創世記11章1〜8節 「バベルの塔」

罪の問題

 罪の問題から離れてしまうと、私たちは聖書を読むことさえしなくなります。罪という言葉に嫌気がさして、罪について考えないという人もいるかもしれません。しかし、罪の問題が解決されない限り、人は真に神が願われた姿の「人」として生きることはできません。「幸せ」は神が私たちをどう生きるように招いてくださっているかを知る時に、得るものです。

 罪の状態にある人間はどういう状態か。

 神が人間を何の目的のために創造されたかを知りません。

 カルヴァンが「ジュネーブ教会信仰問答」の中でこのように、人々に教えました。週報の裏面にも記しました。

 人生の主な目的は何ですか。

 神を知ることであります。

 神がどういうお方なのか知ると、どう生きれば良いのか分かってきます。それが聖書を通して神の言葉として私のこころに響く。この喜びはもはや何にも代えがたいものです。どんな厳しい言葉を神さまがおっしゃったとしても、その神の思いをそのまま聞いて受け止めていこう。自分の人生を神の思いのままに建てあげていただこう神とともに。ここからがスタートです。

 しかし、罪の状態にあると、神の思いが響いてこないのです。神とのつながりが切れてしまっているから、響かない。これが罪です。

ノアの物語りから示される罪

 前回ノアの物語りを読んでいまして。罪とは何かがはっきりとしめされました。創世記6章2節。

 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。

 神の子らというのは天使のこと。本来は霊的な存在であり、人間と性的な関係をもって子どもを設けるなどということはゆるされていない。しかし、その神が造られた境界線を飛び越えて、すなわち神の支配、主権を侵害して、神をしめだしたのです。神の支配を認めないと行動であらわして、自分が主人となって、自分のやりたいようにやると行動でしめした。その結果が、天使が人間の娘と子どもをつくったという結果を生み出した。いわゆるサタンとか悪魔とよばれるものは、堕天使です。本来は神のもとにいたんだけれども、反逆したわけです。それが悪魔です。

 その末裔はネフィリム(超人)と言われましたが、ますます神に従う信仰から離れていき、もう世界がカオスとなった。神の秩序がうち立たない状態になった。だから、神さまは世界を洪水によって滅ぼすという裁きを行われました。

 神の支配の中にあって、自分の思い通りにしてはならないものを、自分の思い通りにしてしまった結果、裁きを招いた。それが罪である。神のものは神に。

神のものは神に

 神のものは神にと思うためには、どうしなければなりませんか。神さまが人間の思い通りにしてよいものとそうでないものを分けておられるという事実をまず知ることです。すなわち、神の言葉を聞かなければなりません。アダムとエバがエデンの園で神さまと一緒に歩んでいる時は、その御声を聞くことができました。どんな声だったのかと言いますと。創世記2章16節。

 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 コレはダメだぞ。という御心を示してくださっていたのです。それを聞くことができた。神さまへ常に耳をすますことがあたりまえであった。これが堕落する前の人間の姿です。

 神の御声に耳を澄ます。これがなければ何をして何をせざるべきかなどという判断はつかないのです。祈りの中で、主イエスの御名の支配のもとで、自分に与えられた恵みを思い巡らし、家族、生活、環境、財、仕事、友人などの全てを主のご支配のもとに置いて、それらをどのようにすべきなのか。クリスチャンは祈りの中で示されます。

 そういう恐ろしいほどに大きな恵みを得ている。だけれども、主イエスの名のもとに帰ってこないのならば、祈らないのならば。一体自分がどこで罪を犯し、どこで裁きをうけ、どう歩むべきなのか。そういうことについての判断一切が自分ということになります。

すべての人は罪人

 だから使徒パウロは、全てのひとが罪人であると断言します。ローマの信徒への手紙3章9〜18節。

 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。

 「正しい者はいない。一人もいない。悟るものもなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」

 罪からの贖いとなり、犠牲となってくださった主イエス・キリストを讃美します。私たちは買い戻されました。だから、喜びとともに聖書に耳を傾けることができます。

リスタートを許された

 さて、しかし神さまは確実に民に裁きを加えられました。ノアとその家族以外皆が滅ぼされました。ノアだけが信仰に立って歩んでいました。

 救われたノアの家族、その末裔は生活を建てあげていきました。時間の経過とともに、ノアの箱舟がとどまった場所から移動していきました。ノアの箱舟はアララトという地方、今のアルメニアとかトルコがある地方から、東に移動しました。創世記11章の2節を読みますと。

 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野をみつけ、そこに住み着いた。

 と書かれていますが。これは少し翻訳がまずい。東の方に移動したと読むべきです。シンアルの地というのはバビロンのことです。箱舟の裁きから、エデンの園が神さまの手によって置かれた場所の近辺にノアの子孫は帰ってきたということなのです。ノアの三人の息子から出た人々は、先祖の土地に帰ってくることができて、そこから新しいスタートを切ることがゆるされていたんだよ。というメッセージを私たちはこの箇所から読み取らなければなりません。

 一度は神の支配を軽んじ罪を犯し滅ぼされた民が、再びリスタートを切ることがゆるされた。これが神の憐れみである。神の愛。キリストの十字架につながっていく神さまの思いです。私たちもキリストに出会い、キリストに従うことをもってリスタートを許されたものです。

神の命令

 リスタートを許されたノアは、神さまからどんな言葉を聞いたのでしょうか。虹の約束です。そして、また「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」という命令を神さまから受けました。裁きから救われた民がすべきことは、神が願っている神の言葉にしっかりと耳を傾けること。それから、その生活すべてを通して神さまに栄光をお返しすることです。溢れる程の恵みをいただいたから、お返しするということがとっても大事なんです。

 ノアの時代に動物の肉を食べることを神さまはお許しになられました。しかし、血を含んだまま食べてはならないとおっしゃられました。それは、命は神のものであり、その命は人間の思い通りにはできない。神の支配のもとにあるのだということを血を食べないということをもってあらわすためでした。命は血の中にあると聖書には記されています。この血を神にお返しすることで、動物の命をいただくことが許されたのです。

 新約時代を生きている私たちにとって、これは私たちの行動を制限する律法ではもはやありません。ガラテヤの信徒への手紙5章4節にこのように記されています。

 律法の実行によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。

 ユダヤ人ではなく、異邦人として召されたものたちは、律法を持っていませんでしたから、このような血を抜いて肉を食べるという習慣はありませんでした。私たち異邦人はただキリストへの信仰のみによって救われました。ですから、律法を実行しようとして生活を変えてそれによって正しいものと認められようとする必要はありません。

 しかし、この律法にしめされている神の御心は受け止める必要があります。人の命も、動物の命もその命は血にあり、それを人は自分勝手な思いによって好きなようにしては決してならないということです。天使と人間とが勝手に交わって命を生み出したというようなこともゆるされることではなかった。命は神の秩序のもと生み出されるのです。

 そして、神が願われた、人間に命を与えられた目的がありました。それは創世記9章7節。

 あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ。

 地球上に増えてどんどん広がっていけ。拡散していけ。という神の願いがありました。しかし、悲しいことに、再び人は神の心を無視することになります。

バベルの塔建設の理由

 バベルの塔がどういう理由で建設されたのか。聖書には一つ明確な理由が記されています。それが11章4節の言葉です。

 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

 全地に散っていくことがノアの子孫に命じられた神の御心でした。民は全く逆のことをしようとしています。バベルの塔がどうして天まで届くものになることを目指したのかというと、それは、一つは天に届かせて神のようになろうとした、ということが言えます。

 さらに言うならば、洪水によって滅ぼされたという過去がありますので、もう二度と洪水によって滅ぼされることがないように、水が届かないぐらいの建物を造ろうということであったということも言えます。ニムロデという人が塔建設のリーダーだったようですが。この人に関する歴史的な書物の記述によると、洪水に対抗するためだと書いてあります。さらに、その塔の一番上には、剣をもって天を威嚇する像が設置されたとの伝承もあります。ただ、ここらへんのことは、聖書に記されていることではないので、なんとも言えません。

 さらに、漆喰のレンガからアスファルトのレンガを使うようになったことにより建築技術の革新があり、その技術によって天を凌駕してやろうとの欲望が芽生えてきたとも読み取ることができます。

神の忍耐

 総合して言い換えると、人間力を集結し、唯一の神以外の神を自ら作り出し、持てるところのものでもって、全面的に神の御心とまったく逆の道を自ら造ってやろうと人間が思い始めたということなのです。

 私は、この人間の行動を御覧になられて、神さまはこころを深く痛められたことだろうと思います。というのも、「洪水によって滅ぼさない!」と神さまは約束をしてくださっていたわけです。虹を置いてくださって、ことあるごとに人間は虹を見ることが出来ていたはずなのです。私たちでさえ虹を見ることができます。神がケシェット、弓、虹を置いてくださって決して滅ぼすことはないと約束してくださったのです。

 しかし、その言葉を信頼できず、信じず、無視しました。無視した結果、また同じ罪を犯しました。人間の領分を飛び越えて、神の支配を踏みにじったのです。しかし、神は徹底的に約束を守られます。

 ここまで忍耐できますか。あんなに人間は痛い目にあったのに何も学んでいないんです。しかし、神は忍耐されて、約束を守られ、滅ぼしません。神さまはおっしゃられました。11章6節。

 「彼らは一つの民で、皆一つの言葉をはなしているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

 旧約聖書は神の憐れみが何度も重層的に描かれている神の言葉です。滅ぼすことはなさらずに、人々の力が分散するようになされました。

 神に頼る、神の力だけを信頼するのです。それが人間の本来のあり方です。しかし、人間は真っ向からそれに立ち向かっている。クリスチャンになってからもそういう生き方がずっと尾を引いている。ましてや神の言葉に耳を傾けるのを忘れた人は、神に頼ることなど選択肢にさえありません。

 人間が集結して、一致団結する必要はありません。むしろ散って人間の力ではどうにもならない時にこそ、人は純粋に神の力を求めます。人々が神の力をもとめ、それを経験し、神の栄光があらわされ、これは神がなしてくださったことなのだと確信し、神の栄光を神にお返しできるように、主が導いてくださいます。

 バベルのときに、言語をバラバラにされて散らばったということは、実は神さまの憐れみがそのまま反映されたことなのです。人間はバラバラにされてしまって悲しいな。ですが、神さまはバラバラにすることによって御自分の業をはじめられようとしておられます。私たち、ちっぽけな人間にしてみれば、言葉が違うということはなんという不自由を強いられたものだろうかと思うのですが、それこそが実は神の力を経験する神さまのお導きであるのです。

 理解しあえない、力を集結できない、なんだか不安である。なんだか私たちのこれから大丈夫なのかしら。そんな時にこそ、神は立ち返って来なさいというメッセージを私たちに投げかけてくださっている時。

 困難が立ちはだかる時にこそ、私たちは悔い改めのチャンスでありますし、神の言葉に真剣になるチャンスでありますし、ここで神が自分をどれだけ大切にしてくださっていたかというはじめに立ち返るべきポイントに帰る時です。

 困難は神からのものだとちゃんと受け止めていますか?

 あなたが神に頼るためのものです。

 困難は、神の約束に生きて、神のコマンドに従って、神に祝福された民として、神の栄光を表すチャンスなのです。

 キリストが命を捨てられ勝ち取られた皆様こそが、その民となり、栄光をこの世界に輝かせ。世界に出ていくことができるように、皆様を祝福いたします。アーメン。