使徒言行録2章1〜13節 「聖霊の洗礼」

 祈り、聖霊を受けて、出て行く使徒たち。実際に力があり、人を変えるのが福音です。人を変えなかったら福音とは言えません。コリントの信徒への手紙一1章18節。

 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です。

 イエス・キリストが残された言葉、一つ一つ。これを聞いて受け入れ、力に満たされていく。それが私たちの生き方です。

 使徒言行録は、そのはじめの部分で信仰のあり方というものがハッキリとしめされている、神の言葉です。使徒言行録のはじめ1章3節以下を読みます。

 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちの示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 福音書というのは、主イエスが神の国とはこういうものであるという教えをたくさんなされた書物です。神の支配の中生きるとはこういうことだぞと、信じるものの生きる道を指し示してくださいました。福音書を読みますと、神さまのお気持ち、神の支配というのはどういうものであるのかが見えてきます。この神のご愛の中で生き、祈りをもって過ごしていると、聖霊による洗礼を授けられるというのです。福音書の続きである、使徒言行録は聖霊による洗礼によってその語りがはじめられます。

 水による儀式としての洗礼、これは非常に重要です。この外形的なしるしが整わないと、私たちは新しい心を生み出す準備が整わないからです。しかし、もっと重要なことは、「心が変わること」です。心に洗礼を受けることです。霊による洗礼を受けることです。神の力に満たされるバプテスマ。バプテスマとういうのはギリシャ語で浸すという意味があります。神の心の中に私たちが浸りきるということこそ大事なことなのです。

 浸りきるということは、必然的に「長時間、祈り続ける」という行為となります。聖霊を受けた時の弟子たちも、使徒言行録1章14節に。

 心を合わせて熱心に祈っていた。

 と記されています。この時集っていたのは、使徒たちです。使徒たちは様々な背景を背負っていました。漁師、大工、政治活動家、徴税人。特にこの政治活動家と徴税人は犬猿の中です。ユダヤの国のために命をかける人と、売国奴と呼ばれていた人です。言うなれば真逆の人ですね。そういう人たちが心を一つにして祈りに没頭していました。

 預言書である旧約のエゼキエル書の中に「聖霊が注がれた人」の状態を記述している箇所があります。エゼキエル書36章26節以下。

 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

 心と霊というのは言葉の上では明確な区別があります。心というのは、精神性を生み出している所、意識のある所です。霊というのは、「神が命の息を吹き入れた」という言葉の中の「息」という言葉と同じです。「霊」は「息」と一緒。なので、「霊」とは神とつながりが持てるところ。交信できる部分のことです。

 だから信仰深い人のことを霊性の優れた人とか、霊性がある人とかそういう表現を使ったりします。ある人は霊を神と交信できるアンテナのようだと言う人もいます。

 「私には心と霊とは一緒に思えます」と言う人もいると思います。確かにそうです。心と霊とは重なり、また、肉体と心も重なっています。心も肉体の影響を強く受けます。ですから実はこの三者は分割することは難しい、心と霊と、肉体。どれも重なり、どれも互いに影響を与えている。

 神さまの霊が授けられるということは、その人の心が変わるということでもあります。石の心ではなくて、肉の心、柔らかい神の前に跪き、神から学び、また人の言葉も聞くことができる柔らかい心になります。

 神の霊が注がれないとそのような状態にはなりにくい。大抵人間は自分の経験に由来する「思い込み」によって心を硬くし、神の言葉も聞けなくなり、ましてや人の言葉など一切耳に入らない。そういう状態になり得ます。学ぶことができない状態ですね。

 しかし、神の霊が注がれると、霊は息とも訳され、風とも訳されますので、どこからともなくやってきて爽やかに何かを変えて、そしてまた去っていき、同じところにとどまるというよりも、常に運動し動き、喜びを運んでくれます。

 ひたすら主イエスの約束の言葉に期待を置き、それぞれの主義主張を一時わきにおいて。共に集まり祈り、時間を主イエスのために使い続ける時。主イエスの思いに浸されて、聖霊によってバプテスマされて、風が入り込み、心が変えられて新しく動いたものになり、その人自身が変化していきます。

 爽やかな神の愛が流れ込んでくる。そういう癒やしをいただける場こそが、教会であるということです。教会は建物ではありません。主イエスの名のもとに集まり、共に心を虚しくして、自分を捨てて、祈りにその命をささげている時に、神の霊によってバプテスマされる人の集まりです。それが教会。神の霊によってバプテスマされた人はどうなるのかというと。使徒言行録1章8節。

 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 聖霊によってバプテスマ(浸す)されると力を受けて出て行ってしまう。

 石の心が柔らかくなり、肉のようになると力を受けるのです。ストレッチとかヨガ。体を柔らかくするだけで、非常に心地良いです。マッサージを受けたら力が出て来るような感じになるのではないでしょうか。上津島周辺に手もみマッサージの店がありますが、ちょっとそのためにお金を出すのをケチって私は行っていないのですが。体がもみほぐされて、筋肉の可動域が増えるだけで、心が軽くなるということも大いにあります。しかし、イエス様の思いに触れ続ける祈りというのは、実はもっともっと、霊の深い所で、存在の深いところで私たちの凝り固まった考え方というかあり方を解きほぐして、暖かくして柔らかくして力を与えてくれますので、それは恐ろしいほどに人を解き放ち、力を与えるものです。ストレッチ、ヨガ、マッサージも良いですが、霊の満たしというのは次元が違う。人を新しくします。

 祈りにおいて聖霊にバプテスマされた人たちの姿が描かれているのが、2章以下です。本日の箇所となります。2章1節以下をもう一度読みます。

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 五旬祭というのは、ユダヤ教の祭りで、刈り入れの祭り、収穫祭です。しかし、いつの間にかシナイ山における律法授受を祝う祝日となりました。モーセの律法をいただいたことを祝う日。もっと平たくいうと、聖書の言葉を大切に、ありがとうございますと祝う日ということですね。

 聖書の言葉を大切にして、自分を捨てて、集まって祈っていると。聖霊が降った。しかも、その時、いろんな国の言葉が不思議な神の業によって、人々の口から出て来た。異言と言われますが、これはギリシャ語でグローサです。舌の言葉と翻訳できます。脳髄を通過せずに語りだされる言葉ということです。脳を通過しないで、舌だけで語りだされますので、本人は何を言っているか分からない祈りのことです。

 このグローサ(舌の言葉)が語りだされて、何がなんだか分からない状態に陥ったかと思いきや。驚くべきことに、人々が自分の故郷の言葉を話されているということに気付いてあっけにとられてしまったと記されています。秩序がそこにあったのです。

 このころエルサレムにはディアスポラのユダヤ人がたくさんいました。離散して各地で生活を建てあげた人々。その人々の願いは聖地であり、心のふるさとでもあるエルサレムに帰りたいというものでした。しかし、離散したユダヤの人々は各地で様々に悲しい思いをしてきていました。9節以降に記されている、異言(グローサ)によって語りだされた国の言葉の中に、パルティアという土地の名が出てきます。パルティアにおいてはユダヤ人が追い詰めされて迫害を受けて、ローマ総督ルキウスがパルティアのユダヤ人を軍事力によって守るようにという命令を出したという史実が残っています。

 ローマ帝国でさえ放置できないレベルの、ディアスポラのユダヤ人排斥運動がパルティアで起こったということです。

 それから、メディア、エラムという地名もみてとれますが。「メディアは病んでおり、エラムは瀕死の重病だ」と記された伝承が残されています。この伝承の意味は、ユダヤ人がその土地で結婚し子どもを産み、混血が起こり、正当なユダヤの血が汚されている。もうこの土地のディアスポラのユダヤ人たちは、ユダヤの伝統を捨ててしまった。血が汚れてしまった。すなわち死んでしまったのではないか。エルサレムを中心に住む人々が噂していたということです。

 迫害され、差別され、蔑まれた、ディアスポラのユダヤ人。この人々こそを神は覚えておられる。そのメッセージがこのペンテコステの時に起こった奇跡の出来事なのです。各国の言語で、ディアスポラのユダヤ人に対して、神は語りだされました。そのメッセージの中心は。

 「わたしはお前のことを決して忘れてはいない。」

 ということです。それが、各地の言語で人々が話しだしたということの意味です。

 ディアスポラのユダヤ人は、外国人からも蔑まれ、いや、外国人のみならず同胞からも実は蔑まれ、虐げられ、歴史の中に消えて行こうとしていた人たちであったとも言えるのです。

 その人達に、なんと神が、恐ろしい仕方で、語りかけ始めた。例えば、外国で全然日本語を喋ることができない外国人が突然、あなたの名前を呼んで、日本語で「神はお前を忘れていないんだよ」と話し出したらどうですか。

 恐ろしい。。。一生忘れられない。しかし、一生忘れられないしかたで「神はお前を忘れていないんだよ」と心に刻まれでしょう。

 一般的なユダヤの人たちは、間違いなくエルサレムを中心としたイスラエルの復興だけを待ち望んでいたはずです。しかし、むしろ、全世界へ出て行け、ディアスポラの離散した悲しい思いをしている人々を私は忘れてはいないぞ。異邦人を忘れていないぞ。死の影に座している民のもとに行け。と、神さまは使徒たちにお命じになられたのでした。

 みんなが思い込んでいる前提が、崩されてしまって、柔らかい肉の心を取り戻して、神の働きに信頼をして出ていく。心に、霊に清々しい風が吹いてきて、一新されて、力が与えられる。ここまでも神は私を大切にしてくださっていたのかと思い、フットワークも軽くなってくる。

 部屋に閉じこもって鍵をかけて、周りの人の目が怖くて、人前に立つこともできなかった人が声を張り上げて語りだします。使徒言行録2章17節。

 神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と、娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

 若者は幻を見、老人は夢を見る。

 というところに注目してください。若者は幻を見、という幻は、英語に訳すとvisionです。英語の翻訳が素晴らしいので、申し訳ありませんがお付き合いいただけますか。

 Your young men will see visions,your old men will dream dreams.

 ビジョンを見る。「具体的に進むべき道をしっかり見て行く」というニュアンス。若者はそう生きる。そして、高齢者はその若者の姿をみて、「もっともっと大きな夢を夢見てしまう」というニュアンスでしょうか。

 大きな夢っていうのは、実は小さな具体的なビジョンによって支えられています。目の前のことに全く足が着いた歩みをしていなかったらみんなが不安になってしまう。しかし、本当に地に足のついたヴィジョンを若者が見ていたら、つぎつぎと未来への夢が膨らんできます。

 祈りを重ね、聖霊を受けて、神の思いにバプテスマされていると、新しい神さまの願い、視野、ヴィジョンが見えてくる。若者は活性化してくる。すると高齢者はその光景を見ていて未来が楽しみでしかたなくなってきて、どうしても夢を抱いてしまう。

 聖書の言葉と、祈り。この武具を身に着けた弟子たちが皆経験したことです。私たちもと願います。アーメン。