創世記2章4〜9節「人間の創造」

 主イエスはある時言われました。

 「あなたが信じたとおりになるように。」

 ローマの百人隊長が部下の病を気遣い、部下の脳障害を癒やしてほしいと主イエスのもとに参りました。彼は、主が一言おっしゃってくださいすれば、どんなところに部下がいようとも、すべては主に従うと信じていました。人間の体も、病も。神の力をそのように信じることは真に正しかったがゆえに、その通りになりました。

 神との関係において、何をどう信じるのか。これが極めて重大でありまして。信じたことによって物事が変化する。主が「あなたが信じたとおりになるように。」という言葉そのとおりになる。

 とりわけ、自分がどんな存在であるのか。どういう人間であるのか。人間とは一体なんなのか。これを知り、祈ることによって、人が変わります。

 特に、創世記2章の7節は極めて重大なことが記されている箇所です。本日はこの箇所だけ記憶してくだされば良いと思います。

 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に生命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

 まず、前提の創世記1章と2章の知っておくべき内容を見ておきたいと思います。2章4節をご覧ください。

 これが天地創造の由来である。

 この由来という言葉が創世記には何度も出てきます。由来というのはヘブライ語で「トルドット」という言葉が使われていまして、由来とか、家系とか、系図とか歴史という意味があります。創世記はこの歴史について、そもそも我々はこういうものだったのだということを、代々引き継いでいくための書だということが、このトルドットという言葉が要所要所に記されていることから分かってきます。

 創造主なる神を信じるものたちのアイデンティティがこの創世記に記されているということです。

 2章の4節以下から始まる記述は。特に人間の創造。エデンの園。アダムとエバに関するものが記されていきます。創世記の1章は、非常に大きなマクロ的な創造の記述がなされて、今度は、エデンの園というある局地的な、ミクロな記述に移っていくという流れになっています。創世記1章と重なり合う部分もでてきますが、それは大きな視点から小さな視点にうつった事による重複なのだと理解してください。

 2章10節あたりを見ますと。チグリス、ユーフラテス川がでてきますので、これはメソポタミア地方周辺のことなのだなと分かります。イスラエルから東にある川が分かれている所です。現代のイラク周辺でしょうか。この何処かに、エデンがあったということです。そのエデンに神が園を造られて、人間が住むことが許されていきました。

 はじめの人間をアダムと言った。アダムは土の塵(アダマ−)で造られたからこそ、アダムと言いました。

 人はどのように造られたのでしょうか。形づくりという言葉が使われています。陶工が陶器を造る時に使われる言葉です。土で粘土をこねて焼き上げる。そういうことを連想させる。神は、この人をこう造りたいという意図をもって、そのように思いのままにおつくりになられたのだということです。

 ということは、この肉体、存在、すべてに対して意思がある。こうつくりたくてあえて主の意思でこうつくったという思いが必ずあるということです。陶器師は、造りたくないものを造るなどということはしません。

 ということは、創世記1章に創造の度毎に、「良しとされた」という言葉が残されているということの意味はとても深い。良しとされたというのは主が御自分で造られたものを見て「満足された」とも訳される言葉が使われています。

 一生懸命に形作って、ふぅっ、よくできたぞ。そういうイメージでしょうか。それは人間の土の部分、肉の部分、体に対しても言えることです。ということは、人間というのは出来上がった時点で本来は神から全肯定されるべき存在であったということです。

 そして、人間は。

 その鼻に命の息をふき入れられた。人はこうして生きる者となった。

 命の息については後ほど説明します。まず、注目していただきたいのは、「生きる者」という言葉についてです。これはヘブライ語で「ネフェッシュ・ハーヤー」という言葉なのですが、直訳しますと「生きている魂」です。ヘブライ語の魂って言う言葉。「ネフェッシュ」という言葉は特別な言葉です。日本人が想像する魂の意味を超えているような言葉です。

 というのもこの言葉は魂という意味にも訳せるし、いのち、願望、望み、喉(のど)とも訳せるのです。この訳語を並べてみてもわかりますが、この魂は、願望を持ち、望み、何かに対して常に飢え渇いているというものです。その飢え乾きが満たされるまで何かを求め続けるもの。それが魂であり、人間のこの肉の命であるということ。そういう意味が伝わってくる。ネフェッシュというのはそういう言葉なのです。

 言い換えると、常に何かに依存しないと気がすまないものということです。

 私はこのヘブライ語の魂の意味を知って、一筋の光が私の人生に走った。そんな思いがいたしました。

 思い出せば大学時代、英語の授業中に先生が「私はコーヒー中毒で、コーヒーがなければ生きていけない。人間必ず何かの依存症を患っているものです。」と言ったことを思いだしました。その英語の先生の授業は大好きだったのですが、その先生の授業は一コマだけだったので、名前が思い出せませんが、そのお顔とおっしゃられた時の情景は今でも記憶にあります。私はヘビースモーカーだったものですから、大学のベンチに座りながら、しみじみと自分のニコチン依存について思いをはせていたことを思い出しました。

 確かに、あの先生がおっしゃられていたことは正しいと思いますし、何かしら依存しないと生きていけないのが、人間の本質であったなどといことを今頃気付かされるとは思いませんでした。

 世間で自立、自律と叫ばれるのがよくわかります。そもそも、人間の存在、魂、命が依存的なものなのです。喉が渇き、肉体のみならず精神の渇き求め、何かを必要としている存在。それに体感的に気付いているからこそ、依存すべきでないものに依存してしまっていることを憂いているからこそ、自立、自律と叫ばれるのだと思われます。

 では、その「ネフェッシュ」、魂、飢え渇く喉、願望をもった人間は何に依り頼むべきなのか。それは神以外にありません。

 その鼻に命の息を吹き入れられた。

 この生命の息を吹き入れてくださる、神にだけに依存して生きる。これが人間の完璧な、あるべき姿であるというのです。これが聖書の伝える人間です。この吹き入れるという言葉にもイメージが伴います。炭火を起こして何か食べ物を煮え立たせる。そういうイメージの伴う言葉なのです。眠っている命を呼び覚まして、火が消えそうになっている炭火をなんとか風を送って火を燃え立たせていく。それで人間は神が願われた人間として生きることができるようになるのだということです。

 人が死ぬっていうことはどういうことかというと、この神からの命の息吹を失うということです。神が命を燃やそうと吹いてくださっていることを忘れて、それを拒否して、その中で生きないということです。言い換えると神との関係を断ってしまうということ。

 命の息を受けることで生き始めた人は、肉体が滅んでも、滅びません。もう、神との関係の中に生きているのですから。イエスというお方をその媒介者として、仲介人として、主イエスとの関係を心に持っている人は滅びません。ヨハネによる福音書11章25節以下で主イエスはこのように言われました。

 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 葬儀でまず一声目に私が常に読み上げる言葉です。

 神の息というのは、神の霊のことです。聖霊です。主イエスが人々を信仰に導き、その結果、聖霊を受けるようにと命じられたのは、死んでいた人間を、本来の人間の姿に回復するためです。

 神の霊という乾きを癒す命の水。魂が求めてやまない、命がもとめてやまない、このネフェッシュ・ハーヤー。生きる者、生きている魂。命。これが本当に必要なものは神の息であった。だから、福音書においてイエス様の御業が記され、その後の使徒言行録は聖霊行伝とも呼ばれ、聖霊を受けた者たち。本来の人間の姿を回復した者たちが、どういう歩みをするのかということが記されていくのです。

 使徒言行録1章4節以下。弟子たちに復活のイエスが告げた言葉です。

 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 神様の息吹によって、心にくすぶっている炎がボワッと燃え上がって、本来の人間の姿を回復して、あらゆる依存から解き放たれて、神にのみ依存して、それゆえ神からの力がその人に流れ込み。神の息吹によって燃える歩みがはじめられる。

 では、神に命の息を吹き入れていただき、命が燃え上がって元気になって出ていくためにはどうするべきなのでしょうか。

 という問いが出てきますが。その答えも既に与えられています。使徒言行録1章14節。

 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

 この人々の交わりに聖霊が注がれます。彼らはそれぞれ考え方や主張の違う、相容れないと言いましょうか、政治思想的に全く逆の発想を持っているひともそこにいた。しかし、祈りにおいてだけ、イエスの名のもとにだけ一致をして、彼らは心をイエスの名のもとだけに一つにしようと集まっていたのです。男も女も、身分の高い低いもそこにありません。ひたすらに主の御名によって祈り続けていたのです。そこに使徒言行録2章1節。

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、

 風が吹いてきました。神の息吹が、人を人として活かす神の霊です。五旬祭というのはモーセの律法授与を祝う日です。聖書を大切にするその日ですね。

 自分を捨てて、自分の主義主張に凝り固まるのをやめて、神の律法、聖書の前にひざまずいて、イエスの名による祈りにひたすら集中していた時、神の霊がその人々に望んだのです。これだけが、私たちが神が造られた人として、生きる上で大切なことです。

 祈りだけです。アーメン。