創世記9章12〜17節 「契約の虹」

声に出す

 先週から、皆で声を出して聖書を読むことをしております。詩編第一編にこのような御言葉があります。これもご一緒に声に出して読んでいきましょう。

 詩編1編1節以下。

 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。/ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 昼も夜も口ずさむ人という、口ずさむという言葉は「黙想する」とか「思い巡らす」とも訳せる言葉「ハーガー」が使われています。声に出して、神の言葉であるこの言葉を告白して祈り、思い巡らすものに主は繁栄を与えてくださるというのです。

 神の言葉を声に出して黙想し、祈りをささげる生活をはじめてください。その人を神さまは決して見捨てることをなさりません。むしろ、繁栄をもたらすとまで聖書は教えてくれています。どうか、これを実行してください。

決して滅ぼさない

 わたしたち人類はノアの子孫です。神さまはノアに約束をしてくださいました。創世記9章11節。

 わたしがあなたたちと契約を立てならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。

 神さまは確かに洪水によって、地の面から生き物を一掃するということはもう二度としないということを約束してくださいました。感謝なことです。しかし、もう一つ聖書は伝えていることをも覚えておかなければなりません。それはペトロの手紙第二3章8節以下です。

 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔けつくし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。

 終わりの時は、洪水によってもたらされるのではなく、火によってやってくる。主が思われたその時。しかし、主の日は盗人のようにやってくる。それまで主は忍耐して待っておられるのだと。人々が悔い改めて神へ帰ってくるように。そのために終わりが遅延していっている。ということは、実はなすべきことの第一というのは、人を神さまに立ち返らせること。それをじっと神さまは待ってくださっているのですから。その思いに応えてこの身を使い。神さまの言葉である聖書を伝えて、聖書通りに生きる民を導いて行くのです。これが他の何よりも先にやらなければならないことだ。それがこの箇所を読むだけで分かってきます。

しるし

 神さまは人間に、神さまの愛がよく分かるように「しるし」を残してくださっています。契約の、約束のしるし。それが「虹」です。ヘブライ語で虹はケシェットといいます。ケシェットには弓という意味があります。弓というのは戦力ですね。戦力を置いた、戦わないという意味がこの虹のイメージです。

なぜ裁かれたのか

 神さまの憐れみと愛とが虹を通してしめされています。しかし、なぜ人間はノアの箱舟によって救われ、また、裁きを受けたのでありましょうか。ノアの箱舟はノアの家族にとっては救いでありましたが、他の家族にとっては裁き、滅びでありました。この原因に触れない限り、神さまの憐れみの深さを知ることはできません。

 人間が滅ぼされる原因となったのは、創世記6章にさかのぼります。6章1節を読みます。

 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。

 「神の子」、「人の娘」が出てきます。この言葉は解説を聞かないと何がなんだか分からないでしょう。普通の人間のように思えます。しかし、「神の子」という表現は、新約聖書の入ると、クリスチャンのことをさしたりしますが、旧約聖書においては特別な言葉であることを忘れないでください。この「神の子」というのは天使のことです。天使たちが人間の娘たちを見て、「情欲」の目で見て、妻としたのです。

天使の堕落

 そもそも、天使というのは、神という王の王、主の主に仕える霊であったはずなのです。ですから、人間の世界に行って人間と性的な関係を持ち子どもをつくる、ということは許されていることではなかった。しかし、当たり前のように、人間と天使との子どもが出来てしまって、そしてその子どもたちは、ネフィリムと呼ばれました。

 天使と言えどもここで出てきます神の子、天使は「堕落した天使」です。神のお命じに従わない。神の支配に従わない、良い天使は人間と関係をもって子どもを残したりしないんです。マルコによる福音書12章25節でイエス様はこのようにおっしゃられています。

 あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

 天的な存在でありますから。人間も天にいったら結婚はしないと言われています。ノアの時代、すなわち神さまの秩序が壊されてしまっているということです。神の支配に従わない、そういう堕落した天使と関係をもって、どんどん秩序が破壊されていってしまっている。だから神さまは一度、人を洪水によって滅ぼすという決断をなさったわけです。

罪とは?

 この話は、アダムとエバのエデンの園の堕落の話とも繋がっています。罪とは一体なにかという話です。罪とはなんですか?

 それは、善悪の知識の木の実をとって食べたということです。創世記2章16節以下を読みましょう。

 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 エデンの園というのは人間が自由に園のすべての木から取って食べることができました。恵みに徹底的に満たされた生活をすることができました。しかし、たったひとつ、神さまが禁じられたことがあった。善悪の知識の木からは食べてはいけないと。もしも、それを食べてしまったらどうなりますか。死ぬのです。 

 死ぬとはどういうことなのか、見えてきます。本来自分のものではないエデンの園にあるものを、自分の思いのままにしてしまった。神のものを我が物としてしまった。たった一つのことでありましたが、これをしてしまったことによって決して赦されない罪を犯してしまった。

 神のものを我がものとした。その垣根を超えてしまった。主人は神さまなのです。しかし、その禁を破ってしまったら、もはや主人は神ではなくなってしまう。人間は神を主(あるじ)として歩む。それ人間が生きているということです。死ぬとはどういうことですか。主を主(あるじ)とできなくなるということです。主人が主人である状態から出てしまったらもう生きているとはいえないんです。それがエデンの園の堕落の物語りです。

 大金持ちの人がいて、執事を迎え入れて、その執事が自分の家族、特に妻に対して悪さした、などということがあったら、その主人は怒り狂うでしょう。

 創世記39章には、ヨセフがポティファルという役人に仕えていましたという記事があります。その妻にヨセフが誘惑されてしまいます。忠実なヨセフはどんなに色仕掛けで迫られても忠実でした。ポティファルの妻は、自分の主人の妻であるので、主人のものであるので決して揺らぎませんでした。

 自分のものでないものを自分のもののように扱うという誘惑に彼は勝利したのでした。

 主を主とするということはそういうことです。

 その支配の中で、これは絶対にしてはなりませんということを大切に守り抜く。それは主の支配を信じるということです。

 イエス様がマタイ福音書においておっしゃいました。先週も一緒に読みました。マタイによる福音書6章33節。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 これは、あのアダムとエバが堕落する前のことを言い表しているとも言えます。神の国、神さまの支配と、神の義、神さまの正しさ、神さまが良しとされるかどうか、神がどうみておられるか。それらを最優先していくと、そのほかの必要なものは全て整えられるんですよ。ということです。確かに、エデンの園で、アダムとエバは物質的にも、霊的にも何の不自由もしていませんでした。神さまの完璧な守りの中にあって幸せでした。しかし、誘惑に負けて、主人のものを自分のものにしてしまいました。

 本来は自分のものではないものを、自分のものだとする。主人を主人としない、自分が主人となる。これが罪です。

堕落が連鎖する

 人と堕落した天使との間の子どもネフィリム。この人々が増えていくと、世の中はどんどん悪くなりました。というのは、堕落した天使の子どもたちでありますから、堕落したというのは主人を主人として扱わない、神への信仰が全然ない。そういう人たちが生み出していく社会を御覧になられて神さまはどう思われたかといいますと。創世記6章6節。

 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。

 というのです。その後も読んでいきましょう。7節以下。

 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。

 最後の文章、ノアのことについて記されていますが。口語訳では。

 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。

 と記されています。

 ノアにとって一番の恵みとはなんですか。それは「信仰」を与えられたことです。他の人がだれも主の言葉を信じない中で彼だけが、主のご命令をそのまま、聞いたままに実行していったのです。信仰の賜物が彼には与えられていました。それが主の前の恵みであり、主に好意を得る秘訣でありました。ノアに関してヘブライ人への手紙11章にまた記述があります。ヘブライ人への手紙11章6節。

 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。

 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。信仰のあるノアは神に喜ばれました。そして、神さまは特別にそのご計画をノアにしっかりと教えてくださっていました。ノアは恐ろしい洪水を乗り越えることができました。

どこまでも忠実に聞く

 ノアは洪水の後、水が引いてもすぐに箱舟から出てきませんでした。創世記8章13〜14節。

 ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。第二の月二十七日になると、地はすっかり乾いた。

 ノアが箱舟から出て来たのは、このあと主の言葉を受けてからです。地が乾いたのが分かったのは、その神の言葉の前の五十七日前でありました。地が渇いているのを確認できているのですから、すぐ出て来てしまうのが、人間のサガではないでしょうか。しかし彼は目に見える現状ではなくて、神のおっしゃることが全てでありましたので、神の言葉に耳を傾け、聞こえてくるまでは一切動かなかったのです。これが信仰であるということです。

 聞いて従うということを徹底していた。申命記6章3節にこのような言葉があります。

 イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。

 イエス様もこのようにおっしゃられました。マタイによる福音書7章24〜25節。

 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。

 信仰だけ。すなわち聞いて行う人を救われるのです。何ができるかできないかではない。信仰のみです。ペトロはこの洪水は洗礼を指し示すと説明しました。ペトロの手紙第一3章20節。

 この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。

 まっすぐに、聖書から神さまの言葉を聞きたい。耳をそばだてて常に聞いていたい。洗礼を受けたものはノアのように生きるべきです。ノアのように、神の声を聞けるように、主よ聖霊を皆に送ってください。アーメン。