創世記3章1〜10節 「堕落」

 悪い部分を覆って隠して見ないふりをするよりも、それを見て、認めてしまって、新しい神の介入を待つ。勇気をもってそれができるのが、クリスチャンの特権だろうと思います。どんなに悪い状態でも神がおられるので、隠さず直視することができる。悪い部分があるのが分かっていながら誤魔化していたって何も良いことはありません。そもそもこの隠すということが最初の堕落と関係していることです。本日読んでいますアダムとエバの物語に記されています。神さまに罪を犯した二人は隠しました。

 隠さず、問題を認識し、物事の病巣に直撃できる勇気は、絶対者である神を信じる信仰から湧き出てきます。

 関係ないようで関係ある話なのですが。

 私の母は、12年前子宮の摘出手術を受けました。大きな腫瘍が見つかったからです。幸い良性の腫瘍でありましたから何も問題は無かったのですが。母の顔色の変化にその時驚いたことを覚えています。検査で良性か悪性かまだ分からない時は、すごく暗い顔をしていました。しかし、悪性ではなくて良性で、完治するものであると分かった時から、急に顔色が輝くように、表情も笑顔が見えるようになって、元気に「もう取らなきゃいけないところとっちゃおう」と言っていました。

 希望の光が見えている人と、見えていない人はこれほどまでに違うものかと思わしめられました。

 まして神の光が見えていれば、ダイレクトに病巣に直撃できる。勇気が出てくるのです。

 幸い、私たちはイエス・キリストという光を見せていただきました。この方に受け入れていただくのであれば、それだけで十分満足。そういう境地を発見しました。だからこそ、こんな私を主が受けいれてくださるからこそ、自分の病巣に勇気をもって直撃できる。問題の根本は一体なにかを見る勇気を持っている。特に創世記のはじめのアダムとエバの堕落の話は、罪の根本の話なので、どんな人も自分は無関係とはいえない真実がそこに含まれています。まさに病巣の中心を直撃する話であります。非常に痛い話でもあります。あぁ、まるで自分を見ているようだと思う話です。

 さて、人類の根本問題が描かれているエデンの園の物語りを見ていきましょう。四人の登場人物を上げます。アダム、エバ、蛇(サタン)、そして神さまがそこにおられます。

 アダムはまだ罪を犯していない状態でありました。この時から人間には自由がありました。神が絶対的に保証してくださるのが、人間の自由であることがわかります。もちろん無制限な無秩序な自由ではありません。神が許された中で、喜び楽しむ自由がありました。しかし、その自由は神を捨てて、無秩序に走るということさえできてしまう自由でもありました。

 私は、教会では人々の自由意思が徹底的に尊重されなければならないと思っています。すべてを貫いて、人間の自由を尊重してくださった神の思いが反映されているべきです。

 聖書を読んでいて、また教会の様々なイベントに参加して、自分がどんどん自由になっていっているなと感じられる時、それは神が聖霊の姿をもって皆さんにのぞんでくださっているからそう思うのでありましょう。

 逆に、聖書を読んでいてどんどん苦しくなっていくということがあります。また、何か足かせをはめられているようで信仰生活というのは息苦しいなと感じておられる時は、もしかしたら道を踏みあやまっているのかもしれません。

 神が愛の神であると受け入れられていない時に、手枷足枷感をはめられているような感覚に陥ります。

 それは、神と自分との関係がどうであるかで、変わります。これこそが実は人類の問題の根本の根本なのです。神との関係の問題が描かれているのがアダムとエバの物語りです。そしてすべての問題は神との関係に由来し関係するものであるということが、聖書から学ぶことです。

 神と人との間に深刻な問題を持ち込んだのは、サタンです。蛇と記されたサタンが出てきます。これが絶妙に人を混乱させる賢くも悪しき張本人です。知恵に満ちています。どう誘惑すれば人間がコロッと堕落してしまうか、よく分かっています。サタンとは堕天使のことです。神さまが創造なさった天使が、天から落ちた。それがサタンです。天使にも自由意志が与えられていたことがわかります。神は愛なるお方です。愛は相手を自由にし、相手が自らの心をもって帰り、共に歩むことを願うのです。

 しかし、その自由が堕落のはじまりとなってしまう。この悲劇が天使の歴史のはじまりでもあり、人類の歴史のはじまりでもあります。

 蛇というのはヘブライ語で「ナハシュ」です。青銅という金属は「ナホシェット」。この二つの言葉は語源を同じくします。蛇というのは、後に神の裁きによって地を這うものにさせられてしまいますが、この時は地を這ってはいませんでした。青銅という金属「ナホシェット」に似た言葉「ナハシュ」が蛇ですので、きれいな生き物だったのです。美しい輝く存在であったという含みがあります。というもの、女性であるエバは、この蛇をみても驚くことはなかった。怖がることもなかった。それは美しい姿で、現代のあの蛇のようにニョロニョロと這い回ってはいなかったからでありましょう。サタンはきれいな姿を装って、人間に近づき、もっともらしきことを言って、結果人間を堕落させてしまう恐ろしいものです。これは明らかにサタンである。などと人は認識できないでしょう。そこが怖い所でもあります。だから、私たちの身の回りにどういうものを通してサタンの力が入ってくるか分からないということです。

 美しい蛇の中にサタンが入り、人間を堕落させました。

 蛇の言葉が非常に狡猾であり、恐ろしくうまい、人間の心を弱らせる豪速球といいましょうか。効果ある言葉を蛇はつかいます。3章1節。

 「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

 と、神は何か不自由を人に押し付けるかのように、制限を加えるかのように、まるで人に悪意をもっているかのような言い方にして、そして疑問を投げかけていきます。神さまがおっしゃられた言葉は、2章16節です。

 「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 神さまがはじめにおっしゃられたのは、すべての木から食べて良いという許可であって、どの木からも食べてはいけないという禁止ではなかった。しかし、蛇は第一に禁止しか考えないようにさせるわけです。これは、神の善意に疑いを持ち込む言葉です。

 私たちは聖書を読んで自由を得ていくわけですが、人によっては、聖書なんかに縛られてかわいそうねぇとキリスト者を見る人がいます。イエス様の言葉に従うですって、まるで奴隷ですね。今の時代奴隷になるなんてナンセンス。自由にやりましょうよ。という人もいるかもしれない。こんなふうに露骨ならまだ良いです。

 聖書を読んで祈っているなんて、時間が勿体ない。そんなことよりも仕事仕事と思ってしまう。そんな自分の内に巣食う問題の方が厄介です。こういう状態も実はサタンにやられているのとほとんど変わらない。蛇の狡猾さの餌食になっている。

 神の愛に全てを託すということがまるで馬鹿馬鹿しいことであるかのように思わせる。神の自由なんて不自由だと、書き換える。

 そして、逆に超不自由な自分の罪にがんじがらめ捕らえられた人生に落とされていく。それがサタンのやり方だということがわかります。何かにしばられて不自由だと感じているならば、その人はサタンの手に落ちている可能性が高いです。神を中心に生きている人にとっては生きることは自由だからです。

 エバは蛇の誘惑にあっても、はじめはよく対抗しているように思えます。3章3節。

 「わたしたちは園の木の果実をたべてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

 全体的に神の言葉をよく聞いて、理解し守ろうとしています。しかし、一言エバの言葉に付け加わっている言葉があります。「触れてもいけない」という言葉です。蛇の言葉に押されて、禁止し制限し不自由を与えるという蛇によって提示されたイメージに侵食されつつあることがわかります。しかし、まだ罪を犯しているとは言えない状態ではあります。

 そして、その弱った信念に入り込み、蛇は言います。3章4節。

 「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」

 これは、すべて虚偽です。嘘です。人類が罪を犯したその原因となったものは嘘です。サタンはどんな嘘をついたのか。

 目が開けて、神のようになる。という嘘です。人が神になるということは絶対的にありえません。しかし、神になりたいという欲望をもって堕落したのがサタンです。堕天使です。サタンのやり方は、神の愛に疑問をなげかけ、神の言葉を虚偽によって否定し、神に従わなかった結果、よりよい結果が与えられるのだと嘘をつくのです。

 そして、このサタンの嘘に影響されて、善悪の知識の木の実を見てみると、3章6節。

 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。

 もう、完全に蛇の思いのままに動かされてしまっています。食べることで今持っていないものを手に入れることができるという欲望に負けてしまった。

 愛に疑いをはさみ込むとどうなるか。ヘナヘナで骨抜きになって、すぐに欲望によって愛はついえるということです。

 現代の若者が結婚に対して二の足を踏みがちだというのが理解できます。信じるということなくば、愛は簡単に壊れる。特に人間の愛は。

 信じて疑わずという地点に立たない限り、愛の継続は不可能です。疑い出したら、もう危ない。しかし、その疑わないという土台は一般につくりづらい気がします。神を信じていない人同士が相手を無条件に信じ、疑いを挟み込まず、信じ続ける、はもしかしたらかなり難しいのかもしれないと思います。

 エバは食べてはいけないと言われていた実を取って食べました。そして、一緒にいた男にも渡したと記されています。

 アダムは、実は傍観者として、この一部始終を見ていたのです。

 エバのようにサタンに欺かれて騙されてしまったというのではありません。自ら積極的に良いなと思って、エバのしている罪を選び取ったということになります。これは神に対する真っ向からの反逆です。頭(かしら)であるアダムは、エバよりも重く重大な罪を犯していると言えるでしょう。

 結果どうなったか。7節。

 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

 裸であることを知った。どういう意味かというと。そのあといちじくの葉をつづりあわせて腰を覆ったのですから、今まで裸であることは何も問題でなかったのですが。急に恥ずかしくなったということです。恥じです。隠さなきゃです。なぜ隠さなきゃいけないのか、後ろめたいからです。罪を犯したから。しかも、命の根源である神との関係を蔑ろにした。この自覚があるからこそ、命の源である生殖器を隠そうと思ったのです。

 命の源である神との関係に亀裂が入ったから、命の源である部分、生殖器を隠さなければ。すなわち、命の源に対して罪を犯したのだという自覚があるのです。命の源というのは神との関係です。

 しかし、神さまは罪を犯した人さえも求めてくださいます。3章9節。

 「どこにいるのか」

 神さまは全部知っておられるのです。それでも、どこにいるのか、なぜかくれているのか、愛するものよと、呼びかけてくださっています。神さまはどうしてこんなことになってしまったんだとアダムに聞かれます。するとアダムは応えます。

 「あなたがたわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

 先程触れました。この中で一番罪深いのは誰か。それはアダムであると。一家の頭として情報を全て知って、騙され欺かれているエバの姿を見ていながら、自分の意思で神に反することを選び取ったからだと。

 だから、本来なら、「すべて、私の責任です。」と言うべき場面です。しかし、アダムはエバのせいにしています。それだけじゃなくて、エバをわたしの近くにおいた、あなたこそが悪いのだとさえ言わんばかりの言葉をつかっています。

 私がこうなったのは、あの女のせいであり、また、この結婚を準備したあなたのせいだ。と言葉にはしていませんが、背後にそのような思いがあることが分かります。

 罪を犯したその張本人が、いつの間にか、自分はあの人から被害を受けたという話に変化させてしまう。

 疑いと嘘が入り込んで神を失うということはこういうことなのです。本末転倒、これこそがカオスです。

 実は、このような話というのはそこらじゅうで溢れている話ではないですか。疑いと嘘によって神を捨て、その結果周りに責任転嫁して生きて行かなければならなくなった。それは神を捨ててしまったからです。

 この罪の世に、神の御心を誰に何と言われようと変えず、まっすぐに神への信頼だけに生きた方。それがイエス・キリストです。エバはサタンに影響を受けてしまったけれども、イエス様だけが勝利なさいました。全く神の愛に疑いを抱くことはありませんでした。責任転嫁を次々と周りに撒き散らすのではなく、御自分が静かに犠牲となられて、贖罪の死を遂げられ、罪の力に圧倒的な勝利をおさめられました。

 あのお方と結びつくならば、罪に勝利することができる。罪赦されて、聖霊の力によって、使徒のように、雄々しく恐れず、剣を突きつけられようとも愛を曲げずに歩む力を得られる。神との関係が回復していれば、恐れる必要がない、隠れる必要がない。神の前にいつでも帰れるのです。力もいただけます、助けも常にいただけます。

 私たちはいつでも、イエスの名によって神の前に帰れます。主イエスの名による祈りをささげて、瞬間瞬間その力をいただきたいと思います。

 疑いと嘘によって神を捨て、その結果周りに責任転嫁して生きて行かなければならなくなった、そういう生き方は一切捨てて新しい歩みをはじめたい。アーメン。