信仰によってバカになったアブラハム。神の創造の力に溢れた歩みとなりました。我々信じるものは同じことを経験していくことができる。私はこれを信じます。神が創造してくださるのならば、砂漠に大河が流れる。もうダメだと思ったところにも命が溢れ出す。

 どうして神の力を体験できないのかは明らかです。信仰だけによって決断しないからです。様々な人間の知恵によって色々考えて、ああだこうだ理由を付けているから、神の力など働かないのです。

 神のご命令一本、志一本。このシンプルさに、自分を捨てて従った人を神が支えられるのです。

 2節以下を読みたいと思います。

 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 なぜ神の創造の段階で、混沌があるのか。これが多くの人にとって、大きな問いでありました。混沌という言葉は、トーフ(形がない、荒れ地)とボーフー(なにもない)という言葉で表現されています。荒れ地で何もなくなってしまっている。どうしてはじめの状態がこんな状態なんだと言う問いです。

 この問いに一つ答えを与えるとすれば、まぁ、そのように神がお造りになられたんだよ。というのが一つの答えかもしません。が、しかし、神の秩序と力、神の全能さ、神の善、神の愛。そういったことを心から信じる人にとっては初めが荒れ地でなにもないということは全く納得の行かないことなのです。

 そう考える人達が一つ出した結論が、この混沌な状態というのは、神の裁きが既に降った後のことであるのだということです。確かに、天使の堕落ということ、サタンの誕生、ということが創世記では語られていません。完璧な世界から自らの意思で堕落した天使サタン。そのサタンへの裁きという出来事があって、すべてが荒れ地となり何もない状態になってしまっているのだ。というのも一つの説明であろうと思います。後に人を誘惑する時に出てくる蛇が生まれたということがこの創世記の記述の前にあるのだと考える立場です。

 確かに、そうかもしれません。神は秩序の神、光そのものであるお方です。その御方が造られた世界がはじめのはじめからカオスであるというのは納得がいかない。

 一度堕天使への裁きによってダメになったものを、もう一度神が回復の業をなしてくださっているのだと理解していくのが良いと思います。

 というのも、この創世記が書かれた時代というのは、イスラエルのバビロン捕囚の時です。イスラエルの民が国を失っているその時分に書かれました。だから、もうダメになってボロボロになっているその世界というものが、実は彼らには前提としてあったわけです。

 神を否定し、神に従うことから落とそうとするサタンの力というのはおそろしいものでありますが、それらの力というのは、もう私たちの意識にのぼる前からあって、それが確かに前提である世界。さらにその力に何度も何度も負け続け、また今もその力に影響を受けざるを得ない世界。天使が神を裏切った後の世界であるということは確かであります。そして、その堕天使によって人間は堕落させられてしまい。神などいらぬ、自らの善悪を判断できるという自負によって自分で色々決断して、祈りを忘れ、堕落するということが起こっている。

 しかし、その混沌が支配する中で、水の面を神の霊が動いている。動いているという言葉はヘブライ語で「メラへフェット」、「羽ばたく」という言葉です。親鳥が卵をだいて、孵化させようとしているイメージです。水というのは、聖霊によって秩序ある命に変えられていく命です。大事に忍耐して、待って成長するのを待ちながら、神が育てあげてくださる。

 そして、3節。

 神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。

 言葉ひとつで神は創造をなさいます。まず初めに世界に与えてくださったのが、「光」でした。「光」は電気の明かりとか太陽の明かりとか、光源を意味する光ではありません。このはじめに創造された光とはどんな光かといいますと。その解説が使徒パウロによってなされています。コリントの信徒への手紙第二4章6節。

 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 光というのは神を悟る光、神の栄光を悟る光、キリストを悟る光。光が照らされてパッと何かに気付いて神の使命に立上がる。そういった時に注がれる神の光のことです。パウロがダマスコ途上で、キリスト者を捕らえようと躍起になっていたときに、光に照らされて神の声を聞いた。「なぜ私を迫害するのか」とその時、彼は自分がしていたことが全く誤りであることを悟ったのです。絶対的に正しいと思っていたことが絶対的に間違っている。ということを悟った。

 そういった神の前で回心(コンバージョン)して何かが決定的に変わってしまって、別の歩みをせざるを得ないような。そんな力強い神の光。これを、混沌の中に神は投じてくださるのです。

 主イエスを通して、神と結びつく道を与えられた私たちは、キリストの名によって祈る時に、神の光を体験させていただけます。そのためには粘り強く時間をかけて祈りに祈ることです。

 神がすべてを創造なされて、その秩序の中に自分があることを知り。神の導きを発見していく。

 聖書のはじめのたった3節の間に、実は信仰の髄が示されている。

 神が創造された世界に生かされていること。すべてが神と無関係ではないこと。それゆえ祈ることが第一であること。

 神は親鳥が卵を守るように一生懸命にその誕生のために労をとっておられること。

 キリストを悟る光が人に与えられて、この光を求めて祈り続けることによって新しい地平が開かれて、神の創造の力が発揮されること。

 あたらためて思います。やはり祈りしかない。祈りに献身し、己に死んで祈り続けるものを神は力で満たさないはずはないということを。アーメン。