創世記2章18節―25節 「助ける者:女性の創造」

信徒説教:朴 孝憲

 先週私達は人類すなわちアダムの創造について学びました。今日の箇所はそれに引き続き女性の創造が書かれており、創世記1-27節に、男と女に創造された、という個所が詳しく再記述されている個所と言えましょう。

 神に造られた初代の人間は神によって備えられたエデンの園で生活し、神の創造の力が満ち溢れて、全身が光り輝いていたことでしょう。何故なら(出エジプト記33-23;旧150)神と何日か対話し神の栄光の後姿を見ただけのモーセの顔が光り輝いていたことはご存知でしょう(出エジプト記34-29)、初代の人間は神と直接対話していたのですから。

 その人、アダムのために、神は、創世記2章18節;独りでいるのは良くない、彼に合う助ける者を造ろう、と言われました。創造物語のなかで初めて良くないといわれたこの言葉は、悪いという意味ではなく不完全とか、完成していないという意味です。人として完成されるためにアダムには女性が必要だと、神はアダムのわき腹(Tzeila;原語ではあばら骨ではなく側面という言葉が使われているのでわき腹と理解するほうが良いように思われる)から女を造り上げられた。そして23節;ここは契約の形で書かれています、すなわち結婚は契約であることをあらわしていると捉えることができるのかもしれません、アダムは言います:ついにこれこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉。これをこそ女(イシャー)と呼ぼう、まさに男(イシュ)から取られたものだから。それはそうですね、自分の体の一部から造られたのですから自分と同じ、いや、合わせて一つの完成品といえるのではないでしょうか?続けて創世記2章25節に妻という言葉が出てきます、ここで初めて創造は完成するのです。

 ここまでで皆さんはどう思われますか?アダム、すなわち男を助ける者としてアダムの一部から女が造られ、創世記3章20節;アダムによってエバ(命)と名付けられた:多くの説教者がこれらのことより、男性は女性の上に権威あるものとして造られたので女性は男性に従うべきである、妻は夫に従わなければならない、女性は補助的立場に徹底すべしなどと解説しています。新約時代にもそのような議論が多くなされたようです、その結果として第一コリント11章11-12節;いずれにせよ、主においては、男なしには女はなく、女なしには男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。また、エフェソ5章33節;いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。とあります、いずれにせよというのは色々なこと、女が男のために造られた云々、が述べられた後の結論として書かれています。この当時のことを思えばこれは画期的なことでしょう、なぜなら女は男の所有物と考えられていた時代ですから、妻は夫の、娘は父親の所有物という時代にこのような教えは全く斬新な教えであったことでしょう。

 でも、今この時代では少し違うような気がします。男を補うための女だとしても、男は女とともにあって初めて完成品であるということは、男は、そして女もそれぞれを補うものであり、どちらが欠けても非完成品であるということであり、主従ではなく、相補う関係;対等な関係だと言えると思います。時計から針を取れば、車からハンドルを取れば、不完全なものであり機能を発揮できません。それと同じように夫婦は一つであり、それが完成品として神から備えられたものでしょう。人は、男と女として一つとなるのが神の摂理と考えられますが、サタンがこの世を支配するようになってからは様々な障害があるようです。

 最後にそのことを少し考えてみましょう、創世記2章25節;人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。とあります。夫婦お互い、そして神に対しても何も隠すことはなかった、堂々としていた。ところが善悪の知識の木の実を食べてからは自分を隠すようになります。

 蛇の言った言葉は全く嘘でした、創世記3章4-5節;神のようになることを望み木の実を食べた人は死ぬことになり、また、神のように善悪を判断するものにはなれませんでした。絶対的な正しさの判断は神のものであり人にはできません、人は自分中心の判断、批判を身につけることになりました。他の人を判断するということは自分も判断される、それはおのずから自分を他の人から隠すことになりその表れとしてイチジクの葉で腰を覆うことになったのです。また、人にまかせられたこの世界は、人がサタンに従ったことによりサタンの支配下に移ったのです。

 兄弟は他人の始まりともいいますが、お互いを隠すようになった夫婦はもはや他人と言えるかもしれません、皆さんはいかがですか?男と女が一つになり完成されるものとなった神の摂理がサタンの妨害を受けるようになりました。本来神が決められたのは、一夫一妻で助け合って生きることを良しとされました。なのに罪の入った人はどう行動するのでしょう?取って食べるなと命じた木から食べたのか、と神から尋ねられたアダムは創世記3章12節;あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。と答えました、罪が心に入った人間の言葉です。どうしようもないですね、もう夫婦関係も終わり。でも、私がアダムなら同じことを言っていたでしょう、神に問い詰められて逃げ場がありません。私を助ける者として神に造っていただいた妻が勧めるので食べましたと;エバが勧めたのは事実なのですから。私達は自分を守るために咄嗟に他の人を傷つける言葉を吐いてしまいます、最初の人アダムのように、また、イエスを否認したペテロのように。

 イエスキリストは主の祈りの中でこう祈るよう言われています、我らに罪を犯すものを我らが許すごとく、我らの罪をも許したまへと。私達に他の人を罪に定める権利が与えられているのでしょうか、私達に罪を許す権限が与えられているのでしょうか?そもそも我らに罪を犯すものをとはどういう意味でしょうか?イエスは裁いてはならないこと、7の70倍すなわち無限に許すことを命じられました。それならばこれはどう理解すればいいのでしょうか?私たちが、他の人がわたしたちに犯したと思っている罪を心に抱いている限り、私たち自身が罪の虜になっていること、それは罪を犯した他の人ではなく私達自身に良からぬことであり罪のストレスになっているので、私達は罪を許されたのだから他の人がわたしたちに犯したと私が考えている罪をもきれいさっぱり忘れてしまいなさいということであり、最初の人アダム以降私達は意図して、また、意図せず他の人に罪を犯す存在だから私たちが犯すすべての罪を許してくださいと祈るよう教えられたのではないでしょうか?

 最初の人から入った罪を、そして私達が日々犯し続ける罪を許し、帳消しにし、私たちが神の御許へ進んでいけるようイエスキリストは十字架にかかってくださいました。私達は常に十字架の血を心に刻み歩んでいかなければなりません。すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい、神が創造されたすべてのものによきおとずれを伝えなさいと主イエスは命令されています。