サムエル記上1章1〜20節 「母の祈り」

 サムエル記の時代というのは、宗教的に堕落した時代でありました。士師記の時代と重なっていますが、士師記の最後の結論部分には次のような言葉が記されております。士師記21章25節。

 そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。

 これは「神に従わないで、自分の目に正しいこと」という含みがあります。自分の目に正しいことを行って何がいけないのか。正しいことを行うのが人の道ではないか。たしかにその通りです。しかし、主イエスが私たちに教えてくださった人としての道というのは、天の父に従うということを優先する道です。

 人の正しさというのは、人と人との間に平和を造り出すことは実はできませんし、争いの火種となるということがしばしばです。夫婦ゲンカなど、お互い一歩も引かない正義と正義のぶつかり合いです。自分の正義をサヤにおさめるとケンカは止みます。ケンカの激しい炎が消えた後、主の前に跪き自らの否を認めると平和は訪れ。かつて以上に相手を理解し、相手も私を理解するという土壌ができあがります。

 人の間に起こってくる争いというのは、自分は正義を持っていると自認する人同士のぶつかり合いです。正義なる人と正義なる人との争いが戦争です。

 自分の主張を一つ後ろに回して、主に聞くという姿勢です。これが主がお教えくださった道です。

 神に従うという意識の欠如から、イスラエルという国自体が危ない状態にありました。宗教社会であったのに、その中心にいる祭司たちも堕落していた時代です。神を遠くに追いやってしまっていた時代でした。主に従うという核を失ってしまいました。

 そういう時代に小さな1人の人を用いて神が国を建て直していくというのがサムエル記の流れです。国という大きなものを建て直す起点となっているのが、小さな1人の女性の、小さな祈りによるものであるということをサムエル記は証しするのです。

 サムエル記を読むことによって、小さな1人の人の祈りが歴史を変えるのだということを学ぶことができます。

 1人の人が起点となって歴史が変わる。これは実はいつの時代でも起こっていることです。歴史教科書を見れば、明らかです。個人の名前が次々と記されています。さらに、聖書は、本当に誰からも注目されたことの無いような小さな女性に対して、信仰という視点でスポットライトがあてられます。単に何をなしたかなさなかったかというような業績を記すような仕方ではない描き方がなされているのです。私たちにとってはとても親しみやすいと言いましょうか、私たちと似た悩みで悩んでいる単なる1人の人を聖書は描くのです。悩みを抱えている人によって歴史が動く。

 本日特に注目したいのは、ハンナさんという女性です。この人はダビデ王を生み出したサムエルという人のお母さんです。サムエルは神の言葉を聞き民に語る預言者であり、民族的な指導者でもありました。サムエルがダビデ王を王に据え、そのダビデの末裔に主イエス・キリストがお生まれになられたわけです。

 母の日ということで、このハンナに注目しています。1人のお母さん、ハンナの祈りこそが実は歴史の分かれ目であったのだと言うことができます。

 ハンナには苦しみがありました。ご主人はエルカナと言いました。エルカナの正妻としてハンナが迎え入れられたのですが、長らく子供が与えられませんでした。もう一人ペニナという人が側室として迎え入れられました。しかし、ハンナにだけ子供が与えられませんでした。その様子がサムエル記上1章5節に記されています。

 ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。

 主がこれをなされたのですね。ハンナがまだ子供を宿すことが無いようにと。特別な事情があるから、胎が閉ざされたというのです。何が胎を閉ざす理由なのか聖書にははっきりと言葉にされていないように見えます。しかし、読んでいくとわかります。

 どういうことかというと、子供が与えられないという苦しみを通してハンナが祈りを主の前に注ぎだすようなりました。祈りに向かわせるために、主がなさったことであるということです。ハンナが特別な主との交わりを持つためです。一生をかけた対話の中に主がハンナを置きたかったからこそ、大きな苦しみが与えられたのだと理解できます。

 なぜ苦しみが与えられるのか。そのことを様々に説明できます。例えば、それは裁きである。というふうにも捉えることもできます。とういうのは申命記に7章14節にこのように記されております。

 あなたはすべての民の中で最も祝福される。あなたのうちには子のない男も女もなく、あなたの家畜にも子のないものはない。

 子供が増え広がっていくというのは間違いなく、神の祝福なのです。しかし、これを逆に考えると、子供が与えられないということはその祝福を失っている状態であるということ。すなわち神からの裁きを受けているからそうなっているのだという解釈がなりたちます。特に旧約聖書の民はそう考える傾向が強くありました。だから、ハンナはいじめられました。

 側室のペニナはハンナに辛くあたりました。ペニナには子供がいました。すなわち祝福されているという自負があったのです。だから、子供のいない、祝福されていないハンナは劣っていると考えたいたのです。

 しかし、実際はそうでは全くなかった。祝福されていなくて、劣っているどころではない、これを通してハンナさんは神と特別に語り合い、その恵みをいただく栄誉を受けたのです。

 コリントの信徒への手紙第一4章5節に使徒パウロのこのような言葉があります。

 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおの神からおほめにあずかります。

 パウロはまた「自分で自分を裁くことすらしません。」とまで言っています。何か一般的にネガティブな否定的な、苦しみがあったとしても、それもハンナが経験したように、祈りに導かれる要素かもしれないのです。だから、人間の視点からみてどうこう判断するのではなくて、すべてを通じて主なる神と結びつくことを優先することが大切なのです。善悪の判断よりまず先に、神との関係です。祈りに持っていくということです。

 自分で自分を判断し、落胆し、落ち込むということがどれだけ多いことでありましょう。多くの人の心の憂いの原因はここに起因しています。私も大学時代、大いに落ち込み灰色の時代をすごしましたが、その原因は、自分で自分を見限って、自分で自分を裁いていたことに起因します。自分自身にいらつき、悩むのです。こういうときには、もう人になんと言われようが言葉は耳に入ってきません。

 ご主人のエルカナはとてもすばらしい人でした。信仰心篤く、シロという神の臨在される幕屋がある場所に度々参って捧げ物をしていたようですし、子供がなく1人寂しく暮らすハンナを通常よりも二倍の量の食べ物とか、生活に必要なものを与えていたようです。やさしい言葉をかけてハンナを慰める人でありました。

 ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。

 私がどれだけあなたを大事に思っているか、気づいて涙を拭いてくれ。

 しかし、ハンナの耳にはその愛の言葉さえ届かないのです。10節。

 ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。

 誰の声も聞けなくても、すべてを神に打ち明けましょう。ハンナの素晴らしさはそこにある。誰の言葉を聞かなくても、主にだけは聞いた。心が固く閉ざされていても、すべてを神に打ち明けた。神に対しては何も嘘をつかなくていい。誰にも言えないようなことも、祈っていい。耳が閉じられて人のアドバイスや愛など受け入れられない状況であっても。とにかく、主の前で語って良いのです。すべてを極めておられるお方の前で、嘘偽りなき姿をもって祈ることができるのです。

 主の前で大事なことは偽らないことです。どんな祈りをしても良い。真実な祈りは必ずすべて聞かれます。時間はかかるかもしれません。思った通りにはならないこともあります。しかし、神が願われたとおりになります。しかも、人間はその恵みの前に跪いて、神のご判断を喜ぶようになります。

 ハンナは子が与えられた後、このように祈りました。サムエル記上2章7節。

 主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。

 すべては神の主導する力で、動く。貧しくされたのも、低くされたのも主の業。しかし、その同じ主の御手が私を富ませ、高めてくださる。そのもとに服する喜び。

 だから、祈りにすべてをかけて、祈り続けることが重要なのです。このハンナさんから私たちは学ぶべきです。主のご判断を喜び、受け入れ、そのうえで恵まれる。これまで子供が与えられなかったこと受け入れられなかったけれども、受け入れられるようになり、神のご介入を信じ、ここかしこにも神の業がと思えるようになった時には、ほしいと願ったものはすべて満たされていた。

 私たちはハンナから学ぶべきでうす。祈っているけれども、祈りで涙するほど言っているだろうか。真剣に主に信頼しているだろうか。期待しているだろうか。

 12節には。

 ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口元に注意して見た。

 と記されています。周りが「大丈夫か?」と思うぐらいに祈りに没頭していたとうことです。没頭する祈りをしているか。

 11節には。

 そして、誓いを立てて言った。

 と書かれている。誓いを立てるというのは、命がけの行為でした。願いを聞いていただくために誓いを立てて、それを自ら破ったら命が絶たれても構わない。というのが当時の人達の誓いでありました。11節。

 「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」

 僕(しもべ)の願いを聞いてください。もし聞いてくださるならば、神様のためにこの子を捧げますと誓ったのです。

 命がけで願いを立て、その願いが達成されたのちは、主の思いのままになさってください。こういう潔い祈りです。

 こういう誓いを立てて、祈っておっても、子供が成長し2〜3年経てば、もう自分の子として自分の思い通りにしたい、と思うのが常かもしれません。ハンナさんの素晴らしいところは、命がけで誓ったことは命がけで守るというところでありました。言葉を言葉どおり守るということは、時に難しいものです。しかし、彼女は守ることができた。というのも、彼女と神との関係は非常に近しく、常に祈っていたからにほかなりません。彼女はたった一時だけ、神に仕え、それ以外は忘れているというような人とはならず、祈りによって人生を立てあげる人でありました。

 だからこそ、自らの誓いに関しても徹底して守れたのです。自らの力でそれはできません。祈りの中で、神のご臨在によってそれが可能になります。

 ハンナは頂いた恵みを決して忘れないようにと、子供に特別な名前をつけました。サムエルという名前です。その名は神という意味だと記されています。神を神と呼ぶというのは当たり前のように思えますが、これこそが命なわけです。神を神とし、神の名を呼ぶというのは、すなわち祈るということです。神の名を呼ぶことができる。祈れるということは実は絶大なる価値です。ハンナは祈りによって自分の運命を変えました。ひいては国を変えました。ひいてはイエス・キリストの道備えをしました。ひいては異邦人である私たちへ道を開いたとも言えます。

 神を神とし、その名を呼んで、その方が応えてくださる。これを経験することは、この世にあるどんな力よりも強い。何もこれにまさるものはありません。

 ハンナも祈りの人、サムエルも祈りの人、この祈りの人によって歴史が開かれるのです。そして、主イエスも十字架のうえで、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。その祈りによって、私たちの赦しの道は開かれました。祈りによって道は開けるのです。歴史は造られるのです。

 たまーに祈って、また思い出したように、祈る。では、祈りの人ではありません。祈りの人というのは、祈りを最優先し、これにすべてをかけて、毎日を生きる人です。この人が歴史を造るのです。十字架の主のお姿をかかげて、十字架の主の祈りの力の中に、祈りによって人生を建てあげましょう。祈りによって歴史は動きます。祈りましょう。アーメン。